六話目
ソイツとは、それっきりだった。そのあと絶交して口も聞かなくなったし、今では名前も覚えていないくらいの関係だった。
ただ。
彼女と付き合ってから初めて。彼女以外としたキスだった。
それはれっきとした不貞行為であり。俺の中で大きな大きな。
裏切りだった。
越えてはいけない。高い高い壁だった。
一度越えれば、関係無かった。そうか、男に恋するという方法を使えば、周りにおかしくなったと思われるのか。注目して、もらえるのか。
彼女に。千鶴にもっと心配してもらえるのか。
それは明らかに。的確に。彼女を傷つけようとして行ったものだった。
そのような趣向を持った者が集う掲示板に入り浸り、やっとの思いで一人の男性と会う約束を取り付けた。
その男性とは、最後まで行った。
間違いない、俺はその日。
死んだ。
俺と千鶴の関係は、その日に偽物になった。
今、俺が何故こうやって動いているかは分からない。何故千鶴と関係を続けているのかも分からない。
ただ、ハッキリと分かることは。
あの頃の二人はもうどこにもいない、ということだ。
二人が変わって今の関係に収まっているのではない。あの頃の二人の関係は実体の無い幻影、存在の出来ないもので。
もう、あの頃の二人はどこかに消え去って。
今ここにあるものは、それにどうにかこうにか似せようとしている歪なモノだけだ。
何故、俺は生きているのだろうか。
ぼんやりと手を眺めている内に、生きている意味さえ分からなくなった。
そもそも。
もうそんなもの、とっくに無いのかもしれない。
今の俺はきっと。
鯨の体の中にいつまでも存在している骨盤のように。既にいらない存在で。
それの所為でアイツの足を引っ張っているのだとしたら。それならば。
もう。消えてしまう方が正解なのかもしれない。
スマホが震える。アイツから返信が来た。
『今は、昨日会った子とファミレスいるよ』
深々と、海の中に沈んでいくような感覚。
ラインが返ってきただけで、嬉しい時もあった筈なんだ。アイツと話しているだけで、付き合っているだけで、嬉しいときもあった筈なんだ。
なのに、今。二人はまるで枯れ果ててしまったように。
互いについて何かを感じることは殆どない。形だけの。本当に形だけの関係だった。
家に帰っている途中で、ポツポツと雨が降ってきたので、コンビニに寄ってビニール傘を買う。
雨は、小雨からあっという間に土砂降りになった。
あぁ。空をみて目を細める。
救いが、欲しい。
俺のことを、無条件で受け止めて、無条件で許して。
暖かく包んでくれるような、そんな存在が欲しい。
何故、俺達は疲れることしか許されないのだろうか。癒されることを望んではいけないのだろうか。
俺はずっと。癒しが欲しかった。信じれるものが、欲しかった。日本人には宗教も無いし、決して日本の未来が明るくないことを教育で刻み込まれる。
新聞も、テレビも。日本を批判するために出来ている。
毎日毎日、自国をこき下ろされ。周りの人間は日本のことなど何も考えずに日常を生きている。
日本を好きでいるには、毎日疲弊するしかなかった。
このままただ腐って紋切り型の人間にならないためには、藻掻かなければなかった。
そして。そんな俺を助けてくれる存在に。俺は。
一度はやっと、会えたんだ。
『人の存在意義についで、ですか?
いいですよ先輩。そのことについて議論し合いますか』
俺と議論してくれて。そして俺と馬鹿話をしてくれて。
その女性は考えることがとても上手で。俺とずっと話が出来るくらい、変人だった。
可憐で、清楚で、思慮深く、利他主義で、頑固で、頭脳明快で、運動音痴で、真面目で、努力家で、臆病で。
――俺が出会った時には既に、もうどうしょうもないくらいに、俺とは住んでいる世界が違った。
俺を救ってくれた人を、俺は。
理解して、救ってあげることが、出来なかったんだ。
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