第43話 魔術師の資格1

 あの日のことをどう振り返ったら、この胸は悔いから抜け出せるだろうか。


「か、母さん。こんなに食べきれないよ……」

「今日は特別な日よ。たくさん食べていかなきゃ」


 母が出した大量の料理を前に、スオウが困惑の表情で立ち尽くす。

 しかし母は喜色満面、息子の肩に手を置いて無理矢理テーブルにつかせた。


 ……ああ、あの朝だ。もうこの入り方で分かってしまう。何度も見た悪夢だ。


 母が朝から台所に立つことなんてほとんどない。こんなに気合いを入れて料理を作ったのは、いつぶりかと思うほど遠い昔だ。

 そんな彼女が、何故こんな料理を用意したかというと、


「いよいよプロ試験最終審査でしょ。しっかり食べて行かないと」


 満面の笑みのまま、母が口にする。


 そう、プロ試験。

 スオウが導師院のプロ登用試験の最後のテストを受ける日の朝だ。


 スオウの向かいに立って、メイタロウは苦笑いでその光景を見守っていた。


 しかし今日が特別な日であることは確かだ。

 絶え間ない努力を重ね、弟はとうとうここまでやって来た。高校から魔術学校に編入した身で、プロまでたどり着ける者は決して多くはない。

 魔術学校に編入を許されて数年、彼は時間を惜しんで研鑽に研鑽を重ね、魔術を磨いてきた。それが実を結んだのが今日この日だ。


 相変わらず弟はナイフとフォークを持ったまま困惑し、早く食べろと母に急かされている。


 その光景を微笑ましく見守るメイタロウも、このプロ試験に無関係ではない。何故なら、


「僕じゃなくて母さんを立会人に選んでもらえば良かったね」

「そうね。メイタロウ、試験で立会人のあなたの方がヘマしないようにね」


 冗談めかした笑顔で、母が片目をつぶる。


 そう、メイタロウはスオウのプロ試験の立会人に選ばれたのだ。

 故に今日はスオウと共に試験会場に行き、弟の試験の様子を見守る。

 自分の試験ではないが、それでも光栄なことだ。プロ魔術師である試験官達と一緒に、一人のプロ魔術師の誕生の瞬間に立ち会えるのかも知れないのだから。しかもそれが自分の弟だなんて。


「ヘマなんてしないよ。ひどいな、母さん」


 口を尖らせて言い返すメイタロウに、母はどうかしら、とさらに冗談で返してくる。


「まあまあ、二人ともそこら辺にして。俺はもう出るよ。兄貴も今日はよろしく」


 見ていたスオウが取り成すように椅子から立ち上がった。メイタロウも慌ててそれに続く。


 そんな息子達を、母は感慨深げにしげしげと眺めた。


「母親の私が言うのもなんだけど、二人とも本当によく似てるわね」

「え?」「そう?」


 同時に答える二人に、母がちょっと困ったような笑みを浮かべる。


「どっちがどっちか審査員も見分けがつかないんじゃないかしら? メイタロウ、分かりやすいように眼鏡でも掛けていったら?」

「な、何で僕が……。僕の視力はそんなに悪くないし、眼鏡なんて持ってないよ」

「でもほら、最近はおしゃれで度のない眼鏡を掛けてる人もいるんでしょ? 伊達眼鏡って」


 冷静なふりの頭が警告する。これ以上思い出してどうするんだ。過ぎたことは取り返せないのに。もう止めておけと。

 だが針は止まらない。どうしようもない過去は深く、酷になぞられていく。


 名案を思いついたとばかりににんまり笑う母に、青年は呆れとともに肩をすくめた。


「とにかく、僕は眼鏡なんて掛けない。僕らを間違えるのなんて母さんくらいだよ」

「あら、失礼ね」


 気の抜けるような母と兄のやり取りに、スオウがとうとう噴き出す。そして笑顔のままこう言った。


「二人とも、緊張をほぐしてくれてありがとう。とにかく精一杯やってくるよ」


 ああ、お前は精一杯やったよ。


 導師院のプロ加入への査定は、非常に厳しいことで知られている。

 導師院への忠誠を試す為に、ときに受験者本人の家族や友人を使ってテストが行われることもあるのだ。そのために近しい人間が立会人として召喚される。


 立会人が呼ばれるのは、最終試験である五次試験。ここまでスオウは、厳然を極めるプロ試験を四度もくぐり抜けてきた。

 母に言われなくても、ここまできたスオウの努力を水の泡に帰させることはできない。ヘマなんてするもんか。


 その五次試験で行われるのは、受験者本人への面接だ。詳しくは知らないが、受験者に対する身辺調査の結果を元に、いくつか試験官から質問が行われるのだという。

 魔術を使うわけでもなさそうだし、ある意味プロ試験の中で最も簡単な試験に思えるが……。


 メイタロウの他にはもう一人、昔からの恩師として、リン先生が立会人に選ばれていた。

 家族や友人以外がプロ試験の立会人に選ばれることは珍しいが、確かにスオウにとって、先生は人生の半分を支えてきた重要な人だ。スオウ自身も、プロになる瞬間を彼女に見ていてもらいたいに違いない。


