奏と舞台公演と その2
400人収容可能なメインホール。二階は事務所、三階には鏡張りの稽古場に、貸し会議室まで完備。駅徒歩20分の立地を覗けば、素晴らしいほど環境が整っている。
ここは、狸おやじ自慢の小屋。小屋とは、芝居本番が行われる劇場のこと。我らが劇団は、小規模劇団としては立派過ぎるほどの施設を構え、3ヶ月に一度のペースで公演を行っている。
そしてここは、僕の勤め先でもある。
初夏。
とうとう降ってきたか・・・
受付や事務作業をしていてありがたいなと感じるのは、エアコンが効いている部屋で汗だくにならずに済むし、雨脚が強まる中、合羽を着て仕事をする必要もない点。
今日なんて、日中に新人さんたちの舞台稽古がある以外は、ホール・稽古場・会議室、共に貸し出しはなし。
受付に備え付けのパソコンで、大好きなコメディドラマ「やっぱり猫が好き」を鑑賞してたって、誰にもバレずに恩田三姉妹にニヤニヤ出来る。これで給料を貰おうってんだからダメな大人。
いや、これは勉強なのだ。僕的には芝居の勉強をしているつもりである。
30分ほど前から降り出した雨空。
ぼーっと受付越しに眺めていると、道路を跨いだ向かい側に、何やら陰のオーラを発した怪しい人影が、ゆっっっくりと姿を現すのが見えた。
それが誰かは一目で判別できた。
雨が降っているというのに、傘もささず明らかにずぶ濡れ。前髪で目元を隠しているその女性は、信号待ちをしている。
傘を持って出迎えに行こうか・・・
点灯が赤から青に変わると、真っ直ぐこちらに近づいてきて、受付の窓をコンコンと叩く。
呆れ果てて見て見ぬふりをしていると、脇の通路にあるドアから入ってくる、ずぶ濡れオバケ。
『おはようごじゃります』
「あ・・・おはようございます」
鞄からゴソゴソと取り出したコンビニ袋。
『はい、これ』
「いや、その前に服」
『んにゃ(いいから開けて)』
アメリカンドッグが2個入っていた。
『ふふん』
「ありがと」
『小腹が空いてるだろうと思いましてな。崇め奉りたまえ』
ずぶ濡れだが幸せと自信に満ちた笑顔だ。
「稽古場、さっきエアコン効かしたから寒いよ。着替えは?」
『ないの』
夜勤明けだった。夜勤ってだけで背負っているリュックがパンパンなので、稽古用の着替えを余計に持ち歩くほど余裕のない奏。そのまま直接、稽古に顔を出す予定のようだ。
「コンビニ寄ったんだよね?」
『んにゃ!(もっと喜ぶ顔っ!)』
「いや傘」
『ないの』
「買えよぉ」
『お店を出てから強くなってきたんじゃあ』
「もぅ・・・」
『むぅ。アメリカンドッグだぞ! 崇めろ! 崇めたつまつれろ!」
「噛んでんじゃん」
『もっと喜ぶと思ったんじゃあ』
「んもぅ、これ持っていきな」
前日のうちから暇が確定していたので、僕も稽古場に顔を出してやってくれと、腰巾着に頼まれていた。
持参していた稽古着一式と汗拭き用タオルを渡して、受付を追い出す。
「崇めだでまづれりょ」
『え?』
「え?」
『あはははははっ』
差し入れよりも、濡れてることに関心がいったことを奏は不満そうだったが、嬉しそうな表情で、小さく手を振り受付を横切っていった。
ジャケット姿で稽古を覗くなんて、少し格好良いかも。うっかり普段通り来ちゃったので着替え忘れちゃいました。で通るべ。
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