五話目

 小銭を払って、店を出る。

 エネルギーだけを摂取したような感覚だ。無駄なものは一切入れずに、体にエネルギーだけを入れた様な。

 ファストフード店なんて、今時の人間は一度は必ず行ったことがあると思うが、大学生になってもそれに一度も行ったことが無い人間が、千鶴という人間だった。

 俗に、大衆文化とも言うのだろうか。例えばバラエティ番組や、ゲームセンター。インスタント食品、流行りのユーチューバーなど。

 それに全く触れたことが無かったのが、音佐千鶴という人間だった。

 お嬢様、という訳ではない。家庭が特別裕福だったわけではないし、お偉いさんの血筋というわけでもない。

 ただ、親から情報規制とでも言えるような監視をされていた。別に監視といっても、教育の一環の範疇に収まっていたと思うが。

 大学に上がって一人暮らしをするまで、殆ど民放というものを見ていなかった。当時、日本国民なら知っていて当然ともいえるお笑い芸人の名前が分らなかった。カップラーメンを食べた事があるのは、両手で収まるほどだった。

 ただ、英才教育の賜物でパソコンはとても上手に使っていて、そのコントラストが面白いな、と。

 第一印象はそれだった。面白い人。

 この人はどんな価値観を持っているのだろう。自分とは全く異なる環境で育ち、自分と同じ年数を生きてきた人だ。きっと、一緒にいるだけで刺激的な体験をするに違いない。

 好きになった、ということだった。一緒にいたい。話したい。笑わせたい。自分が知っていることを教えたい。相手が知っていることを知りたい。守りたい。

 その大きな価値観の溝を埋める辛さなど、考えもしなかった。

 ただただ。ただただ。尽くしたかった。

 そのことで自分に来るしわ寄せなど、考えたくもなかった。今は、その時だけを生きていたかった。

 彼女に振り回された、なんていうとまるで俺が被害者で彼女が加害者のような響きがある。それは違う。

 俺は、彼女に振り回されたかった。

 例えば、彼女が今は話したくないと言えば、自分の気持ちを押し殺してそれに従った。それに抵抗はしなかった。

 抵抗しない自分が好きだった。可哀そうな自分が。

 彼女が話したいと言えば、どれだけ遅くなっても話した。次の日が学校でも、深夜まで通話を繋げた。

 尽くす自分が好きだった。

 最初は彼女の為に尽くしていたはずだったのに、やがて自分の為に彼女に尽くしていた。可哀そうな自分を作るために。

 どんどん、精神が病んでいく自分を俯瞰することは、自分にとって最高の娯楽だった。俺は。

 自分の欲望のはけ口に、彼女を使っていただけだった。

 彼女を救う振りをして、いや、ずっと本当に救いたいという気持ちはあったのだが。

 彼女を救うと言いながら、俺はどんどん二人にとって良くない方向に進んでいった。

 俺が、自分が病んでいると周りに思わせたい一心で取った行動が。

 男に恋をするということだった。

 大学三年の夏。俺は、男と不貞を犯した。

 同級生の、就職に対してとても恐怖を患っている奴だった。良い企業に受からなきゃ、そればかり言っているナヨナヨした奴だった。

 ソイツの悩み相談をよく請け負っていた俺は、よくソイツの悩みを聞いていた。

 油断していた。日頃の睡眠不足から、そいつの家でつい横になってしまった俺は。

 

 唇に暖かいものが触れた感触で目が覚めた。

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