第19話『また月旦ちゃんおっぱい見てる』(連続33話)
***
古きを温め新しきを知る。
温故知新という言葉がある。
だが、こと本質を見ようと突き詰めると、新しきを温め古きを知らねばならない。新しきを温めるとは、つまりは、疑うことだった。
並べた布団の上で泥のように眠ったふたりは、朝の六時には自室の掃除と洗濯を済ませ、程良い筋肉痛に苛まされる手足をストレッチすることでごまかそうと、互いに柔軟の手助けをしながら向かい合った。
共に短パンとTシャツというラフな室内着である。
「しかし、このキツさはちょっとスポーツ系のきつさとは違うわね」
勢花は体の筋を順番に息を吐きつつ伸ばしてゆく。
「汗だく、息も絶え絶えといったように修得するものでもないからね。術理は力に
相撲の柔軟で言うところの『股割り』をしながら、月旦は体を前へと倒し、股関節の開きと捻りによるストレッチを念入りにこなす。股を開いたまま、左から上半身を背中側に捻り、下半身――つま先と肩とを百八十度違えた状態で畳に伏す。次は右から。ゆっくり時間を掛けて、腰を伸ばす。
「うーわ、凄い柔らかい」
「勢花さんも、息を吐きながらじっくり伸ばすといいわよ」
勢花の体も硬い方ではないが、さすがに股割りはできない。
では柔軟の手順をいちから学ぼうと、彼女も月旦の真似をし、息を吐きながら筋を伸ばしてゆく。
倣うように、「ふぅ~……」と息を吐き、お互いに座ったまま揃えた伸脚にむかい、体を倒してゆく。
「お祖父ちゃんにね」と月旦はぽつりと言った。
「ん?」
「むかし、お祖父ちゃんに、『すぐに強くなるにはどうしたらいいの?』って聞いたことがあるの。女の子だからって、弱くてもいいわけじゃないから聞いたんだと思うけど」
「お祖父ちゃんはなんて? 『一朝一夕に強くなる方法はないぞ、修行あるのみ!』って?」
「ん~。すぐには無理だけれど、一ヶ月あれば驚くほど強くなるぞ、とは言われたわ」
「…………月旦ちゃんが?」
「誰でも、よ。いや、誰でもじゃないわね。いわゆる普通の子が、かな」
思い出しつつ、柔軟を続ける。
「一ヶ月、徹底的に柔軟と座学をこなすの。筋肉と関節の可動範囲が増えると、思ったところに体が動く。思った通りに動けると意識ができる。怪我も少なくなる。それは凄く強くなるということだぞ……って」
「座学って?」
「力の出し方とか、見るべき場所とか。理屈の世界。結構面白いのよ? いずれ勢花さんもやることになるけど」
「花ちゃんでいいのに。――でも、座学かあ。難しい?」
「今の勢花さんには難しくはないと思う」
花ちゃん云々はまだ恥ずかしいので、あえて無視した。
「文武両道って言葉は、何も勉強と運動という訳ではないとお祖父ちゃんはいってたわ。文は知識、武は実践。正しく覚えたことを正しく使うこと、正しく覚えようとする努力と正しく使おうとする努力のことだっていってた」
「さすが昭和生まれの剣豪。言うことがいちいち噛み砕かれてるのね」
ほへー……と肩を伸ばしていた勢花もうんうんと頷いている。
「しかし、徹底的な柔軟かあ。わたし、居合い腰というか、一文字腰するたびに股間がコキンコキン鳴るのよね。やっぱり柔軟不足かなぁ」
「女の子は骨盤が広いからね。あまり無理してはだめよ」
柔軟を終え、部屋の空気を入れ換えると、薄く掻いた汗が権現山からの風に晒され乾いてゆくのを感じる。
「さて、次にやるとしたら?」
との月旦の問いに、勢花は小首を傾げウィンクする。
「若輩者としては、九時の仕事の前にも、何かしたいところですわよね」
「さすが元向陽高校剣道部。そのあたり抜かりはないみたいね。正直、道場を使わせて貰うなら掃除くらいは完璧にこなしたいところだわ」
小雪の『自由に使え』とは、それだけではないだろう。
周囲に気兼ねなく刀を抜ける道場での自主稽古も匂わせているのだろう。つまり、やらねば好きなだけ手は抜けるが、やるなら時間は足りないくらいという塩梅だ。
「ほんと、大人はすぐに子供を試そうとするんだから」
月旦の溜息に、勢花も笑う。
「子供はすぐに答えを求めたがるって、柳先生とかは言ってたけどね」
「考えろってことなんでしょうね。………………」
そして、急にキョトンとする月旦。その瞳は揺れ、そわそわとしたかと思うや、スっと勢花から逸らされる。
「――なに?」
「いや、なんでも……」
自分のものではない汗の香りに、急に『独りじゃない』と気が付かされ、不意に嬉しく恥ずかしさを感じたとは、さすがに言えなかった。
勢花の汗の香りとて、初めて嗅いだものでもないのに、急に意識してしまうとは、何が引き金だったのだろうか。
寝起きだから? 汗を落ち着かせたから?
