奏とカメムシと 前編 その4
「チェックインまで、まだまだ余裕だ」
『早起きも、いいもんですな』
フンーッと大きく鼻息を吐きながら、お腹をポンポンと叩く奏。
「お土産、探そうか」
『うむ!』
お腹は充分に満足している。それなのに、今すぐにでも食べ歩きたくなるような飲食店やお土産屋さんが、目に飛び込んでくる。
まだ温泉街といった雰囲気はここにはないが、人で賑わう観光地。立ち並ぶお店一件一件が、興味をそそる。
城崎へかえる
喪失感を抱えて、ひとり城崎を訪れた女性。その喪失感を埋めてくれたのは、かつて城崎を訪れた母との思い出と温泉、そしてカニでした。
そう書かれたポップを見て、奏が手に取った一冊の本。
本物のカニの足みたいなコーティングがされていて、殻から身を抜くように取り出す面白い形状をしている。
湊かなえさんの作品が好きな奏は、迷わず購入することにした。
その後は、目的のひとつであった「大かにもなか」が、探しても探しても見つからず、少し肩を落とす二人。
城崎に来たら購入してみたかった、カニを形取った5個入りのもなか。
3個目に先に手を付けた方が勝ちだからね、給水は一回だよ!
なーんて言いながら、今夜、早食い対決をする予定が早くも崩れてしまった。
普段は見ることのない、生きたままの立派なカニが目に入り、足を止めて立ち寄ってみた一軒の魚屋さん。
『大きいねぇ、生きてる?』
「うん、生で食べてみたい」
店内には、今朝仕入れたばかりであろう魚介類たちや、様々な加工品がズラリ。そのうちのひとつ、持ち帰り用に加工包装されている魚介類を、僕は手に取ってみた。
「それはハタハタだよ」
凄く人の良さそうな、奏好みの膨よかなお母さんが声を掛けてきてくれた。
「皮が薄くて脂乗りも良いし、干物や塩焼きで美味しいよ。そこにある骨ごと漬けた南蛮漬けも良いけどね」
確かに焼いたら美味しそうだったけど、日持ちしないと聞いて断念。
「そっちは鯖のへしこ。ぬか漬けにしてあってね。ちょっと辛めだけど焼いた時に脂も出てきて美味しいよ。お酒のあてにはいいよ。それなら日持ちするしねぇ」
奏の表情が「へしこ」に反応しているのはすぐに分かった。
ツボに入ったな。
お母さんの説明はそっちのけ。その3文字の響きに噴き出しそうで、うずうずしている。
大月家のお父さんお母さんは、お酒が好きだから、お土産が決まりそうだ。
『ひとさん、ひとさん・・・』
「へしこ」
『ぷははははは!』
『へーしーこー。へーしーこー。へしっこはーげーんきー』
「先生、新曲ですか」
『うむ!』
活気溢れる温泉街は、旅館到着後の楽しみにと、あっさり横切り、ひたすら歩き続けること数分。
辺りはすっかり静かになり、少し遠いなと感じ始めた頃に、今夜の宿は見えてきた。
自然と心が躍る旅館の二文字。見るからにといった風情ある外観に『おおぉ』と思わず口に出す奏。
店頭には、番頭さんらしき人物がすでにこちらを目視して立っており、遠目からでもにっこりと微笑んでくれているのが確認できた。
「こんにちは。予約した大月です」
「お待ち致しておりました」
入口脇には「大月様」と達筆に書かれた看板がお出迎え。
『おお!なんかテンション上がる!』
「だと思って予約した」
奏の反応に、クスッと笑う番頭さん。
玄関をくぐると、絨毯ではなくフローリングでもなく、見渡す限り一面の若草色。
「どうぞ、素足でお上がり下さい」
仄かに香るお香が、また癒される。
『スリッパじゃないんだね』
「廊下が畳って凄いね。素敵なとこかも」
受付をスムーズに進めていると、
「奥様。当館では、こちら通常の浴衣の他に、様々なレンタル浴衣を御用意してございますが、いかがなさいますか?」
『ハッ!』
奥様に反応して一瞬固まる奏。
表情はまんざらでもない様子。右手で左の肘を軽く覆うように手を当て、左手は頬辺りに持って行く。
突然の左手薬指アピールに、横にいて噴き出しそうになった。
奥様は、畳の廊下が凄く気に入ってくれたようだ。
『床、温かいですね』
「はい、床暖房を敷いております。ですが、お金が無くてですね、あちこち壊れておりまして、一部機能していないところがございまして」
素敵な中庭をぐるりと囲むように設計された廊下を歩きながら、内部の懐事情をいともあっさりと暴露してしまう番頭さん。
彼に部屋までを案内してもらう。
「今年はカメムシが異常発生しておりまして、旅館の至る所で見かけるかもしれませんが、もし見付けましたら、お教え下さい」
部屋の扉を開けると、まずゆったりとした踏込。その奥に広がる部屋の窓際には、
写真で見るよりも素敵だと、奏の笑顔が語っていた。
「それでは御用の際は、いつでもお申し付け下さい」
お茶菓子や館内案内が置かれているテーブルにも、分かり易くカメムシの注意書きが置かれていた。
「よっぽど異常発生してるんだね」
『さぁ、着替えて温泉行こ。温泉!』
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