奏と舞台公演と その3
半年未満の新人劇団員さんたち。
彼らは今現在、僕たちが所属する「本隊」とは、常に別稽古体制を取っている。なので実は彼らには、僕の存在をほとんど知られていない。
狸おやじに目を付けられ、未満でも本隊稽古に参加を許された若干名。そんな将来有望な数名だけが、僕のことを知ってくれている。
普段、受付前を素通りする彼らの中に、僕に気付いて会釈をし、稽古場へと向かってくれる子がいるのは、実は密かに嬉しかった。先輩って良いもんだ。
把握している人数が全て通り過ぎ、辺りがまたシーンと静まり返り十数分。
・・・そろそろかな。
受付にかかってくる電話が、事務所に転送されるようにセットして、パソコンの検索記録なども全て削除。この男、ぬかりなし。
電気も全て消したら、いつもより3時間早く受付を閉める。
稽古場の前に着くと、モーリス・ラヴェル作曲「ボレロ」が流れていた。
うん。いつ聞いても心が躍る。
そーーーっと扉を開けて中に入ると、何名か気付いた子たちが、真剣な面持ちながらも鏡越しに会釈をしてくれた。
先生はまだか・・・
脇には、腕を組んで稽古を眺める腰巾着。奏が鏡に向かって踊っている。新人さんたちはその後ろに並び、各々真似るように動いていた。まだ教え始めたばかりのようだ。
「お疲れ様です」
腰巾着に近づき小声で挨拶をし、稽古着を忘れた嘘の経緯を告げると、そんなの全然構わないよと、軽く笑って済ましてもらえた。腰巾着との関係は良好だ。
ジャケットを脱ぎ、ダンスシューズに履き替えたところで、丁度「ボレロ」もスピーカーから聞こえなくなった。
汗でびっしょりのように見えるが、雨でびっしょりを拭いただけの奏が、普段通り劇団員として挨拶をしてくる。
『おはようございます』
「おは」
「おはようございますっ!」
うぉ! 奏に続いて皆さんまでもが挨拶をしてくるとは。
「おはようございます」
総勢20名にかき消された挨拶をやり直す。
しっかり指導が行き届いていることに、驚いて負けてしまった。奏は笑みを浮かべ、ふと横を見ると腰巾着もクスクス笑っていた。
奏には、こうゆうスキルがあるとは感じていたけれど、抜擢されすぐさま頭角を現す辺り、只者ではない。
オーディションを通過してきた割には、毎度、大体がサークル感覚のお祭り騒ぎ。ワイワイと楽しそうに、ただただ賑やかに千秋楽を迎えることが多い中、1ヵ月そこそこで、ここまで統率された新人さんたちを見るのは、初めてだった。
この段階ですでに、身体から何気なく発せられるオーラのようなものが、今までとは全く違うし、そんな姿勢の綺麗な子たちが多くて際立つ。あらゆる基礎をしっかりと教わり稽古を重ねてきたんだろう。
奏、凄いな・・・
大学の演劇サークルで少しばかり経験してきている者。何かと経験を経て、変な自信を覗かせている者。もちろん彼ら全てがと言う訳ではないけれど、そんな連中は、大概がアドバイスの途中で自論をぶつけて遮ってくる。または、何も考えず好き勝手に思い付きで話してくることが多い。
ピリッとした、メリハリある空気を作れない担当者。講師を勤める先輩にも問題はあると思うのだが、案の定、そんな新人さんたちは、後々、狸おやじに切り捨てられる。
ここはプロの現場。当然、個人差はあるので様々な人がいて問題ない。今までも上からの指示で、こうして稽古現場に顔を出すことはあったけれど、ハッキリと違いを肌で感じることができた。
その後も稽古は滞りなく進み、終盤に差し掛かった辺りで、狸おやじが「のそ~」と微笑ましい表情で入ってきた。日曜日は機嫌の良い日が多い。
区切りのいいところで、奏が号令をかけ、狸おやじを囲むように、サッと集まった。
『おはようございます』
「おはようございますっ!」
ハハ、やっぱ凄ぇわ。
「大月さん」
『はい』
「次の舞台で主演を務めてもらいますから」
『はい、ありがとうございます』
「これ歌ってもらうから、聴いといて下さい」
策士。
目の前にいるおやじは、良い意味でも悪い意味でも「狸」って呼び名が本当にしっくりくる。
次回公演の主演通達を、本隊の稽古中ではなく今ここで。奏の教え子たちの目の前で伝えるのか。微笑ましく笑みを浮かべる、狸おやじと腰巾着。
今回の公演にも次回公演にも、相当な力を入れていることが分かって、少しゾクゾクしてきた。きっとこの中にも、何人か目を付けた有望株がいるのだろう。
ちらっとこちらを見た瞳の中に、ガッツポーズをしている奏が見えた。
でもあれ?
ん?
僕は?
・・・あれ?
実は、今日の稽古にお呼びがかかった時点で「何かあるのかも」と、少し胸騒ぎがしていた・・・
うん。気のせいでした。
気のせい・・・
「お疲れさまでした」
稽古も終わり、狸おやじと腰巾着が去るのを見届けた後、劇場を閉めて仕事を終えた僕を、奏は待っていた。
歩行者用青信号が点滅する。まだ明るいオレンジ色の空の下で、とぼとぼと近づいてきて、静かにぎゅっと抱き付いてくる。
音源を渡された時からずっと我慢してたよね。奏の涙に、思わず貰い泣きしてしまった。
背中を優しくポンポンと叩く。
『主演だよ。歌どうしよ』
「歌な・・・」
『うん、歌』
奏はお世辞にも上手と言えるレベルではなく、これでお客さんからお金を貰ってはいけないと、自覚もしている。ただ、歌うこと自体は大好きで、一ヵ月に一度は必ず6時間近く、一緒にフリータイムを楽しんでいる。
「やべぇな」
『やべぇずら』
「まぁ、なんとかなるべ」
『ボイトレ付き合ってくれる?』
「崇め奉るならな」
『言えた』
「言えるわ。なんか甘いもん買って帰ろうか」
『おっ、いいですな』
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