「女の子同士で何をドキドキしてるのやら」
「どうしたの?」
「休む暇もないなぁって、思っただけ」
「あー、それは確かに。いやだよねえ」
昨夜、消臭消毒スプレーを掛けて干しておいた道着を確認する。臭いは、大丈夫。湿り気もない。
ふたりは昨夜と同じく、月旦は木綿の着物に袴、勢花は剣道着に着替える。ブラとサポーターに押し込められた勢花の胸がパンパンに丸みを帯びるのを見て、「やはり解せん」と月旦は眉をしかめる。言葉には出さない。
「また月旦ちゃんおっぱい見てる」
「見てないわよっ」
「太ったあとにガーっと絞ったらこうなるってば」
「だから太れないのっ」
「そっちのがうらやましいんですけどっ」
所詮は隣の芝生か、と互いに黙り込む。
「……行きますか」
「うん」
月旦は預かった鍵を手に頷く。ひんやりとした金属の感触が微かに頭を冷やしてくれるようだった。
「さっき目を逸らしたとき、もしかしておっぱい見てた?」
「……………………見てない」
汗の匂いで恥ずかしくなったというほうが何となく恥ずかしい。変態ではないかと耳まで赤くする。絶対に言わない。
「なんなら触ってみる?」
不意を突く勢花の申し出にびくりと反応するも、その目がにやにや笑っているのを見て、月旦は思い切り彼女の左乳房の先をつねってやったのであった。
あの実家の小道を彷彿とさせる竹林を抜け、早朝の道場の鍵を開けると、玄関口から昨夜の彼女たちの気配を残す空気が流れてくる。もちろん、それと感じるだけで、確かなものではない。
そんな気配の積み重ねが、微かに、微かに積もり、道場の雰囲気を作っていくのだろう。
門前で一礼し、六道館へ。
靴箱には、誰の靴も草履もなかった。
しんとした空気が、重い。
「うちと同じような作りなら、炊事場というか、そっちの奥に給湯室があるはず。掃除道具も、たぶんそこね。天羽師範なら用意しておくはず」
「わたしもそう思う」
「勢花さんは窓を開けて換気と、そこの箒で掃き掃除を始めて。わたしは雑巾とバケツを用意するわ」
「了解~」
サンダルを置き、トテトテと歩いて行く勢花の背を見送り、ひと息ついて月旦も道場へと上がる。素足が板の間に触れるひんやりとした感触。体温ですぐに感じなくなるのは、春だからだろう。この下越の地にも、しばらくすれば初夏の気配が漂うだろう。
なぜ、小雪の嫁ぎ先であるこの至天館に、辻の道場があるのだろうか。それも、東京の辻家の道場と同じ間取りの。
「同じ間取り――」
ふと、気が付く。
辻家の道場は、祖父の家との併設である。道場内から月旦の母、鳳子の実家へと行ける作りだったのだ。
給湯室の先、歩いて往くと母屋への廊下が――。
「ない、か……」
三畳ほどの給湯室と納戸の先には、トイレがあるだけであった。
祖父が住んでいたあの懐かしい家に続くはずの板張りの廊下は、こぢんまりとした簡素な木のドアで閉じられていた。
六道館。
ここは新潟、月岡だった。
練習着姿の自分が、急にランドセルを背負ったあのころに戻ってしまう感覚。
「いけない、これは感傷だ」
かぶりを振っても、こみ上げてくるあの風景、土と木の香り、祖父の笑顔。項垂れるままにまぶたの裏へと去来する。
お祖父ちゃん。
祖父の持っていた真剣。練習で振っていた木刀。着物に、甚平に、お線香の匂い。
自分の頭を撫でたあの優しい手がしたためた、手帳――剣術の分析が書かれた日記。辻流を志した彼女に、大きくなったかつての少女に、伝われば――としたためられたもの。
そう思うのは、月旦の感傷だろうか。
――感傷だ。
彼女はおもてを上げて目を開く。
そこは、やはり六道館であった。
踵を返し、給湯室へ。
案の定、納戸には掃除用具一式と、積み上げられた競技用の畳、競技用の薙刀などが散見される。棚にあるダンボールにも、様々な物が入っているのだろう。
雑巾で拭き掃除かと思いきや、室内用のモップがふたつ。
手入れこそ入念に行わないとホコリまみれになるが、使い勝手の良いものだった。似たようなものは、向陽高校の体育館にも誂えられていたはずだ。
「意外。こういうところは古風と思ったのだけれど」
水拭き用、から拭き用の、ふたつであろうか。
モップの裏側を見ると、どうやらそのようであり、幅広のバケツと併せ、水を湛えて道場へと向かう。
この道場で、かつて祖父から聞いた言葉、かつて祖父が記したものを、もういちど本流の人間であった小雪から伝えて貰う。
新潟の月岡に定住でもしないかぎり、機会は少ない。長期の休みに時間を取って貰うだけであれば、もしかしたら部活動は要らないのではと、いっしゅん身震いする。
いや、自己修練の場は必ず必要になる。
しかし、状況が許せば部活動ではなく、もしかしたら辻家の道場が使えるのではないか。
