第31話『ぶっころす』(連続33話)
――外されたな。
重美は唸った。
先ほど松下に、月旦と勢花は提案したのだ。
「おそらく、わたしたちも、彼女たちも、毬谷円佳に花ちゃん、東郷重美にわたしをあてると思っているかと。そこで、おそらく先鋒で来る毬谷さんには、わたしを最初にあてて頂きたいと思います」
なぜかと問われたが、月旦は「意趣返しを受けたいと思います」とだけ言う。
頭の中で彼女たちの実力云々を推し量ることができない松下だが、ふたつ返事で応じた。
「戸田さんも、自分の成長をしっかり見てもらうのよ」
「ええ。花ちゃんも存分に見せつけてあげなさい」
そっちの方が重要だと、松下は思う。
月旦もそうだったのだろう。
勝ち負けではなく、繋げるために。
――しかし。
円佳と月旦は違う。
ここで打ち合わねば、遺恨を残す。
いや、打ち合うことで遺恨が深まるのか。
どちらでも構わない。
これは、彼女なりのけじめなのだ。
最初から東郷重美と遣り合うつもりはなかったのだ。
「確実に勝ちに来たか。いや、諸田一刀流はそれほど甘くはない」
自問する田島。
答えは出ずじまいだ。
「では双方構えて」
円佳は竹刀を正眼に。
月旦は木刀を下段に構えた。
上位者が下位者に取るとされている下段の構えに、円佳の竹刀がギリと軋む。尚武堂の一件をも思い起こされた。
――ぶっころす。
――ご随意に。
「始め!」
田島の開始がかかるや、爆発的な闘志が双方から膨れあがる。
月旦の左足がツイとやや前へ出た瞬間。
「面ッ――!」
裂帛の気合いと共に膝を曲げ跳ね飛んだ円佳の斬り落としが襲いかかる。一足一刀の間合いを瞬時に詰める刀勢が、下段に構え無防備になった月旦の頭を襲う。
「ふっ――!」
踏み込みかけた左足を右足後方に一文字に退き、深い四股立ちで下段から木刀を跳ね上げる。引くと同時に右へと躱された体、胸で振り上げた木刀は、円佳の打ち下ろしの腕をすくい取るようにビタリと受け止めていた。その刃部分はしっかりと振り上げる刀筋に沿い、上を向いている。
寸止めであった。
止めた木刀に円佳自身が腕を叩き付けた形であった。
刀身であれば、振り抜けば両篭手切断である。
すくい取られるようにビタリと当て抑えられた木刀に、完全に振り下ろす竹刀の勢いを殺される。
「くっ!」
円佳が押し込むように力を込めるが、ネバリある刀身はビクともせず、それでもなお押し込もうとする円佳の動きに合わせ刃を返し月旦は体ごとへし斬るように引いた左足をズイと踏み込む。
腋下を存分に刀身に押され、体を崩され、円佳は後方へとたたらを踏んではね飛ばされた。
「待て」
田島の声がかかる。
開始線に戻る指示が出されるが、一本の声はない。
なるほど、剣道ルールである。
実のところ剣道のルールをよく分かっていない月旦だが、それでもより分かりやすい結果を出すことが目的なのだろうと感じた。これはもう剣道ルールですらないのだ。
――小賢しい真似を。
試合中であるため、毒は気迫と目に込める。
面の中で憎々しげに歪む円佳の瞳を受け、しかし月旦の瞳は揺れず、ややおとがいを上げた茫洋とした視線は彼女を見て、しかし遠くを見るように感情が掴ませない。
「始めッ」
――八相に構えた月旦。
慎重に正眼に構えた円佳が切っ先を揺らしながら出方を伺うのを、静かに認識する。
構えは、構えることに執着しやすい。
剣先が構えの中で居着かないように、セキレイの尾のように揺らすことで、その執着から逃れ自由な剣を振るう。
フェイントでもあり、動きの起こりを読ませない技術であろう。
しかしそんな円佳の剣を前に、一足一刀の間合いを保ちながら、ピタリと立てた刀身を月旦は静かに支えている。ともすれば肩に担いでいるような脱力した佇まいに、円佳はフ――と頭が冷えるのを感じた。
見られている。
文字通り、どこをも見ていないあの眼差しで。
文字通り、一挙手一投足を。
八相から斬り落としに叩き付けられる木刀を想像し、相手が自分の篭手を狙っていることを剣者の勘で確信した。
後の先を取る。
円佳はツイと切っ先をやや下げ、ぴくりとやや跳ね上げる。
スと、誘いに乗って月旦が滑るように右足を踏み込む。
かかった。
円佳のフェイントである。
技の起こりと見せかけ跳ね上げた切っ先は、しかし打ち込まれず、やや引き戻された状態で迎え撃たれる。
踏み込んだ月旦の八相からの籠手打ちが、そこに在るはずの円佳の篭手を打ち据える――そんな未来が見えた。がら空きになった月旦の諸手に竹刀を叩き込まんと踏み込み撃ちを放った瞬間。
――バチィッ!
