第18話『正直、その胸はうらやましいわ』(連続33話)




 月旦は着慣れた白い木綿の着物に黒袴、勢花は一年間袖を通し続けた剣道着という出で立ちである。あてがわれた一室で着替えると、夕方の五時を少しまわったあたり。お互い防具はなく、左手には竹刀ではなく木刀を携えている。

 この出で立ちこそ、小雪から言い渡された練習着である。


「竹刀じゃないのね?」

「竹刀はそもそも、打ち合うことが前提の稽古で使用する道具だから。おそらく、打ち合うことは――いえ、打ち合うとしても竹刀は使わないはずよ」

「うへぇ」


 お互いの恰好を見て、頷き合う。


「ふたりでしっかりと胴着を着てるの見るの、初めてだね。月ちゃん、すらっとしてて格好いいじゃん」

「勢花さんこそ、どっしりとしていてうらやましいわ」

「花ちゃんでいいのに。あと、どっしりってなによ、どっしりって。そりゃ最近また大きくなってきてるけど」

「そうなの!?」


「お尻もなのよね。走ってるからかしら」


 月旦の頭の中に『どっしり』という言葉が思い浮かんだが、目はその胸に注がれている。あれはまだ成長中なのだろうか、はたまた太っただけなのでは――。


「おなかはそれほどでもないのよ?」


 月旦の思考を読み、据わった目で見る勢花だが、その実、危ういところであった。息も絶え絶えに竹刀を振り声を上げ、かけずり回っていた剣道部のときとは、運動量そのものが違うのだ。


「正直、その胸はうらやましいわ。机に突っ伏したときに、ぐにぐに動いてるのを見て、クッション代わりにしてる女性が本当にいるなんてと思ったわ」

「一気に太って、絞るとこ絞ればイッパツよ?」

「え!?」

「ブラスバンドのときは凄く丸かったけど、剣道部で動いてたらお腹と太ももとかがキュって引き締まった感じ。腕は筋肉ついたかな? 少し太くなったけど」


 そう言って力こぶを作る勢花。

 むむむと唸って腕を組む月旦に、勢花は「ほんとほんと」と口だけ動かして答える。


「……と、ともあれ」


 月旦は甘い誘惑を断ち切るように瞑目して一度咳払い。カっと目を見開いて仕切り直す。


「道場は浴室の外をまわった、離れの脇にあるわ。掃除のときに見た、あそこよ」

「裏からまわるの?」

「そこの勝手口からまわったほうが近いかも」


 揃って部屋を出ると、サンダルを引っかけて裏庭へと出る。手入れのされた芝を踏み、厨房へと続く勝手口の先を降りると、湯気の立つ小川に小さな橋が掛けられている。黒ずんだ石造りのそれを三歩ほどで越えると、石畳の先に――。


「これは……」


 そのいつか見た風景に、月旦は立ち止まり息を飲んだ。

 夕暮れの赤黒い薄墨に陰るそこは、立派な竹林であった。山から下りる風に揺れる葉がさらさらと音を立てると、林立する竹の隙間から西に落ちる日の影がきらきらと輝く。

 そんな薄闇を裂くように、真っ白な小砂利が敷き詰められた小道が続いている。


「月ちゃん家みたい……」


 勢花の呟きに、月旦も頷き掛ける。

 いや、頷いていたかもしれない。

 竹林と小道を隔てる低い柵までもが、そっくりであった。

 いっしゅん自宅の、あの小道の前に出たのかと錯覚しても無理はなかった。西日の入り込む加減すらも、あのときに見た竹林と同じであった。

 ……あのとき見た?


「え?」

「どうしたの? 月ちゃん」

「いや……」


 どこで見たのか。

 あの祖父が微笑んで、小さい自分に一抱えもある一本の竹の苗を――。


「月ちゃん?」

「あ、うん。……なんでも……ないわ……」


 祖父の笑顔が脳裏に沈む。

 促されるように進むと、その小道は裏手の道場へと続いている。その様相も、どことなくそっくりである。ただ、こちらの道場は月旦の家と同じ規模であるが、至天館の道場は、南向きの正面が小道に面していた。

 果たして、道場の引き戸に手を掛けると、鍵は開いていた。

 門上の看板に一礼し、じっと見る。


「――六道館りくどうかん

「ろくどう、じゃないの?」

「りくどう。ろくどうと読んでも良いと思うけれど、おそらく、りくどう。六道館。仏教の六世界のことよ」

「博識~」

「祖父が好きでね。熱心な仏教徒ではなかったけれども、ほら、小さい子に何かを言い含めるときには便利なのよ。地獄がどうのとか。あと、剣の道は修羅道とか」

「ん~?」

「死後の世界ではないわ。天国も地獄も、全てこの世にあるものだから――」


 口にして、それが祖父の言葉であると思い出す。

 地獄が恐ろしいのは、死んでから落ちるからではない。生きながらにして心が落ちるから恐ろしいのだと。

 再び一礼し、入り口兼、門を潜る。

 靴箱が設えており、盛りともなれば多くの門弟が使う道場なのだろうことが伺える。その靴箱に、丁寧に揃えられた草履。


「――女将さんだ」

「ええ」先んじて来ていたのだろう。ゴクリと、どちらかの喉が鳴った。


 速やかにサンダルを脱ぎ、靴箱に揃えて入れる。

 滑るように廊下を進むと、板張りの道場に胴着――柔術着に身を包む、実に凜とした佇まいの小雪が正座をして待ち構えていた。

 瞑目していた小雪は、彼女たちを迎え入れたときに見せた光を宿す、あの不敵な瞳をスッ……と開いた。


「そろそろ暗くなるわ。明かりをつけて並びなさい」


 音もなく、吸い上げられるように立ち上がる小雪。


「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


 揃って立礼。

 月旦と勢花は、そばの柱にある電灯のスイッチを入れる。

 明るくなった道場の中の空気も、ふわりと立ち上ってくるような気がした。それは確かに奮い立つような汗と涙の香りだが、辻の道場とは違い、寂しいものではなかった。祖父の――永く祖父だけしか――祖父と自分しか使わなかった道場の、どこかさみしい空気ではなかった。


