奏と恐怖の一滴と その3

 奏の帰宅時間がいつもより早い日。18時とか19時とか。そんな日は、雨さえ降っていなければ駅まで迎えにはいかず、料理に専念する。

 今夜はカロリー気にしなくて大丈夫なんだ、万歳!

 鍋にお湯を沸かして、十文字に切り込みを入れたトマトをサッと湯通し。皮を剥いたら、ざっくり角切り。お湯はパスタを茹でるのに置いておいて、ここから先は、奏がお風呂に入るタイミングで仕上げる。

 だが今夜は、自慢の料理を紹介できなくなるほどに、騒がしくなる我が家。このまま最後までいっちゃいましょうか。

 フライパンにオリーブオイル、にんにく、奏も食べるから唐辛子はおあずけ。弱火で熱して、にんにくの香りが立ったら中火であさりを放り込む。軽く炒めたら、白ワインなんて洒落たもん我が家にはないので、料理酒で代用して蓋をする。

 パスタを茹で始め、あさりの口が開いてきたら、下ごしらえ済みのトマトを加えて、軽く塩こしょう。

 あさりから出る出汁だけで、ほぼ完成のパスタだが、トマトの酸味がアクセント。

 うむ。美味である。


 ガチャ、ガチャ、ドンッ!


 ・・・


 鍵を開けたんだ。

 確かに開けたんだけど扉は開かなくて、

『えっ嘘っ! 一日中開いてたのっ!』

 と、焦りプチパニックに陥る。

 僕が中にいようがいまいが関係ない。右か左、どっちに回したら施錠で開錠かも分からない状態のまま、なんとか毎日の感覚だけで鍵を開ける音がする。

 奏だ。笑。

 たまに開錠し切ってなくて「えっ!」て焦る時は確かにある。


 ガチャン、ガチャ、ガチャ


「おかえりー」

『たらいまです』

「ん? どうした?」

 なんとか玄関の扉を開けた奏は、右目を押さえながら、半べそをかいていた。

「投身自殺されたか?」

『痛いよ・・・』

 なんで虫ってやつらは、目の前をちゃんと見て飛ばないんだっ!

 しかもよりによって決まって目に飛び込んでくる。たまに口に。あいつら一発で免停ものだ!

 奏は電車の中で、ずーーーっと怒りに打ち震えていたようだ。

 ちゃんと前見て飛べよ!

 脇見飛行すんじゃねぇよ!

 お前まだそこにいるから見えてんだろ?

 僕だって動けません?

 被害者ぶってんじゃねぇよ。おめぇより、こっちの方が痛ぇんだよ、足バタつかせんじゃねぇよ、おいコルルルルラァ!

 心の中で巻き舌が凄い・・・

「マジか。僕も今日の帰りに左目やられたよ。どれ見せてみ?」

 本当に偶然で、僕も帰宅途中、左目に飛び込まれていた。

 調べてみたけど、あえて目を狙って飛び込んでくるやつもいるらしく、そいつらは寄生虫を生み付けるんだとか・・・

 調べなきゃよかった。かなり怖い。

 今これを伝えると、間違いなくパニックになる。

「ほれ、手ぇ放せ」

『痛いもん』

「見えないべさ」

『うぅ』

 右目の目頭に、ハッキリと黒くて小さい虫が確認できた。

 丁度、調べて出てきた虫っぽい。寄生虫か・・・ゾッとする。でも、これなら目薬をさせば簡単に流れ出てきそうだった。

「目薬さしてあげるよ」

『やだ怖い』

「んじゃ、ずっとそのままだぞ」

『・・・』

 リュックを下ろし、手洗いだけ済ませた奏は、仕方なくベッドに座る。

「目ぇ自分で開ける?」

『うん』

 開けてはいるけど、怖くて体を前後に揺すり、足をバタバタさせている。

「動くな」

『だって痛いもん』

「ほっといた方が痛いでしょ」

 一瞬大人しくなり、観念したかな? と思いきや、

『ぃぎゃああああああああ』

 と、叫び声を上げ、体を丸める。

 まるで仲間を呼び寄せるかのような雄叫び。

 だが目薬からは、まだ一滴の雫も落ちていなかった。

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