第29話 決壊
「ロド!」
会場入り口をふさぐ氷に今まさに魔術を放とうとしていたメイタロウは、先に氷を溶かし、その内側から姿を現した魔術師に声を上げた。
メイタロウのすぐ後ろに付いてきていたスオウも目を見張る。
氷の向こう側から現れたのは紛れもない、ロド・フェイデ・ルメギアその人だった。
ロドの後ろからは景色を歪ますような熱気が漏れ出し、それが激しい戦いの跡を物語っている。
そしてその戦いの跡を背に、彼女は男を一人担いで会場の外へと踏み出してきた。
ロドの背で伸びているのはフブキだ。完全に気を失っている様子で指一本動かさないが、息はあるようだった。
メイタロウとスオウのすぐ後ろまで来ていた救助隊員に、ロドはすっかり力の抜けたその男を引き渡す。
それを皮切りに、救助隊と消防が次々会場へと踏み込んでいった。
言葉もないまま、兄弟とロドはしばらくそれを見送っていた。
セツガと相対するロドを残し、メイタロウ達が会場を出て数分。
競技場から鳴り響く音と漏れてくる光の明滅は、特殊ガラスを通していてもその中で激しい戦いが繰り広げられていることを物語っていた。
アマチュア魔術師ロド対プロ魔術師セツガの、一見不利な戦いが繰り広げられていることを。
メイタロウとスオウは駆けつけた救助隊にリン市長を預け、すぐさまロドのもとへ戻ろうとした。
しかし戻った会場入り口は厚く氷に閉ざされ、兄弟はまさにその破壊を敢行しようとしていたのだ。
術を放とうと杖を構えたところで、その必要はないことはすぐに思い知らされたが。
ロドは還ってきた。
メイタロウ達の救援も待たず、たった一人で。アマチュアとプロの力の差をその杖でひっくり返して。
しかしそれが奇跡ではなく起こり得る現実であることを、メイタロウは心のどこかで知っていた。
ロドが会場から出てきたときは正直驚いたが、それはロドが生きていたことに対してではない。決着の早さに対してだ。
つまりは青年は確信していた。アマチュア魔術師であるはずの彼女が、一人でも死地から帰ってくることを。
いやそれすら容易で、どころか目の前の脅威をまるごと塗り替えるだけの力を、その人が持っていることを。
……その実力を以て、ロドはセツガを下したのだ。
しかし勝利に歓喜するような余裕は、その場の誰にもなかった。
セツガは隙を見て会場を去ってしまったし、その他の水の組織のプロ達も既に姿をくらましてしまっていた。
メイタロウ達より先に会場から出た彼らは、先に示し合わせていたのか、救助隊の影に隠れてどこかへ消え失せてしまったのだ。
まるですべての闇を押し付けるように、スオウだけ残して。
今はすっかり鎮火した競技場を消防車のサイレンが染め上げ、その外側を当時会場にいた人々や、何事かと見物にやって来た野次馬達が囲んでいる。そのために、辺りは夜更けにも関わらず騒然としていた。
街で一番の魔術競技場が燃えたのだから、人々の反応は当然とも言えるが。
そしてプロ魔術師達の中でもう一人、水の組織と無関係とおぼしきセリーンも競技場前に残っていた。
今も彼女は、救助隊員と大会関係者と思われる人々と何か話をしている。
そしてそのセリーンがときどきこちらに困惑したような、気遣うような視線を送るのは、スオウの行動にいまだ戸惑っているからだろう。
スオウが最初に会場の天井に火を放ったことは紛れもない事実だ。それをパーティーに出席していた多くの人が目撃してしまっている。
セリーンは困惑しながらも状況を整理しようとしているようだが、スオウの行動は真実を知らぬ人々の目にどう映るか。想像にかたくない答えは、すぐに出るはずだ。
消防団と救助隊の隙間に、ちらちらと警察……魔術師による事件に対処する魔術警察の姿が見える。
この場に『水の組織』として残されているのはスオウだけ。
今はセツガ達が消え、情報が錯綜して事態の収拾がついていないらしいが、時は迫っていた。
……迫っていたが、青年は何も言えぬまま、会場の焼け跡を救助隊や消防が行ったり来たりしているのを見ていた。
リン市長はすでに救急搬送の準備が整い、その場には救助隊員を遠巻きに、スオウとメイタロウとロドが立っている。三人ともしばらく黙ったままだった。
