七話目

「結構食べるのね。やっぱ陸上部だったから、かしら?」

 ファミレスで会計を済ませ、二人でお店を出る。

「現役の時はもっと食べてましたよ。これでも大分減った方です」

 彼から来たラインの、真意を測りかねていた。

 今更私達の、何を話すというのだろう。こんなこじれ切った関係の、何を。

「そうなの? たくさん食べるのはいいことよ。食べないよりかはずっとね」

「まぁそうですけど……。やっぱ気になりますよね。体型とかは」

 十二分に細い体だが、それは彼女、美紀なりに努力しているのだろう。

「それはどうしても気になっちゃうわね。あ、駅はこっちの道から行った方が近いわよ」

 美紀を見送る駅までの近道を案内しようとすると、ふと袖を持たれた。

「……近道、じゃなくていいじゃないですか」

 成程ね。それはもう、可愛いわ。皆どこで身に着けてくるのかしらそんなテクニック。

「ふふ。分かったわ。じゃあこっちから行きましょうか」

 大きな道路を通る、普通の道を選ぶ。

 世間話をしながら、駅までの道を歩く。それは、昔の彼と自分を想起させるようで。

「千鶴さんは、いつからこっちの……というか。その、女同士で、みたいなことするようになったんですか?」

 ただ昔は。私が一つ年上の彼に敬語を使っていたな、なんてことを思いながら。

「始まりは、よく覚えているわ。大学二年の夏、その当時友達だった子と」

「……その時のこと、聞いてもいいですか?」

「――嫌、かしらね。それは」

 そしてそれに、私は本心を包み隠さず話した。

「……分かり、ました」

 それきり、彼女は口を閉じて歩いた。

 私はそれを、話したくなかった。それは、私の人生の中の最悪な思い出の一つと言っても良いくらいのことだったからだ。

 大学二年の夏。自分の友達と、そういうことをした時。

 私はハッキリと、当時先輩と呼んでいた彼を、壊してしまうかもしれないという自覚があった。

 元々考えすぎるところがあったのだ、彼は。

 人の苦労も背負ってしまうきらいがあった。人の苦労や悩みを引き受けて、自分のことのように悩む癖があった。だから、私が無茶なことをした時は怒ってくれたし、私に少しでもいい事があると、手を放して一緒に喜んでくれた。

 それが私は、嬉しかった。

 今まで周りに相談できる人なんていなかった、自分の生まれについて。話を聞いてくれるだけで、最初はとても嬉しかった。悩みならなんでも聞く。いつでも聞く。だから、何でも言えよなんて、ありきたりで恩着せがましいと思っていたけれど。

 先輩はそんな感じを匂わせないくらい、本気で。私のことを思ってくれてるんだという気持ちが、私に如実に届くくらい、優しかった。

 私はそれに、どんどん甘えていった。私の心の根底にあった甘えたがりという感情は、彼によって掘り出され、どんどん私は彼に傾倒していった。

 しかしそれと同時に。私は学業に付いていけなくなっていった。体質の所為で特に朝は気分が落ち込みやすく、起き上がることも出来ないくらいに気持ち悪い日が何日も続いたときもあった。それが原因で講義を休みがちになり、夜は寂しくなって彼と真夜中まで電話をするという生活が続いた。

