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彼は思考している表情のまま、ピアノの前に座った。それから彼は、簡単な曲を弾いた。
それはとても拙く、たどたどしく、幼い。お世辞にも素晴らしいとはいえない音色であった。それでも、次第に彼の指が感覚を取り戻したのか、優しい調子と共に楽しいという感情が伝わってくる。
彼の弾いている音楽は、この季節に相応しい秋の郷愁を思わせる曲だった。夏の暑さが終わり、葉が色付き始める時季。豊かな山に囲まれた故郷を染め上げる懐かしき、山脈の風景。眼前に浮かぶようなその音楽に、私はプロとしてではなく、一聴者として聞き入っていた。
ピアノの音色が止むと、彼の目が不安げに私をとらえていた。
自分には荷が重すぎた、とでも思っているのだろう。だが、私はすでに廃人である。彼が気に病む必要はどこにもない。
私は彼にもう一曲弾いてくれとねだった。
彼は恐縮した様子であっても、別の曲を弾いてくれた。
私はその下手くそであっても、飛ぶことが出来る鳥を見ているかのようで、羨ましく、それから妬ましく思いながらも、傾聴し続けたのであった。
その日以来、関崎はよくピアノを弾くようになった。
私がいてもいなくとも、まるで水を得た魚の如く、彼は生き生きとした表情でピアノと向き合っていた。
私はその姿に羨望と嫉妬がなかったといえば嘘になる。たまに激しい憤りが胸を掻きむしったりもした。だが、私がそれを表に出したりでもすれば、彼は二度とピアノに触れることはなくなってしまうだろう。
私はその鬱屈とした気持ちを消化しようと、彼の講師として傍に着くことにした。
私が弾けない代わりに、私の化身となって弾いてくれれば良いと思い至ったというのもある。
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