しかし言葉など見つかる訳もない。ぐるぐると、景色ばかりが忙しく巡る。
それでどうにかなるなら、メイタロウも弟にお前も逃げろと言いたい。しかしそれが正解ではないことを、何よりその弟がよく理解しているのだ。
スオウは今巻き起こっていることを、ただ受け入れるように静かに眺めていた。
しかしやがて、リン市長の乗る救急車が走り出すのを横目に弟は口を開いた。
「先生、全部気付いてたんだ。俺がこの会場の建材にバルーンを使えと提案したときから」
その言葉に、メイタロウはひたすら瞠目するしかなかった。
スオウは唇を結び、かつての恩師の乗った救急車の行く先を見守っている。
……先生が、事件の全容を知っていた。知っていてこの結末を飲んだ。
いや、今から考えれば、むしろそうでないとおかしいくらい、暗殺の危険を前にした先生の行動には隙が多かった。
リン先生は昔から誰より鋭く聡く、それこそ政界の一員となるくらいに先見の明がある。
しかしそれを活かすどころか、セツガの罠に敢えて乗るように大胆だったのは、そこに自分以外の人命が絡んだからだろう。……かつての教え子の命が。
環境への配慮、建設費用の節約も兼ねて、会場の天井にはバルーンを使え。スオウは競技場の建設前、リン市長にこう提案したそうだ。
しかし魔術の大会なら必ず燃焼というものが発生する。どんな大会でも、炎の魔術を使う魔術師は絶対に出場してくる。
その会場に、天井と言えど建材にバルーンを使用するというのは中々の難題だ。
リン先生はもともと競技魔術に傾倒があり、大会設備にも詳しい。建材に向かない素材もよく知っていたはずだ。
だからこそ、それを魔術師であるスオウが提案した時点で、彼女は察しただろう。スオウが会場の建設の向こうに何かを企てていること。いや、何かの企てに加担させられていること。
しかし彼女はスオウの案を採用した。何者かに窮地に立たされた教え子のやろうとしていることを、すべて受け入れたのだ。
例えその果てに自分の身を危険にさらすことになっても。
『予定を変更するつもりはありません。あの件は、私の予定には一切影響しませんから』
あのときセツガと話していた先生を思い出す。
彼女が強固にもパーティーの開催を断行したのは、スオウの思惑に敢えて乗り守るため。……ひいては人質にとられているメイタロウを守るため。
メイタロウはしばらく何も言えなかった。
リン市長もまた、最初からすべて知っていて選べなかったのだ。教え子の命を前にして苦悩の決断をするしかなかった。
そして彼女をそこに陥れたのは、もともとは……。
「メイタロウはもう大丈夫?」
深層に沈むように後悔に落ちていく青年に、予想だにしないところでロドの声がかかった。
まったく予期せぬ言葉に一瞬固まる。ロドは真っ直ぐこちらを見ていた。
ロドが言いたいのはメイタロウの精神ではなく体のことらしい。リン市長のように救助隊の手を借りなくていいのかと聞いているのだ。
視線から逃れるように顔を伏せた。
魔力を使い果たしてぼろぼろのスオウより、メイタロウの方を心配した。それはロドがメイタロウの先の姿を見ていたからだろう。
……プロ魔術師達と相対する、どす黒い霧に包まれた復讐者の姿。命を散らす手前までメイタロウが落ちたことを。
あれだけ大事に大事に掛けていた度もない眼鏡は、最早フレームすら残っていない。
あのとき捨ててしまった。向こう岸を見ながら抱いた誇りや信念と一緒に。相手の破滅だけを願うあの姿と引き換えに。
真っ直ぐ刺さるロドの視線に、大丈夫だよ、と返すので精一杯だった。
情けないが隠しようもない。あれが何なのかを、ロドは知っているようだったから。
「内包魔力の最大火力発散。魔術師が使う、最後の手段であり決死の術。……つまり僕は自爆しようとした。けど、使ったのは今日が初めてじゃない」
……そう、初めてではない。
自身の内に貯め込まれた魔力を、余さず一気に爆発させる。
魔術師が使う技の中で最大級の威力を誇るが、使った魔術師の体は確実にもたない。本来なら使った瞬間、魔力の爆発と一緒に身体も瓦解してしまう。
「前は自爆の一歩手前で助かった。今度は使う前に君に助けられたね、ロド」