 そして試験会場に着いた先生はもうすでに、元教え子の姿をその目に映してうっすら涙を浮かべていた。


「スオウ……いえ、まだね。まだ泣いちゃダメね」

「先生……」


 多くの魔術師がプロ入りを望むが、ここに来られるのはその中のほんの一握りの魔術師に過ぎない。

 あの日魔術を始めた小さなスオウがそこにたどり着いたのだ。先生が涙するのも無理はない。メイタロウも今は……。


 感動のときを遮るように、高い靴音とともに今日の試験の試験官が入場してくる。導師院の現役プロ魔術師だ。

 試験官は二人。二人とも杖を持っていた。


 メイタロウ、ここでもう思考なんて止めて現実に帰れ。この先起きることは、すでに付いた心の傷をえぐるだけの、お前を弱らせるだけのことなんだから。


 ……その警告もむなしく、見たくないはずの過去は繰り返される。


 入ってきた試験官達は、何やら数枚の書類をさっと読み、そして顔を上げる。二人で顔を見合わせて、薄笑いでこう言った。


「スオウくん、だっけ? すごいねえ、君。ここまでの試験結果は満点ばっかり。優秀だね」

「君みたいな家庭の出で、こんな成績を残した魔術師は見たことがないよ。……いくら積んでここまできたの?」


 視界が暗転するように、立っていた床が抜けていくように、その言葉は一気に青年の頭を冷やした。

 先生とスオウも肩をこわばらせる。


 はっとした。忘れていたのだ。


「試験官を買収しなきゃ、君みたいな家庭出身の魔術師がこんな成績残せないでしょ?」


 暗い興を帯びた赤い目が、獲物を映して笑っていた。


 同じ顔だ。あの悪夢の日から今日に至るまで、この顔を何度も見てきた。

 兄弟を犯罪者の家族と蔑み、隔てた者達の顔。


 どうして。ああ、ここへ来てもやっぱりそうなのか。じゃあスオウはプロとして認められないのか。

 色んな思いが渦巻いて、メイタロウはその場から一歩も動けなかった。


 青年の思いに何ら配慮を見せることなく、試験官達は次々と書類……恐らく身辺調査票だろう紙に書かれた事実の一つ一つをごみ山のカラスのようについばむ。


「立会人はお兄さんと、元先生のリンさん、ね。ここに自分を魔術の世界に導いてくれた恩師ってあるけど……」

「スラムの青空教室って、金持ちのお嬢さんが、自分より下を這いずってる人間に施しを与えるためにやってる遊びでしょ? それが恩師なの? 先生が美人だからって、お前骨を抜かれたな」


 スオウとリン先生を見比べながら、試験官が再び嘲笑を浮かべる。


 メイタロウは……ただ拳を握って。針のように注ぐ次の言葉に耐える準備をしていた。


「導師院にこんな生まれの人間はいないからなあ……。ほんとにプロの世界に忠誠を誓えるの?」


 酷で性根の悪い問いにも、スオウは「はい」と至って冷静に答える。

 その揺るぎない瞳に思惑が外されたのか、試験官は一瞬面白くなさそうな表情を浮かべ、しかし即座に次の『弱み』を弄び始めた。


「最近治安悪いからな。奇跡の人だかなんだかが現れてから、自分も魔術師に、プロになれると思ってる無能が多い。自分達がプロになれないのは、そういう環境を与えられてないからなんて喚いて、導師院に反乱まで起こす始末だ」

