第30話 先生

 レコードプレーヤーの針が、聴き古した円盤の溝をなぞっていく。


 『決して戻らぬ時』。その題名を部屋中に響かせるように、物悲しく水底の泥を引っ掻き回すような歌が流れる。

 だが、それが長らくメイタロウの過ごす時間のほとんどを彩ってきた音楽だった。暗がりにどこまでも落ちていく感覚を覚えながら、それが心地いいとさえ思っていたのだ。


 ベッドの上で一つ寝返りを打つ。


 あれから一週間。

 魔術競技場の火災は各メディアにより大々的に報じられ、市長暗殺未遂事件は広く世間の人々の知る所となった。そして、その事件に凶悪な魔術師の襲撃犯が存在することも。

 その事実に街はしばらく震え上がったものだ。

 競技魔術大会も一時中断となっていた。


 この間、メイタロウは一度も杖を手にしていない。魔術教室も他の講師に任せ、ずっと休んでいる。

 気だるくて、何をする気力も起きなくて、水底から浮上したのに上がりきらない毎日を過ごして。


 家の外に出たのもたった一度だけ。その一度というのが……。


「スオウと喧嘩したの?」


 まぶたを閉じれば、旋律に声が重なった。




「スオウと喧嘩したの?」


 優しいような、それでいてちょっとからかうような、懐かしい声音だった。


 だからか、病室のドアをくぐったばかりのメイタロウは、少しむきになって返してしまったのだ。


「喧嘩じゃありませんよ」


 相手がベッドの上の病人だというのに、結構つっけんどんな態度になってしまった。この人は昔から言うことが的確すぎて、メイタロウは少し苦手に感じることもあったから。


 見舞い品のささやかな花を、ベッドの横のテーブルに置かれた、すでに花が一杯の花瓶の隙間に差し込む。

 花瓶以外にも、小さなテーブルの上は花籠やら果物やらが満載だった。

 どうやら多くの見舞い客がここを訪れたらしい。その辺りはこの人の人柄によるものだ。


「スオウはいつも正しくて、強い。間違えるのは僕なんだ」


 花瓶を整えながら青年がぶつぶつ呟くと、ベッドの上に身を起こした先生……リン市長は少しだけメイタロウの手元を眺めて、すぐに窓の外に目を移した。


「スオウが全部話してくれた。とんでもない事件になったわね」


 市長襲撃事件から三日。

 家に籠るメイタロウのもとに、市長の側近から、事件以来目を覚まさなかった市長が目覚めたと連絡がやって来た。

 市長からの、是非とも見舞いに来てほしいという伝言と共に。


 事件から相変わらず体は重かったが、これは行かないわけにはいかなかった。

 あのとき容体も分からず見送ってしまった先生が、やっと目覚めたのだ。


 街の中心に位置する大病院の上階。その個室に先生は入院している。


 訪れた病室で、その人はすでにベッドの上に身を起こし、一人窓の外を眺めていた。

 患者衣の袖から、腕に巻いた包帯がわずかにのぞいている。

 少し煙を吸いすぎただけだと先生は言ったが、魔術師達の魔術の撃ち合いに巻き込まれ、あの火災の中床に倒れ伏していたのだ。相当の火傷を負ったはずだった。

 現に二日間、この人は目を覚まさなかったという。


「スオウが話す前に、先生気付いてたんでしょう?」


 パーティーの隙だらけの警備と、一度逃げ出したあと襲撃犯のいる会場に戻るという大胆な行動。

 水の組織の策略を見抜いていたからこそ、教え子を守るために先生が選んだもの。


 本来なら脅迫状のことを理由に、彼女はいくらでも警備を厚くすることができたはずだ。

 しかしプロ魔術師の力は強大。対抗するにはどんなボディーガードがいても難しい。警備を厚くすればするほど、スオウに余計な犠牲を出させることになってしまうと先生は考えたのだろう。

 そしてわざわざ人々が逃げ出した後の会場に一人戻ったのも、民間人越しにスオウが自分を狙わなければならなくなるのを防ぐため……。


「そうねえ。スオウも案外分かりやすいところがあるからね」


 ベッドの上のその人は、景色を見たまま呑気な様子でそう呟いた。

 だが行動の真意に思い至れば至るほど、この人とスオウの決意が悲しい。


 先生は的確に、スオウが自分だけを狙うように場を整えていた。

 しかし土壇場でスオウは水の組織を裏切り、恩師を守ったのだ。彼女と同じように、自分の命を懸けて。


 それに比べて自分は……。


「僕が人質だって、先生は知ってたんですか?」

「確証はなかったけど、スオウがあんな顔をするってことは家族が人質かしら、とは思ったわ」


 どんな顔だ。人の表情でそこまで読むとは。

 しかし表情でそこまで分かるなら、メイタロウの言いたいことも先生は察しているはずだった。


「すいませんでした」

「あら? どうしてメイが謝るの?」

「僕のせいで、先生が……」


 メイタロウがうつむく前に、違うわ、とその人は呟いた。青年は驚いて顔を上げる。


「自分の決断の重さに耐えられなくて、私は簡単な答えに飛び付いてしまった。その結果がこれなの」


 そこで先生は、窓から目を離しこちらに顔を向けた。

 メイタロウは今気付いたが、窓の外にはビルの群れを挟んで、その向こう側に天井に穴の空いた競技場が見えている。


「水の組織と戦うと宣言したとき、どこかで犠牲が出ることは覚悟のつもりでいた。彼らは魔術の世界そのもので、魔術が支配するこの惑星で彼らに逆らうということがどういうことか、理解したつもりでいた。……最初に出る犠牲があなた達だと知ったとき、私はやっと思い知らされた」