再び半歩退いた月旦の籠手打ちが、円佳の被せ打つ竹刀を弾き、ピタリと寸止めされている。
「……嘘だ」
円佳の竹刀は、切っ先を拳ひとつ分外に弾かれ空を斬っていた。
秘剣、
「辻、篭手あり」
分かりやすく田島は宣言する。
一本である。
打ち据えていれば右手の親指は砕けていたかもしれない。
残心、引き、開始線へと戻る。
月旦は内心汗を掻きつつも、ひと息つきながら震える息を飲み込んだ。
あのフェイント。よく見ていたからこそ引っかかった。
打たれなかったのは、その躊躇でやや遅れた木刀が竹刀に乗っかる形になったからだ。幸運だった。あれは刀身が被さる前に、完全に打たれていたタイミングだった。
「毬谷、開始線に」
「はい」
虚空を斬った竹刀を睨み付けていた円佳は田島の声で我に返る。
二本中、すでに先手一本目を取られた。
いつもの勝負に於けるプレッシャーが、しかし円佳の頭を急激に冷やすことになる。
諸田一刀流剣道の家に生まれたからといって、彼女とて初めから強かったわけではない。苦難も挫折も成功も人以上に味わっているからこその今であった。この程度の事態は、いまさら特筆すべき事柄ではない。冷静に対処し、自分に身に付いた術理で相手をねじ伏せるのみ。
竹刀を握り直す。
左手の小指を軽く締め、右手を添える。
こんな基本すら忘れていた。
開始線に戻った円佳は、鼻から息を大きく吸い、口から細くゆっくりと吐き出す。
「始めッ」
――空気が変わった。
円佳の静かな眼光を受け、その些細な変化に月旦の構えは八相から、祈るような構えに変わる。
刀身を垂直に立て、自分の正中線上に置く。柄は胸の前。
体は正対したまま、左足を前に、右足は開いて踵の後ろにぴたりと付ける。
緩く佇立した姿のまま、月旦もまた、円佳の動きを伺う。
つま先。
爪一枚。
じわりと、円佳のすり足が間合いを詰める。
気迫の間合いが見えるようだった。
円佳の気迫に、月旦は鍔元ギリギリまで踏み込む。誘いである。
先に仕掛けた方が、負ける。
後の先の取り合いの中、静かに気迫だけでの応酬が繰り広げられる。
いくぞ。くるか。のってこい。どうした。
言葉になる以前の念が、各々の脳裏に去来する。
時間において、既に数呼吸分。
後の先を取る戦法であると看破された月旦において、このじわりと動かぬ――防御である正眼の構えを取る相手から、いかに正中線を奪うのか。それが課題となった。
強い。
諸田一刀流は、伊達ではない。
術理がどうあれ、振るう者の厚みなくして、研鑽なくして、強さというものはけっして表れない。
これはもはや、剣道ではない。
剣術でもない。
意地の張り合い徹し合いだ。
剣道剣術を使った喧嘩だ。
わたしは、いくらでも待つ。それが辻月旦という剣士を封じる手であるならば、使う。
見逃すわけではない。
ツと月旦が間合いを外そうとすると、じわりぴたりと吸い付くように身を寄せる。誘いの間積もりに対しても、切っ先ひとつぶん身を引き、外す。
一分。
呼吸音すら薄く聞こえぬ中、月旦の額には汗が滲む。戦いの空気がここまでの消耗を強いるとは。
その一点においては、戦いの中で育った円佳が遙かに上であった。円佳は闘志こそ増すものの、消耗よりも高ぶりのほうが強く出ている。その鼓動は焦りには転じず、両足に籠もる力と変わっている。
後の先は、通じない。
それほどの剣士と看て取るや、月旦の中から迷いは消えた。