兄の弱い呟きに、スオウが目を伏せる。
メイタロウはロドの顔を見ることすらできなかった。
彼女ならそんな手を使わず窮地を脱するだろう。あんな術を選ばなければならなかったのは、メイタロウが弱いからだ。魔術師のくせに、何もできないからだ。
「メイタロウは、炎の魔術の使い手なんだね」
またしても、思わぬ角度から放たれたロドの言葉にまぶたが震える。しかしあの姿を見れば当然掘り下げられることだった。
競技魔術大会の試合で、メイタロウは一度も攻撃術を使っていない。
しかしそれと同時に、一度も使っていない魔術がある。……炎の魔術だ。
しかしあのとき、メイタロウが復讐者として纏ったのは燃えるような高温の霧。
言い逃れようもない、それこそが青年の弱さの核心だった。
言葉を失う兄の代わりに、スオウがロドに答える。
「炎の魔術は、兄貴が最も得意な魔術で、最も嫌う魔術だから」
静かな声音に肩が震えた。
肩を震わす兄に、弟はゆっくり向き直る。
そして、
「ごめん、兄貴」
かっと、目が見開いた。
その言葉に、体が動いていた。
手が、胸ぐらを掴む。スオウの胸ぐらを掴んで引き寄せる。
弟は驚いたようにこちらを見ていた。
ごめん。メイタロウはそんな言葉を掛けられるべき存在ではない。少し考えれば分かるじゃないか。
「どうして、どうしてお前が僕らを背負って、こんな……!」
聞いても仕方のないことを、答えの分かりきっていることを、それでも言わずにはいられなかった。
誰の弱さが、誰をどんな所に落とそうとしたか、分かっているのに……。
スオウは胸ぐらを掴む手を振りほどくこともなく、ただこう言った。
「兄貴のせいじゃないよ」
その言葉に、両手の力が抜ける。
弟はゆっくりと、メイタロウの手から身を離した。
できた隙間に、すっとロドが杖を差し込む。
「こんな所でケンカはダメだよ。二人とも魔術師でしょ。やるんならフィールドで、暴力じゃなくて魔術で。オーケー?」
「ロド……」
会話はそこまでだった。
当時会場にいた関係者だろうか。遠巻きにこちらを見ながら何か話していた者達が、魔術警察を伴って近付いてくる。
厳然とした雰囲気の杖を持った警官が四人、スオウを取り囲んだ。
スオウはすべてを察しているようだった。
特に抵抗する様子もなく、自分の身柄を彼らに預けていく。メイタロウの入る隙もなく、すんなりと弟は魔術警察に連行されようとしている。
不意にスムーズに流れ出した現実に、はっとして青年は手を伸ばした。
しかしその手も伸ばしきらぬ内に、弟はこちらへ向けて軽く手を振る。
これが自分と兄の境界だといわんばかりに。
一般市民である者と政争を知る者。アマチュア魔術師とプロ魔術師。そして負われていた者と負っていた者。
世界を隔てる者の末路の違いだと。
悲しいことにそれはメイタロウもよく知っている事実だ。
それでも。スオウは最初からこの未来さえ飲んでいただろうが、メイタロウは違う。
待ってくれと、しかし追いすがろうとする声はスオウを囲む冷たい背に阻まれて。
最後に弟は、悪あがく兄に微笑んだ。小さく杖を掲げながら。
そして折り重なるサイレン灯の向こうに、瞬く間にその姿は消えていく。
伸ばした指の行く先もないまま、見送ることしかできなかった。
すべてが飲めないまま、それでもその巨大な水圧で青年を押し潰そうとしていた。
準決勝まで進んだ競技魔術大会の会場は燃えた。
弟は市長襲撃の嫌疑を受けて連れ去られ、先生の容体は不明で……。
メイタロウは、元いた世界に一人だった。
いまだ去らぬ野次馬達と、彼らを押さえながら仕事を続ける消防や警察。耳を塞ぎたいほどのざわめきと目まぐるしい景色。
しかしそんな、自分を取り巻くものも今は遥か遠くで。
立ち尽くしていた。
目を見開いたまま、時間は止まらない。すべては過ぎていく。
そっと、伸ばしていた手を下ろした。
引いていた潮が帰るように、残された身に今やっと真実が押し寄せてくる。
この大会は最初から、水の組織の手の平の上だった。一市長を貶めるための、暗い野望の生け贄だった。
正々堂々の勝負で一人もしくは一組の優勝者を決めることなく、レセプションパーティーの折に競技場が燃え上がることが初めから決まっていた。