 冷静な声音だったが、故に言葉一つ一つが張りつめた心情をにじませる。

 先生は続けた。


「事件の元凶は私。……情けない市長よね。威勢のいいことを言っておきながら何が起こるか見通せなくて、焦って、単純な答えを出したの。自分一人で済むならと思った。結局、最後はあなた達に助けられたわね」


 苦笑いの表情は、メイタロウがこの歳になったからこそ、その下にある苦悩の時間を感じさせる。他人と自分の命の瀬戸際に立った大人の表情だった。


 自分の決断のツケを、自らの命で清算する。単純で明快で、何時でも放棄すべき答えだ。どれだけ自分の行動を後悔していても容易には選べないし、選ぶべきじゃない。

 彼女には市長という立場もあるのだ。テーブルの上に置いてある花を持って見舞いに来た人達は、この街の指導者である彼女に希望を見ているはずだ。メイタロウだってそうだ。


「それでも、あなたは僕を守ってくれた」

「私があなたを守った?」

「そうですよ、先生。子どもの頃も、大人になった今も、あなたに守られてばかりです」


 自分の失策を自覚していたとしても、常人には投げ出し難いものを投げ出して教え子を救おうとしてくれた。

 突き抜けるほどの誠実さと勇気と、その優しさに何度助けられただろう。

 あの日青空教室に受け入れてくれたときも、市長の立場と命を危険にさらしてくれた今も。


 この人を前にすると、どうしても自分の小ささが邪魔をする。むきになってしまう。

 でも今は守られていたことを素直に認められる。ずっと前から守られていたことを。


「家族にも魔術の世界にも受け入れられなかった僕らを、あなただけは見捨てないでいてくれた。僕はあなたがいたから魔術師になれた。希望が見られた。……僕もあなたのような先生になりたかった」


 これが見舞いに来て入院患者に話すことだろうか。しかし溢れ出した言葉は切れない。

 先生は膝の上で両手を組んで、じっとメイタロウの言葉を聞いていた。


「僕は変われませんでした。必死で自分を抑えて生きてきたけど、駄目だった。怒りにまかせて、あのときと同じことをしようとしたんです」

「私とスオウを守るために、そうしてくれようとしたんでしょう?」

「それ以上に、相手を滅ぼしたいと思った。あの状況じゃ先生とスオウも道連れになったかも知れない。なのに……」


 一つ息を吸い込む。

 自分では答えの出せないことも、この人なら正解を聞かせてくれるような気がした。


「先生、僕は魔術を続けてもいいんでしょうか? 魔術教室で子ども達を教えてもいいんでしょうか? 自分が恐くて仕方ないんです。怒りにまかせて、いつ魔力を暴走させるか分からない。血は争えないなんて言葉は信じたくないけど、僕は……」

「メイ、そう考えている時点で、あなたはあなたの憎むものと決別しているのよ」


 驚いて目を見張る。顔を上げると、先生はどこか昔を懐かしむような視線を窓の向こうに投げた。


「私ねえ、あなたが魔術教室で子ども達を教えると知ったとき」

「……心配だったでしょう? 僕みたいなやつが子ども達を教えるなんて、」

「いいえ。心配なんてしなかった」

「え」

「ただ嬉しかった。暗い世界と、そして自分自身と闘ってきたあなたは私より、きっといい先生になる。そう思ったから」


 さらに目が見開いていくのが、自分でも分かった。窓の外から差す陽が、ふんわりと室内を暖める。

 先生は再びメイタロウの方に視線を向けると、


「さっきの言葉、とても嬉しかった。ありがとう、メイ。でもあなたの大切に思う子達も、いつかきっとそう思うのよ。あなたが先生でよかったと」


 その笑顔は、メイタロウの胸の深い場所に刻まれた、あの日と変わらない笑顔で。

 瞠目し続ける元教え子に、先生は言葉を重ねた。


「あなたが本気で苦しいと思うなら……そうね、一度やめてしまってもいいと思う。でも、とりあえず今魔術をやめるのはダメよ。まだ競技魔術大会ペアの部は終わってないでしょう? パートナーの人が困っちゃうわ」

「え? でも、大会は……」


 コンコンと、病室のドアが叩かれる。

 競技魔術大会の再開の日程が確定したと、市長の側近が伝えに入って来たのはその直後だった。

 メイタロウは思わず、座っていた見舞い人用の椅子から腰を浮かせていた。


「大会を続けるのよ、メイ。続ければ、あなたが本当はどんな魔術師か、分かると思うわ」

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