第32話『勝ちますよ、先輩』(連続33話)




「やられました」


 篭手をとり、面を外し、こちらも汗だくの顔を歪ませながら、しかしどことなく晴れた声色で言う。


「意地は徹したな」


 重美の言葉に、円佳は頷く。

 髪を押さえる手ぬぐいで顔を拭いはなをすする後輩から視線を外し、疲弊に顔を蒼白にさせている月旦――そして自分を静かに見つめる勢花の視線を受け止める。

 少し見ない間に、大きくなった。

 素直にそう思う。

 面を、篭手を身に付け、竹刀を手に取る。


「――東郷重美」

「はい」

 呼ばれ、立ち上がる。


「――戸田勢花」

「はい」

 スっと、立つ。


 沈魚落雁閉月羞花。

 朱の文字が躍る。

 互いに開始線に並び、正面に一礼。

 互いに、礼。

 視線が交錯する。

 あのとき。

 剣道部時代に教えを受けたときの東郷重美の視線ではない。

 倒すべき相手を冷静に観察する剣士の目だ。

 そして、重美の目に映る彼女もまた、かつて見た後輩の佇まいではなかった。

 巨木が根を張っているかのような重さを感じる。


 ――化けたな。

 重美は正眼に構える。


 ――勝ちますよ、先輩。

 勢花は八相に構える。


「始めッ」

「イヤァーッ!!」


 身が竦んだ。

 開始直後、凄絶な殺気と共に叩き付けられた気迫と声に、勢花の身はビクリと竦んだ。一挙動置いてやや伸びた右腕に、容赦のない竹刀の一撃が存分に叩き込まれた。

 バチィイッ!


「――っ!?」

「一本」


 開始数瞬。

 勢花は天地ほどの差を思い知らされていた。

 術理をこなす以前の問題だった。

 活殺自在。

 打突する部位を、「篭手」と声を発せぬ打ち込みは、これもまた剣を用いた純粋な勝負であることを、重美――彼女自身証明した形だ。

 痺れる腕。

 竹刀でここまでの打突。恐るべき腕だった。


「できるか? 戸田」


 田島の問いに、勢花は頷いた。

 芯に響く打ち込みだったが、竦んだ以上に脱力していたおかげだろう、勢いはやや殺せていたように思う。その上、異常に血が昂ぶり、痛みを感じていないかのように集中力が増すのを感じた。

 この強敵を前に逃げることは考えられない。


「開始線に戻って」


 田島の促しに戻る勢花の顔を見て、果たして、重美は息を飲んだ。

 あの自信が足りなかった少女のする表情であろうか。

 あのゆったりとした少女のする表情であろうか。

 おとがいをやや上げた目付に自分の総てを魅入られたとき、重美の背にはっきりと冷たいものが伝う。


 ――ほんとうに、化けたな。

 気迫一本でどうこうできる境地ではないだろう。重美はこの少女を正面から打ち砕くほかはないと、覚悟を決めた。


「始めッ」


 田島の声を、ふたりは聞いていたかどうか。

 ゆっくりと、間合いが狭まる。

 そのとき。

 重美はスっと、上段に構えた。打ち下ろしの、真っ向唐竹割り。面を打ち砕く気迫に満ちている。


「出た、『夜叉姫唐竹割り』!」


 円佳は必殺の剣を構える重美に口の中で唸る。彼女がこの構えを見せたとき、吸い込まれるように対手は強かに面を打たれ敗れ去っていくのだ。今までに、何度も見た構えだ。

 残り一本、勝負に出るつもりだった。

 勝ちをもぎ取る剣だった。

 もはや勢花は、首斬り役人の前に引き出された罪人の如く。

 円佳の目には、そんな未来が見えた。

 一足一刀の間合いまで、あと一歩。

 勢花は八相の構えから、やや切っ先を高く上げる。


 ――やるか。

 どちらの呟きだっただろうか。


 しばし間合いを計っていたふたりの距離が、どちらからともなく縮められる。

 一足一刀から、撃尺の間合いへ。

 重美は見た、己の勝ち筋を。

 勢花は見た、そこに徹すべき自分の真処を。


「イヤァアアア!!」

「せやぁあああ!!」


 バチィイイン!!