真実を伴った誘いは、果たしてどう転ぶか。
「――っ」
月旦は踏み込んだ。
一足一刀の間合いから左足を大きく踏み出し、そこから四股の直線を描き右前方へと深く体を移動させる。拝むように構えた刀身を伸ばし篭手を押さえんと打ち振るうと、円佳の迎え撃つ竹刀が木刀を叩き、その身は月旦の左へと跳ね飛んでいる。
刀身が叩き落とされていたら、面を割られていただろう。
その異様な木刀の重さに、円佳は改めて舌を巻く。
重い。
重すぎる。
腰だ、腹だ、胸だと、素振りの教えでは言う。
形骸化していない何かを感じる。
月旦も背中に張り裂ける衝撃を感じ、円佳の鋭さに息を飲む。
目で追っていたのでは必ず打たれる。
そう感じた。
互いに間合いは三メートルほど。離れすぎてしまう。
あの、がに股――やっかいね。
剣道の直ぐ立ちすり足とは違い、地を足で掴むように上体を揺らさずに縦横無尽に滑り往くあの身のこなし。ベタ足の異様な早さ、動きの柔軟さを思い知る。
砲塔を剣に替えた、戦車。
素早く重い体で鋭利な刃物をあやつり、へし斬るが如き動き。
脱力しているはずであるにもかかわらず、それ故に重い。
正眼のまま、ズッ――と踏み込む。
再び木刀を八相に構え、迎えるように左足を踏み込む。
示し合わせたかのように、あの距離から、振るえばあたる撃尺の間合いでぴたりと止まる。
その距離、十数センチ。竹刀を突けば、月旦の喉を破けるだろう。
八相の月旦も、円佳の面を砕ける距離だ。
突きか、面か、はたまた。円佳の一手を考え、しかし頭の外へと追い出す。考えに固執することは、考えに囚われることになる。
正眼が持つ、攻め手に於ける唯一の長所。それは『突き』だ。肘を伸ばすだけで、体が乗る。起こりがない。
比べ、八相であっても面までの距離は遠い。月旦の、対手の突きから芯を外して、後の先を取った振り下ろしが決まるか、どうか。
その考えすらも、相手の突きがあってのものだ。
考えが固着する。
喉よりも容易な、篭手に来るか。
どこを狙うか。
読み切れない中、月旦は静かに息を止めた。
――来る。
円佳は意地を乗せた。
後ろ足と腕を一気に跳ね上げ、えぐり上げるような突きを放つ。
月旦は先んじて左足を大きく引いた。右足の後方へ大きく引くと同時に竹刀の切っ先は彼女の肩を掠め撃ち、伸びきった直後に諸手を被せ打つように木刀がビタリと振り当てられた。
「そこまで」
田島の声がかかり、数瞬固まっていたふたりは残心、剣を引き、開始線へと戻った。
「勝者、辻。――見事だったわ」
汗だくだった。田島のその言葉に何かを返せるわけではなく、円佳と、彼女に一礼するのが精一杯だった。息をするのも、吐くのも、つらい。心臓の鼓動は早鐘のように打ち、今になってから滲み出る脂汗はセーラー服の背中をもじっとりと湿らせた。
自陣へ戻り、木刀を脇に置き正座。
月旦はくらくらする視界に頭を振り、浅く粗く息をすると、自分が緊張の極みにあったことをようやっと自覚した。
どちらが勝ったのか分からないわね。
それでもようやくひと息つけると、左に控える勢花を伺う。
緊張に緊張を重ねているかと思えば、ひどく静かな表情だった。うっすらと笑みさえ浮かべているようだった。
目が合い、頷き合う。
次は、彼女の番なのだ。
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