 それは明らかに、彼の重荷にもなっていた。

 彼はその時にはもう既に就活を初めていたが、決して私との会話を拒むことは無かった。というかむしろ、彼もよく私を電話に誘っていた。

 深夜は、お互いにどこまでも甘えられる。そこだけが救い。それをすることによって、私達は生きてて良かったと思えた。

 明らかに、共依存だった。お互いがお互いの存在に依存していた。

 私達の前に、相手のことを楽にするという選択肢は既になく、自分が楽になるために相手のことを利用している形になっていた。

 それは、図らずとものことで。第三者から見れば明らかなことで。当事者達には想像もつかないようなことだった。

 私が彼を歪ませるように、彼も私を歪ませる。

 しかし、そんな関係がそのまま続くわけもなく、現れた歪みは、どこかで解消しなければいつかは互いに折れてしまう。その解消の仕方が。いわば私達に現れた反動が。

 奇妙なことに。同性に恋をする、というものだったのだ。二人が二人とも、そのようなことだったのだ。

 こんな関係。もうとっくに壊れている。押されて、引っ張られて、捩じれて、裏返って、めちゃくちゃのバラバラになっている。

 普通、世間一般が恋人に求めるものは何も求めていなくて。私のような酷い存在がもう一人いることで、安心できるんだという醜い感情だけで、私達は一緒にいる。

 彼といる時は、何も考えなくていい。相手への配慮や遠慮はもちろん、今後の心配も、私が今不幸なのか幸福なのかさえ、考えなくていい。思考を放棄して、生きていられる。

 だから私は彼と一緒に。私達は互いにずっと一緒にいるんだ。

 この醜く暗い、一寸先は闇の現代で。このままではいけないと誰もが思っている現代で。

 厭世もせず革命も企まず、のうのうと生きていられるから。ずっと、楽でいられるから。

 私達はずっと、一緒にいる。向上心も恥も何もかも捨てて、私達は、ずっと。

「……千鶴さん。……雨、降ってきましたね」

 一人で思案に耽っていると、いつの間にか降ってきた雨に気付かずにいたようだ。

 まだ駅までは少しあるというのに、雨の勢いは段々と強くなっていき、美紀と二人でどこかで雨宿りしようという話になった。

「こっちにバス停があるので、そこの屋根にお邪魔しましょう! ちょうど、駅行のバスも出てますし!」

 そう言って、強くなってきた雨に打たれながら私の腕を持っていく美紀。眩しかった、とても。私に提案をする彼女の顔は、私が失った純真というものを持っていて。

 夢、とか。希望、とか。理想、とか。そういったものを語ってもいい資格のようなものが、美紀の中にはまだある気がした。

 汚れ切った私には、もう無いものだった。そして。

 昔の私は、確かに持っていたものだった。完璧主義だった、昔、私は。自分には出来ていた。勉強も、趣味も、全部。

 いつからだろう。テストで高い点数を取ることを諦めたのは。学校生活の目標が、卒業すること、になったのは。入学した時は確かに、希望に溢れていたはずなのになぁ。

「ここで雨宿りをしましょう! いやぁ、急に降られましたね」

 雨に濡れた髪がなまめかしい。子供のような爛漫な笑顔と、色気が噛み合っている。

 そういえば。昔はよく、可愛いなんて言われていたなとも。

 もう今は、言われなくなってしまった。可愛いとは。綺麗や色っぽいとしか、言われなくなってしまった。

 私はやはり、あの頃には戻れないのだ。失ってしまった処女性は、もう取り戻すことは出来ない。

――どこかの、文豪の言うとおりだ。

 あの時親近感が湧いた作品の、他人事だと思っていた部分まで、もうそうでは無くなってしまった。

 これは私にとって、喜ばしいこと……。

「本当。急に降ってきたわね。天気予報を見ておけばよかったわ」

 雨がもう、ザァザァと降っている。バス停には私達二人しかおらず、雨音しか聞こえない。

 まるで私達二人が世界から隔離されたようだった。

「…………」

 美紀は、何か考えているのか、俯き黙っている。

 さっきまでにあんなに楽しそうだったのに、激しい女性だと思った。

「ねぇ、千鶴さん?」

 ザァザァと雨粒がコンクリートに打ち付ける音の中に、綺麗な波形が混ざった。

 彼女の声は、本当に綺麗だ。

「どうしたの?」

 昔の彼なら、私の声も綺麗だと言ってくれただろうか。

 もしかしたら可愛いと言ってくれたかもしれない。

 今の彼は、何というのだろう。私には、分からない。

「私と、付き合ってくれませんか?」

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