ハル・シオンと暗の道 -11
ふと御柱様が慈悲深く笑った。すがってしまいそうになるのをどうにかこらえる。だから、紅茶に砂糖は必要ないのだ。
「あなた、紅茶をいれるのが上手ね」
「……初めて言われました」
「そう? 褒められるべきだと思うけれども」
御柱様がぱちんと指を弾いて、ティーカップをどこかに消す。さざなみのような衣擦れの音を立てながら立ち上がるのを、黙って見上げる。
わたしも立つべきなのかもしれない。くたくたに疲れ果ててしまって、もう元気はないけれど。義務感だけでのたのた体を動かしたら、ステッキがわたしの肩を小さく叩いて止めた。
「結構よ、ハル・シオン。今夜はあなたの話しに乗ってあげる。おいしいお茶をありがとう。わたくしはおいしいお茶を飲んだだけ。あなたは弟を見つけただけ。今夜はこれでおしまい」
「……御柱様、」
「親しみをこめてグランマとお呼び。次会う時は、あなたとわたくし、もう少し歩み寄れる立場だといいわ。それじゃあさようなら」
「よろしいんですか」
ええ、と軽快な返事が帰ってくる。黒いドレスが地面のすれすれをひるがえった。
「今夜は、なんにもなかった。それだけでいいことにしてあげるわ。あなたの覚悟と、お茶に免じて」
かちんとエナメルの靴が地面を叩く。どろりと闇が地面から溶けだして、御柱様の足首を掴む。
「おやすみなさい。良い夜を。決して山の頂上には行かないように。火の始末はきちんとなさいね」
「ご忠告に感謝いたします。また、いつか、お会いしましょう」
とぷんと闇の中につま先から沈んで、御柱様はいなくなる。ぜんぶ夢みたい、と呟く。流れ星みたいな、鮮やかな去り際だった。ずっと考えながら話し続けていたせいで頭がぼおっとする。
甘いものがほしい、と思いながらカバンを引き寄せる。予備の毛布を出して、肩に羽織る。枝で焚き火の枝をかき分けて、火の勢いを弱くする。きつく結んでいた髪をほどいた。
あくびをかみ殺す。疲れで眠ってしまいそうだった。靴と靴下を脱いで、右足に結んでいたタオルをほどく。氷は全部溶けて、びしょびしょに濡れているだけになっていた。水筒の中身はもう半分もない。新たに氷を作ることはできない。
大きなタオルをレトにかける。明日の朝すぐに出発して洞窟を抜けて、狼煙をあげたらザレルト翁が迎えに来てくれるだろう。
火の粉が爆ぜる。焚き火が徐々に熾火になっていくのを見つめていたら、上まぶたを持ち上げていることすら辛くなってきた。けがもしたし、それを治す魔法も自分で使った。その後も緊張の連続だった。普段だったら絶対に眠ることなんてしないけど。膝を抱えて目をつむる。
*
乾いた地面を叩く足音で目が覚めた。
いつの間にか地面に伏していたらしい。硬い地面のせいで体のあちこちが痛む。のろのろ体を起こした先で、黒いローブがはためいた。
「……ぬしさま?」
「娘」
相変わらず、低くしゃがれた声だった。ええと、と小さく口ごもったら、主様がかすかに笑ったような気がした。
「洞窟の入口に、年老いた男が来ている。お前と同じ髪の色だ」
「ああ……」
冷たい空気を吸い込んで、ぼやけた口調を修正する。
「わたしの、知り合いです。彼は、入口に、そのまま?」
「ああ。お前の作った焚き火を作り直して、居座っている」
十中八九、ザレルト翁だ。入口まで来てくれてる、と思ったら、だいぶ気が楽になった。真っ暗な洞窟の中だから時間の感覚も距離の感覚もだいぶ曖昧だけど、外まで歩いていけるだろう。
毛布に埋もれた弟を揺すり起こす。体を起こして、ぼーっとわたしの顔をしばし見つめた後に、目を大きく見開く。すがりつくようにわたしの服を握りしめた。
「ねえさん、グランマは……」
「……今日のところは、帰りなさいって」
レトの、赤と茶色の間の瞳を見つめる。いつもひねくれて、すがめられている目が、まんまるに見開かれた。服を握りしめている手に、さらに力が入った。
「帰れるの」
「ええ。帰りましょう。ザレルト翁も近くまで来ているって」
レトの頬に流れた涙を、服の袖で拭った。レトが泣いているのを見るのは、いつぶりだろう、とふと思う。小さな頭を抱き寄せる。絞り出すような声が、わたしの腕の中から小さく聞こえた。
「ぼくは、帰っていいの……」
黙ってレトを抱く腕に力をこめる。いくら賢くても、ひねくれていても、大人びていても、まだ彼は七歳で、幼い子どもだった。そう思えば、御柱様に怒りが沸くので、楽しいことに頭を切り替える。
「帰ろうね。テトも待ってるわ」
「うん……」
「たくさん怖かったでしょう。もう大丈夫だからね」
大きく鼻をすすって、レトがわたしを押しやる。つんと唇がとんがっている。
「怖くなんかなかった」
「ええ、そうね」
「……泣いてたって、テトには言うなよ。あいつがぐずぐずするのが一番めんどうだから」
「わかってるわよ」
だてにあなたの姉を七年しているわけじゃないわ、と言う。レトが嫌いなのは、テトが泣くことと、哀しがること。わかっている。
お茶を水筒に作って、乾パンをポケットに仕舞う。歩きながら食事をするのは好きじゃないけど、今日のところはいいだろう。レトが水筒から直接飲んで、自分はコップに出して飲む。角砂糖をレトの口の中に放り込む。
洞窟の入り口に、二人で手をつないで向かう。洞窟の主様が黙って佇んでいる。
「お待たせしました。出発できます」
「……行こう」
包帯で固定した足が、地面に降りるたびに痛んだ。唇の内側をそっと噛み締める。レトに怪我してることを教えるなんて、わたしの姉としての矜恃が許さないのだった。
弟の先で歩くことを選ぶ。怪我を教えないことを選ぶ。迎えに行くことを選ぶ。食事を渡すことを選ぶ。姉、として、育てられた、わたしの、山より高いプライドだった。
地面はぬかるんでいて、昨日よりずっと歩きにくかった。気をつけてね、と後をついてくるレトに言う。レトまで怪我をしたら、わたしだけで連れて帰れるかあやしい。
「娘」
先導する主様が、振り返らずに言う。
「その子どもを抱きかかえることなど容易だが」
「あ……」
この方には、怪我をしていることはばれていることを忘れていた。知っていながら、隠すことを選ぶあたり、やはり人に近しい、と思う。人の考えていることを想像して、正解して、合わせて行動するなんて、人外のすることではないのに。
「……いえ、わたしたちは旅の一族です。このくらい、なんでもないです。もしかしたら、お世話になるかもしれませんが」
「わかった」
わたしの手を握るレトの手に力が入った。心配はしなくていい、とレトの手の甲を撫でる。黙々と緩やかな坂道を上る。右の足首が燃えるように痛み始めた。
むちゃには痛みが付き物だった。痛くていい、と思う。こんなときでもないと、わたしを削ることはできない。愛情にくるまれて、動きにくくなるほどなんだから、こういうときに、みんなの代わりに身を削るのは、当然のことだった。
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