ハル・シオンと穿つ花 -1

 ここまでだ、と主様が掠れた声で言った。は、と震える唇で息を吐く。寒さと痛みで体かおかしくなりそうだった。脂汗を乱暴に拭1う。右手を左の胸にあてて、膝が地面につく寸前まで曲げる。右足を後ろに引くので、左足に荷重がかかる。右足をかばい続けた左足の感覚も、もはやないけれど。

 乾いた風と、ぼんやりとした明かりが届くくらいには、洞窟を歩いていた。もうすぐそこで外にたどりつく。


「お礼申し上げます」

「構わない。ただのお役目だ」


 顔を上げる。黒いローブの奥底も顔は相変わらず見えないままだった。レトの小さい手を握りなおして、出口の方を向く。

 ここまで来ても、見返りを求めないものか、という小さな違和感はあった。人と人外のやりとりはなにもかもに等価交換があるはずだけど。善意として受け取れるだけの純粋さはわたしにはない。


「主様、わたし……」


 薄氷を踏む。はっきりさせるべきだろう。


「なにも、主様は、わたしに要求しませんが。あるのなら、今、ここで仰ってほしいです」

「なにもいらぬと言ったはずだが」

「でも」

「いらぬ。わたくしはこの洞窟にあるだけ。これ以上もこれ以下もならぬ。お前からなにも貰うものはない」


 邪険に手が振られる。


「早く帰るが良いよ。そして二度とこの山には来るでない。次は助ける側になるかわからない。今度こそ、再会はすまい」

「失礼致しました」


 冷たい空気を吸い込む。別れを告げる時は、目を見て、最後まで、そらさない。


「本当に、ありがとうございました。感謝しております。主様、それでは、さようなら」


 ふっと闇が深くなる。暗闇のローブが、溶けていくのを黙って見送って、レトの手を引く。かすかに煙のにおいがした。


「翁」


 洞窟の壁に手をつく。大きな背中がこちらを振り向いたのを見て、安堵の涙がこぼれた。ぱっと顔を払って、崩れかけた膝を叱咤する。


「ハ……総領娘、」

「ごめんなさい、心配かけて」


 レトを前に押し出す。行って、とささやく。レトを支えて歩くのはもう限界だった。


「レトは無事だったから、はやく帰りましょう。予定より長引いてるし」

「馬鹿言うんじゃねえ。まずは休憩だ」


 ザレルト翁がわたしの肩を支えて、焚き火の近くまで歩かせる。緊張がとけて、全身からどっと汗が噴き出した。小雪がちらついている。

 ねえさん、とレトが不安そうにわたしを見上げる。なんとか騙したままベースまで帰りたかったのだけど。地べたに座る。


「ザレルト翁、水をちょうだい……」

「ああ。どこか怪我したのか」

「足。……ひねっただけ。ずっと歩き通しだったものだから」


 痛みに呻きながら靴と靴下を脱ぐ。内出血で足首が青くなっている。深く息を吐く。水筒をザレルト翁が差し出すのを受け取る。直接口をつけたら、わたしの唾液が中に混じるので、このまま飲むことはできない。カバンの中のコップを出さなくては。

 レトがわたしの視線の動きを見て、ぱっと立ち上がった。慣れた手つきでカバンの中を漁る。白い琺瑯ほうろうのコップをすぐに見つけ出して、わたしの手から奪った水筒の中身を注いで、ぐいっと手に押し付けてくる。


「ありがとう、レト」


 ザレルト翁がポケットからなにか小さなものを取り出して、火の中に放り込む。ほんの一瞬、炎が青く色を変える。燃え尽きる前に見えた形は小鳥。出発前に切り出していた木片だ。焚き火に向かってザレルト翁が話しかける。


「誰かいるか」

『だーれ?』

「イグザレルトだ。リュウアトか?」


 いくつかの、幼い子どもたちの声がした。ベースにはいくつか焚き火をしているし、その見張りには小さな子どもたちが宛がわれるのが常だった。そうだよ、とリュウアトの元気のいい声が帰ってくる。


『どうしたの。大人を呼んだ方がいい?』

「そうしてくれ」

「ロジンも呼んでちょうだい、リュウアト」

『ハルおねえちゃん? わかった、今呼んでくるから』


 ハルお姉ちゃんだ、と何人かの声が遠ざかりながら言うのが聞こえた。ザレルト翁お得意の、火と木片を使った魔法だ。同じ木から切り出した木片を離れた火の中に入れることで、短いあいだ通信ができる。