だとしたら、自分が――辻月旦がしたことは、いったい何だったのだろうか。彼女が巻き込んだ戸田勢花という少女はどうなるのであろうか。
身震いではなく、立ちすくむ月旦のうなじに、ざざっとした、薄ら寒いものが立ち上る。
「考えすぎかしら」
かぶりを振り直し、バケツとモップらを手に、道場へと入る。
「おーそーいー」
「ごめんなさい。ちょっと手間取って」
開け放たれた南の窓から入った風が、道場の中の、月旦の心の中の澱もろとも、西の窓から抜けていく。
「ゴミは?」
「もうホコリは払ったよ」
「では、わたしが水拭きで磨いていくので、ゴミを片付けたらこっちのモップで乾拭きお願い」
「モップなんだ」
「雑巾じゃないみたい。探したんだけど。天羽師範に聞いたら出してくれるでしょうけれど、わざわざ雑巾掛けしたいかと言われたら、ヤブヘビしかねないもの」
「あ~、たしか~に」
それからザっと掃除を終えて、お互い向かい合い、昨日のおさらいをする。もういちど、思い返す。
古きを温め新しきを知る。
温故知新という言葉がある。
だが、こと本質を見ようと突き詰めると、新しきを温め古きを知らねばならない。新しきを温めるとは、つまりは、疑うことだった。
疑うということは、相手の術理、自分の術理がほんとうに正しいのかということを疑うということだ。
距離を置き、ふたりは間合いが重ならないように肩を並べる。
月旦は神棚に一礼しようとして……。
「あら?」
今さらながら、道場に付きものの神棚がないのに気が付いた。
「神棚さがしてる? それがないのよ。あったら榊の水とか替えようと思ったんだけど」
向陽高校剣道部、その道場である修道館には、鹿島大神宮と鹿取大明神という、タケミカヅチとフツヌシという二柱の武神剣神を祀った神棚があった。
その神棚の榊の水を替える雑用は、道場の掃除なども含め、一年生の仕事であったのだ。そのあたりは勢花は昔取ったなんとやら、気を回したが神棚がなかったので肩すかしといったところだ。
「辻家の道場には、神棚があったわね」
「だよねえ。……実家が神社だったから?」
「ど、どうかしら」
また、自分に分からないことが出てきた。
月旦の心に、やや悶とした気持ちが渦巻く。
「いちおう、上座に――礼」
ふたりで一礼し、いちから形をなぞる。
けっして急がず、ひとつひとつの動きを丁寧に。
焦らず、こなす。
正中線に据えた鍔、その柄を手で迎えるように添え、掴み、腰を真一文字に引いて四股立ちに鞘を引き抜く。立てた鞘、鯉口に添えられた左手は手首を内に丸めた死に手にけっしてなってはいけない。
右肘を曲げたまま抜き、手の力だけではなく、胸を中心とした体幹と腕全てで振る。切っ先は、仮想敵の篭手を打ち抜いた場所でピタリと止める。
ゆっくりと、ゆっくりと。
ひとつひとつの意味を考え、または考えず、術理を体現した動きを、ひとつひとつ理屈と無意識にすり込んでいく。
ある程度済むと、お互い向き合って、腰の開き具合、足運びなど、チェックしながら続ける。
古きを温め新しきを知る。
温故知新という言葉。
本質を見ようと突き詰め疑うこと。
新しきを温め、疑い、古きを知り、疑う。
術理に合うか研鑽し、納得ずくで疑い続ける。
一文字腰に抜いた刀は、道着の胸元から脇に擦れるように。
一直線に。
両肩と両拳の形作る菱形を一挙動でずらし潰すイメージ。
掌の上で開いたハードカバーの本を、一呼吸で勢い良く掴んで閉じるイメージ。
逸る心を抑え、各々がイメージする「これ」という答えを探しながら、ゆっくりとゆっくりと、こなす。
――相手からは、鍔の向こうに刀身が見えない。
――相手からは、鍔が動かない。抜いたのか、見えない。
添えられる手。抜こうとした動き。そのときにはもう抜けている。相手の間合いに拳ひとつ分の場所に侵入し、最短の手順、最速で抜き放たれた、殺傷能力を発揮しうる武器となった刃は、肘を伸ばすだけで相手に届く。
……だろう。
と、常に疑う。
本当に術理に適っているのか?
剣術というものの中に、覆いかぶるように存在する「動きを消す」という考え方。「力を抜いた全力」という矛盾。
「勢花さん、ここまでにしましょう。八時半まわってしまいます」
「もうそんな時間? 早いわね」
あっという間だった。
去来した疑念やイメージは、雑念なのか、はたまた。
「無念無想とは、いつになるやら……」
ひと息つき、月旦と勢花は刃引きの刀の刀身を丁寧に拭い、水気を残さぬよう納刀。壁に掛ける。
「あとは仕事のあとに、もういちど掃除しなおしましょう」
「うん。稽古が終わったら、刀にも油塗って上げないとね」
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