「下層には下層の能しかない。そんなやつらに機会なんてやっても、社会の損失になるだけなのにな。黙って自分の人生を全うしてりゃいいのに」


 怯まないスオウに興を冷まし、カラスの嘴が次に向いたのは。


「リンさんもスラムでそういう無駄を生産してる一人なんでしょ? ゴミあさりの子どもに勉強なんて教えても、スリが余計な知恵を得るだけなのにね」

「おいおい待てよ。色香で生徒の一人の青年をやる気にさせて魔術師にしたんだから、まったく無駄じゃなかったんじゃないか?」


 これは試験官として一人のプロ候補を試す口調ではない。彼ら本気で……。本気でそう言っているのだ。


 ひきつれた唇と、抵抗できない者を前にして鈍い光を宿す瞳と。

 何度見てきても慣れない。慣れることなどない、悪魔の姿だ。


 でも彼らが何なのかなど、もはや関係ない。

 先の言葉を聞いた瞬間、青年の中で何かが変わった。

 内側で押し潰され続けていた何かが、熱を帯びてさらに小さく核を成していく。そんな感覚を、他人事のように感じていた。


「何だよ、その目は」


 メイタロウの視線に気付いた試験官が一人、嘲笑を止めてこちらに険を帯びた眼光を飛ばす。

 それを受けた青年は怯むことなく、その目を見返した。その様子をもう一人の試験官も険しい顔で見る。


「スオウは実力をもって、正当に今までの試験を突破してきたはずです。今さら生まれのことを言われても、僕らにはどうしようもないじゃないですか」

「何だよ。今がどうだろうと、お前らは犯罪者の息子なんだ。今までだってこういう扱いを受けてきただろ? 社会にとって、お前らは存在するだけで危険分子なんだよ。事実を言って何が悪い?」


 上げた拳をもう下ろせない。

 奈落に落ちるような一瞬の絶望が、光も見いだせない闇に最後の防波堤として残されていた。そこを越えてせり上がってくる怒りに、青年はただ身を任せた。

 ……両者の間で板挟みになっているスオウに、気付くこともなく。


 メイタロウが退かず、長引く睨み合いにしびれを切らしたのか、もう一人の試験官がスオウを見る。そしてこう言った。


「ちょうどいい。兄貴を魔術で倒せ。お前がこいつを倒したら試験に合格にしてやる。こういう導師院に逆らうやつを処断するのも立派なプロの仕事だ。さあ早くやれ」


 スオウは試験官の言葉ではなく、兄の顔を見て顔を青ざめさせた。


 何故なら……。


「何だよ、プロの世界に入りたいなら、兄貴くらい倒して見せろよ!」


 動かないスオウに苛立ったのか、試験官の一人が術を放とうと杖を掲げる。その先に赤い光が灯った。

 しかしその寸前で、一瞬早く放たれたメイタロウの魔術が、そいつの杖を弾き飛ばしていた。


 撃ってくると分かったのだ。プロ魔術師と、民間人の力の差なんてお構い無しに。


 分かるのだ。『やつ』と同類だ。

 魔術で人を撃つのに躊躇いなどしない。躊躇う必要のない存在と思っているから。

 だからメイタロウはとっさにスオウの杖を奪い、魔術を使った。


 早撃ちに敗北したプロが、杖を取り落としながらその場に倒れる。

 スオウと、残された試験官が目を見開いた。


 相手に撃たれるのを確認していたとはいえ、プロ相手ではこの行動は正当防衛なんて認定はされないだろう。


 メイタロウももう防衛なんて温い気持ちで術を放ってはいなかった。ぐらぐら煮え立つ、この頭を支配する気持ちは……。


 あと一人。自分達を嘲った人間がそこに立っている。それが許せない。


 青年の視線を受けたもう一人のプロが、一歩後ろに後ずさる。しかし相手にしているのがただのアマチュアと思い出したのか、はっとしたようにすぐに己の杖を構えた。


 いつの間にか、構図はメイタロウ対プロ魔術師達の戦いになっていた。


 でも今は恐いなんて感情は突き上げてこない。全身を燃やすような怒りが、ただただ自分を支配する。


 残されたプロは一人目のようにすぐに倒れたりはしなかった。プロらしく、高火力の魔術をもって、メイタロウを鎮圧しようとしてくる。


 青年はその魔術を炎の壁で守った。

 守っているうちに、どんっと、青年の中で何かが盛大に破裂するような音がした。

 気付けば……。


「兄貴……!?」


 体中を破るように、何かが暴れメイタロウの内側から出ようとする。自分の限界を超えて魔力が溢れようとしているのだ。


 その状態は、放っておけば自らの命に関わる。しかしそんなことは今はどうでもよかった。


「おい! 早く止めろ!」


 床に倒れていたプロが仲間に向かって叫ぶ。


「早くあいつを止めろ! じゃないと……」

「あ、ああ! 分かってる! でも、」


 狼狽しきったプロ魔術師の声が聞こえる。

 焦る者を圧倒する高揚に体が震えた。


 握る手の平。結ぶ汗の玉。

 動けない相手。動かない視界。

 開いた唇の端で、憎しみのままに呪詛を吐く。


 そして高く杖をかかげた。

 術が完成して、それを放とうとしているのだ。


 すべてを塗り潰すような闇の魔術を、この手は放とうとしている。


「メイ!!」


 リン先生が叫んだ。それが最後だった。


 視界のすみで、スオウがプロの取り落とした杖を拾う。

 そしてわずかな時間で張れるだけの防御術を張って、プロ魔術師とメイタロウの間に割り込んでくる。


 視界が真っ黒に塗り潰された。

 大きな音を立てて、スオウの防御魔術が派手に飛び散った。



 ……闇はすべてを押し潰し、未来への淡い期待さえ、根こそぎ絶ってしまった。

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