 骨を砕かんばかりの強力な面打ちが交錯した。

 神速で打ち下ろされる重美の剣に遅れ被せ打たれた勢花の剣は、彼女の竹刀を重いネバリで拳ひとつ左に逸らせた。

 合撃。

 そして。


 ……とんっ。


 一瞬。

 恐ろしいまでの力のぶつかり合いに相殺された勢花の木刀。その切っ先が触れるように重美の面の上に乗っかった。


 ――浅い。

 田島は一本とみなかった。

 重美も、そう感じた。


「……ウんッ!」

 しかし、勢花はそう思ってはいなかった。


「何ッ」


 ただ乗っかっただけの切っ先を打ち払い、斬り返しに打ち据えようとした瞬間だった。重美の面に、頭部に、恐ろしいまでの圧が加わった。

 ベタの四股立ちから生み出される、ネバリと体を以った切っ先で、その頭蓋をへし割らんと勢花は気を爆発させる。

 重美は見た。見てしまった。転がり落ちてきた巨岩から突きだした鉄柱が、己の頭蓋を砕く幻想を。

 その重さに、正中線ごとずしりと押さえつけられる、


「――!?」

「!!」


 が、一瞬。

 刹那。

 勢花の刀勢がブレた瞬間。


「面!!」


 飛燕、斬り返し。

 刷り上げるように勢花の木刀を受け流した重美の竹刀が、落雷の如く勢花の脳天を強かに打ち据えた。

 バシィイン!

 衝撃で仰け反り、木刀を構えたまま、勢花は仰向けに崩れるように倒れゆく。


「花――勢花さん!」


 月旦が立ち上がるより先に、田島が支える。


「勝負あり」


 静かに宣言し、田島は勢花の体を横たえる。


「頭を動かさないように。――しかし、容赦のない打ち込みだったな、東郷」


 荒い息をつき、重美は頷いた。

 あの意地を打ち砕く一撃を出さざるを得なかった。

 出させられたのだ。

 圧勝――?

 いや、そうではない。

 教師たちが勢花を介抱する中、篭手と面を外し、重美は汗を拭う。あの重みを感じた額に手を当て、瞑目する。


「先輩」

「浮かない顔だと言いたいのだろう? お互い様だ」


 もしあれが真剣であったなら、自分の頭はスイカやカボチャを割るように圧し斬られただろう。密着した刃に体重全てをかけたあの『圧』たるや。


「篭手を奪っていなければ、どうなっていたか」


 一瞬力がぶれたのはそれが原因だろう。斬り返し、面を打ち、勝利した。しかし、課題は多い。


「面白い」


 ひとつにやりと笑う。

 円佳はこの立ち会いの中で何があったのか十全を察し得ない。

 しかし、この夜叉姫を楽しませる、唸らせるだけの何かがあったのだと納得した。


「気に入らない」


 だからこそ、よけいに気に入らない。

 口に出し、再認識した。

 白目を剥いて涎を垂らす勢花に寄り添う月旦は、そんなふたりに目を向ける。そう、彼女だけは、重美の立ち会いで勢花が何をしたのか総て分かっていたのだ。

 重美は苦笑し頷く。

 わかっている、と。


「戸田さん、大丈夫~!?」


 おろおろする松下。息を飲み全てを任せていたこの顧問は、決着が着くや否やメッキが剥がれたかのようにべそをかく。


「ほっとけば目を覚ますでしょう」と、こちらも見守っていた柔道部顧問の柳の言葉である。「うちの部員もたまにこうなりますが、水を掛ければ直ぐに復活しますよ。……あ、水を掛けるなら外で。畳が汚れます」

「ふふふ」


 田島は頷いた。


「ま、いいでしょう。見るべきものは、見た――と思います。週開けて半ば、職員会議のときに決を採ります。皆さん今日はお疲れさま。わたしたちも失礼しましょう」


 田島は頷き、剣道部員のふたりを伴い求道館を後にする。


「起きないねえ、戸田さん。救急車呼ぼうか」


 まだおろおろする松下が携帯を取り出そうとすると、柳は「救急車を呼ぶ問題を起こしたとなると、松下先輩の進退に関わるかと」と釘を刺す。


「え、やだ~!」

「このまま重篤になればそれはそれで問題ですが」

「もっとやだぁ~!」


 柳と松下の声に、勢花はようやく「んぁ~……」と声を上げる。その視線はまだ安定しないが、状況を理解した色を持っていた。


「負けちゃったかぁ」

「まだ起きちゃ駄目よ。……そうね、負けちゃったわね。わたしはそうは思わないけど」

「一本目、腕を打たれたとき、もうだめだ~って思ったけど。なんとか二本目、見せられたかな」

「見せた見せた」

「そっか」

「もう少し横になってて。側に居てあげるから」

「うん」


 勢花は頷き、額を撫でる月旦の手の温かさに目を閉じる。

 どうなるのかなど、わからない。

 ただ松下の泣き声を聞きながら、勢花は深く息を吐き、ようやく体中の力を抜いて……少しだけ涙を流した。


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