奏と進撃の責任感と その3
慌てて携帯を取り出し、画面が割れそうなくらい睨み付け天を仰いだ。
『まじかっ!』
13時から病院? えっ? 会議は?
珍しいミス。会議は来週の予定。夕べも今朝も、一週間を勘違いしたまま確認していた。
少々お疲れ気味の奏。電車通勤の中で、ゆったりリア充に浸っている場合ではなくなり、心拍数が一気に跳ね上がる。
腕時計との睨めっこが止まらない。
あと5分で駅に着くでしょ。25分。そこから自転車かっ飛ばして・・・何分だ? 40分くらいか。間に合うのか?
うわぁ、間に合わないよ! どうしよう!
『あ、タクシーの手配!』
咄嗟に声に出ていた。
あいや、先に職場に連絡しないと!
真っ白になった頭の中。小さな奏が回し車の中で汗だくになり走っているが、歯車が噛み合わずグルングルン空回りしている。
もう居ても立っても居られない数分が経過した。あと一駅がこんなにも長く感じたのは、電車時間を楽しむようになってからは初めてだ。
最寄駅のホームにやっと電車が止まり、扉が開き切る前に右足をスッと前に出す。扉に肩を軽く擦りながら飛び降りるなり、ホームを疾走しながら職場に電話を掛ける。
『もしもし、おはようございます。大月です」
「おはよ」
『すいません! 忘れてましたー!』
何の話か段取りも踏まずに、開口一番、慌て口調で謝った。だが電話越しの声は、全てを悟っているかのように落ち着いていた。
「大丈夫だよぉ。いま車も準備してあるから慌てずおいで」
それは、まだ走り出したばかりなのにハアハアと息を荒げている奏を、安心させてくれる声だった。
『松岡さん~~~』
心の底から、渾身の想いで絞り出すように名前を叫んだ。
電話の主は大好きな松岡先輩。
美人で優しくて頼りになって、いつも相談に乗ってくれる。もう尊敬しかない大好きな先輩は、この瞬間、奏の中で女神の領域にまで達していた。
唯一、不満があるとすれば、婚約相手が同僚の田中さんだという事実だけ。
いや、松岡さんに不満がある訳ではない。これは田中さんに対する不満。おい田中! なんでお前なんだよ! といった不満だけだ。
いっつも会議サボりやがって!
いや今は田中のことなんてどうでもいい。あいつのことは、また帰ってから愚痴を聞いてもらおう。
『松岡さん大好きっ!』
平日の日中に、奏の進撃を止める物は何もなかった。
「ピンコーン」
ホームからの階段を駆け下りたその先で、待ち構えている自動改札機を除いては。
「チャージして下さい」
あぁもう私はいつもこうだ!
慌ててICOCAに現金をチャージする。
残金不足を改札に注意されてから、初めて気付くタイプの大月奏。
今月は、テーマパークのCMに、ドラマのエキストラ出演、飲食店のスチール撮影など、女優としての仕事が数件入り、普段通り職場へ足を運べなくなった。
通勤費がマイナスになるならと、定期券の購入を断念。いいよ、それくらい出してあげるよ。と会社は言ってくれているのに『日割りで大丈夫です』と気を遣う奏。
介護職と俳優業。元々、舞台以外には興味がなく、大好きな職場へ満足に足を運べないのは、相当辛いようで、最近は少しモヤモヤしている。
少しばかり気持ちが折れたが、そうは言っていられない。駐輪場へ再び進撃を開始し、いつもタイヤの空気を快く入れてくれる管理人のおじさんにも、ちゃんと挨拶。
自転車に乗り換え、勢いよくペダルを漕ぎ出す。
うぉぉぉぉぉ!
もうブスでもなんでも関係ない。どうせブスだもん!
河川敷まで辿り着き、勢いそのままに立ち漕ぎフルパワーで進撃する奇行種。
普段ならば、通院の日は1時間早めに出勤して、余裕で準備してるのにーーーっ! と悔やむ余裕もないほど、頭の中は依然として真っ白だった。
追いついて並走しかけたら、急にスピードを上げて走り出してしまう自転車の男性も、認識はないけれど、笑顔で右手を「よっ」と挙げて挨拶してくれるいつものお爺ちゃんも、体中にスナック菓子を被り、鳩を自分の身に群がらせている謎の外国人もいない河川敷を、ひたすらに走る。
サドルはなくても問題ない。
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