テレビの向こう側で流れているような、現実味もなければ興も湧かない話だ。もしそうなら、メイタロウは翌朝新聞か何かで事件を知って、大変な事が起こったものだと何食わぬ顔で日常を始めただろう。
でも今は、すぐにずり落ちてくる眼鏡がない。明日も何もない一日だと、虚しさの中にどこか余裕を覚える心もない。
失くしたものが、これが現実だと教える。
自分と、自分に近しい者を巻き込んだ現実だと。
メイタロウはこの陰謀の渦中にいた。何も知らず、嘆くばかりの一日を過ごしながら、苦悩の選択をした者達に守られていた。
ずっと守られていた。
それだけのことにも気付かずに……。
すべてが、自分を置いて猛スピードで去って。
「ごめん、ロド。僕はあの言葉に適う人間じゃなかった」
口を開けば周りの喧騒に負けるような声が出た。
スオウとリン先生。
守ってくれた二人と自分が違い過ぎて。小さくて、愚かで、惨めで、情けなくて、自分のことばかりで、無力で。
この弱さが傷付けるものを、眺めていることしかできない。
自分にできることをしようと決めたのに。どうしようもなく巨大なものを前にしたとき、折れてしまった。怒りに屈して先など見えなくなった。
命と引き換えてでも何かを壊したい。それだけだった。
迷って走って、それでも自分を変えられると、信じていたのに。
足下が抜けて、どこまでも落ちていく。
冷たい水の底へ。この身にふさわしい場所まで。
どこまでも深く沈む。水面が遠ざかる。
でもこのままでいい。このまま沈んで、見えなくなった方が。
無力なこの男を、消し去ってくれた方が。
沈んで、どこまでも沈んで。
水圧が迷走魔術師を押し潰す。
視界は少しずつ暗く、闇色に狭まっていく。
そうだ、このまま……浮き上がることもなく。
しかしその瞬間に見ていた水面に最後の雫が落ちるように、その声はメイタロウが見上げる境界に落ちてきた。
「あたしもそうなんだよ」
思わず自分の後方を振り返る。そこにその魔術師はいた。
「誰も傷付けずに生きていけたらいい。その言葉に、まだあたしは届かない」
魔術師は……ロドは言葉を続ける。
「あたしは自分の運命を曲げて魔術師になった。その途中で、色んなものを壊してきた。傷付けてきた。……叶うことなら誰より優しい魔術師に、そう思った」
サイレンに囲まれた、星もない夜空に向けた瞳。
それでもその瞳は光を見ているようで。この世界でたった一人、見えない星の輝きを知っているようで。いや、それ以上に……。
「誰も傷付けずに魔術をしたい。その方法を探して旅に出た。……優しい魔術師、あたしはまだ成れないけど、この気持ちを持ち続ける限りその方法は見つかると信じてる」
水面の向こうに淡く、しかし確かに光る。
その向こうに広がる闇を破って、夜明けが訪れたことを知らせる。
メイタロウが今見ているものは、まさに。
「ここから始まりだよ。リン市長もスオウもまだ生きてる。メイタロウがここまで来たから生きてる。この先を見てみようよ」
温かい水流が、背を押し始めたのが分かった。メイタロウの背を包み、少しずつ水面へと押し上げてくれる。
まだ薄闇の中の、しかしどこかで光が差しているかも知れない、その向こうへ。メイタロウもこの現実を生きられるかも知れないと、微かな希望を伴って。
水をきって上がっていく感覚は、緩く頬に伝わるように。
それでもまだこのまま浮上すべきか分からない、立ち尽くしたままの青年に、最後にロドはこう言った。
「生きてて良かったよ、メイタロウ。先生がいなくなる悲しさを、メイタロウはスオウにも魔術教室の子ども達にも味わわせなかったんだから」
そう言ってくれた。
そう言ってくれた意味を分かった瞬間。
うまく喋るつもりだった。
口から出た言葉は端からこぼれ、溢れ、沸き上がるものに越されていく。
膝からその場にくず折れる。
地面に雫が落ちて、それはもう止めることができなかった。
魔術の世の野望が燃えた後の、煤けた競技場が夜闇にたたずむ。
忙しく自分の役目をこなす人々の声だけが、メイタロウの頭の上を通り過ぎていった。
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