 日は思いのほか高い。本来ならこのくらいの時間までに、ベースへ帰ってくる予定だった。


『ハル?』

「ロジン」


 ザレルト翁の目をちらっと見たら、静かにうなずかれた。この場においてはわたしの方が立場が上で、連絡を取りまとめるのはわたしの仕事だった。


「今、ザレルト翁と合流したわ。レトも一緒。いまのところ全員無事。レトは怪我してるけど、今のところ緊急性はない」

『よかった』


 ほっとしたロジンの顔が目に見えるようだった。やはり、一刻もはやく帰りたい。


「無事なんだけど、わたしが足を怪我しちゃったの。捻挫なんだけど、長い時間歩いてきたから、痛みがひどくて。もう少し休んでから帰るわ」

「一晩だ」


 真向いから、強い口調でザレルト翁が言う。


「明日まで様子を見た方がいい。怪我した足で山を下りるんだったら、そのくらいは休むべきだ」

「大丈夫よ。ホウキもあるし」

「おめぇ、それでホウキから落ちたらどうするつもりだ。爺には二人も抱えて山を下りることなんてできん。どうせ、日のあるうちにベースまでたどり着かんのだ。明日の朝早くに出るべきだ」


 ホウキから落ちるなんて、長いことしていないわ、と反論すべきか迷う。たしかに、この足で下山は怖いことだけど、そんなことよりはやく安全地帯まで帰りたかった。


「帰り道を急くな。水も食料も十分にある。天気もしばらくは荒れない。休めるときに休め」

「ベースの方がゆっくり休めるじゃない。ここは寒いし、火も大きく焚けないわ」

「無事にたどり着けなかったら、なにもかも無駄になる。帰り道こそ万全に近づけなければならない」


 唇を噛む。ここまで強く言われると、反論しづらい。


「……わかった。ロジン、聞いてのとおりよ。母さんと伯父さまに伝えておいてくれる?」

『わかった。どうか無事で……』


 声が遠くなる。魔法の時間切れ。伝えるべきは伝えたので、とりあえずはこれでいいだろう。カバンにもたれる。氷を作って、足を冷やすべきだ。エニシダの入ったウエストポーチを探る。だいぶ中身が減ってしまった。

 コップの中の水を飲みほして、新しい水をコップに入れる。一昨日の夜と同じ手順で氷を作って、タオルに包んで患部にあてる。ザレルト翁が鍋に水を入れて、火に置く。


「ハル、なにか飯は作れるか」

「ええ、それくらいなら」

「今夜は飯を食って、早く寝るぞ。儂は水を持ってくるから、なにか作っておけ」

「うん」


 早く休みたい気持ちがうんと強いので、素直にうなずく。熊のような体が、枝を打ち払った獣道を下っていく。は、と息を吐いて、ザレルト翁のカバンの中を漁る。食事はなににしよう。


「レト、なに食べたい? いつもの携帯食しかないけど。とうもろこし、ほうれん草、じゃがいも、にんじん……ああ、チーズがあるわ」

「チーズ?」


 レトの顔が少し明るくなる。そういえばチーズは、レトが好きなものだった。案外子ども舌なので。ほうれん草はあんまり好きではない。


「じゃあ、にんじんのポタージュと混ぜてあげる。マカロニにしようか。しばらくずっとパンだけだったんでしょう」

「ぼくはなんでもいい」

「はいはい」


 レトの額を撫でる。直接触れることはできないけど、手袋越しでもわかることはたくさんある。体温は低くもないし、高くもない。汗はかいていない。顔色は悪くない。肌が異常に湿っているわけでもない。

 背中の傷は気になるので、後で見せてもらった方がいい。細い手首にそっと触れる。脈も血圧も、特に気になることはない。


「頭は痛くない?」

「うん」

「吐き気はない?」

「ない」


 ぶっきらぼうな返事に苦笑して、食事を作り始める。足が痛いので不自由だけど、どうにでもなる。レトがわたしの目の届く範囲で枝を拾い集めて、せっせと運んでくる。別になにもしなくていいのだけど、それはそれで落ち着かないんだろう。気持ちはわかるので、そのままさせておく。

 七歳の少年にしては、危ないことを嫌がる性格だと思う。大人に叱られることが嫌というより、テトの表情が曇ることを厭っているだけだが。


「……レト」

「なに」

「なにがあったか、わたしに教えて」


 テトがばらばらと木の枝を地面に落とす。長い前髪の中から、赤さびの色に似た瞳がこちらを見つめている。唇がぎゅっと噛み締められた。


「今、言って。わたしに」

「……ぼくからいえることは」


 レトが服をかき寄せる。寒さをこらえるのではなく、恐怖を思い出したときの仕草だ。


「ぼくからいえることは、なにもない。大きな鳥にはこばれて、あのひとのところで、手当てをうけて、昔話をきいて……」

「レト、おいで」

「いい。ぼくは、それで、うなずいた」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る