「それでは、基本の形から参りましょう。木刀を壁掛けに。そして、刃引きの刀を取りなさい」


 ふたりは黙って、言われたように木刀を掛け、代わりに用意された刀を手に取る。

 定寸という、七十センチ弱の刃をもつ、いわゆる『刀』である。真剣とほぼ同じ作りであるが、錫と亜鉛の合金製で、その刃は切断が不可能であるように、引きつぶされている。

 ――思ったより軽い。

 初めて造りとしてしっかりした刀を手にした、勢花の正直な感想であった。


「さ。正統は兄が受け継いだけれども、このわたしも辻流剣術を修めた身。しっかりと教えるから、覚悟しなさい」

「――はっ」

「まずは刀の差し方からだね」


 既に手にしていた刀を、小雪はごく浅く、スっと差す。

 その鍔は、ヘソの前、鳩尾の直下あたりにピタリと据えられている。


「そのまえに、巷に蔓延る『居合い』とはどんなものか見せましょう」


 良いですか? と小雪はグイと深く刀を差し、「鋭!」とばかりに白刃を抜き放った。


「っ! ……すごい」


 刀に手がかかった瞬間に、その刃はピシと横薙ぎに抜き払われていた。


「んははははは、これっぽっちも凄かぁないわよ」


 勢花が息を飲むと、鼻で笑って小雪が抜いた刀を担ぐ。とんとんと峰で肩を叩く小雪の姿は、四十は若返ったかのようだった。


「いいかい?」


 と言って、滑らかに納刀した小雪は、もういちど「いいかい?」と、ゆっくり構える。いわゆる・・・・、居合いの構えだ。

 小雪は、刀の柄に手を掛けると、腕を伸ばし――刀を抜く。

 その刃が抜ける直前、抜刀をピタリと止める。


「ここ。いいかい? ここだ」


 肘の伸びきった腕は前に伸ばされ、刀の切っ先は鯉口の中に乗っかったままである。


「刀は抜かないと人を斬れない。つまり、切っ先が抜かれる――鞘離れした瞬間から、刀は武器になる。わかるかい? つまり、今のこの態勢は、殺傷能力皆無の、無防備な状態と言える」


 道理である。


「つまり、刀を抜いて斬ることができる距離において、こんなに無防備に相手の間合いに腕を伸ばすバカがどこにいるってんだ? 誘いにしたって備えた相手に打たれて終わり。抜き撃ちは難しいのさ」


 爆笑である。

 女将の顔では考えられない、恐らくこれが天羽小雪の、いや、辻小雪の素であったのだろう。

 納刀した小雪は、自分の刀の鍔をポンポンと叩く。


「相手の間合いは、基本、この鍔の処までは迫ってこれる。撃尺の間合いってやつだね。もう一歩離れると、一足一刀の間合いってやつさ。つまり、この鍔よりも前に自分の腕や肩を持ってくるなんて、斬ってくださいと言っているようなものだということは……?」


 ふたりはしっかり頷いた。

 それを見て、小雪は「よろしい」とばかりに、初めに刀を差した位置に戻す。

 鍔の位置は、鳩尾の下あたり。臍のところだ。その鍔の前に――相手の間合いに入っているのは、柄と、緩く開かれた右掌だけである。


「刀は、鞘を引き抜刀。腰は一文字腰……完全半身で、引き抜いた鞘は垂直に立てる。ゆっくりやるわよ? …………」


 添えられていた右手が柄を迎えるように掴むや否や、鍔の位置が空中に固定されたかのように、鞘が半身になった体の後ろへと引き抜かれている。


「こうして、刀が完全に抜刀されたときには、右腕の肘が曲がっていること。ここから拳を最短で伸ばすことで、相手を斬る。ここで刃を返す方向で斬り上げも薙ぎも斬り下げも自由自在さ」

 スッと、腕を伸ばすと、水平に刃が閃き、ピタリと真っ直ぐに、眼前の仮想の敵――対手に突きつけられる。


「質問は?」


 納刀する小雪がそう問いかけると、勢花は元気よく手を上げる。


「はい!」

「ん、戸田さん」

「肘を伸ばしただけで人って斬れるんですか?」

「はい、良い質問」


 小雪は壁に立て掛けてあった三十センチほどの長さの角材をヒョイと勢花に投げ渡す。


「上をつまんで、垂らすように持って。腕伸ばして」

「? ……え、あ、はい?」

「そう、そのまま」


 と、小雪はハテナマークを浮かべたままの勢花の正面、その一足一刀の間合いに入ると正対し――。


「鋭ッ!」

「どわぁ!」


 ――居合い一閃、角材を半ばの位置で綺麗に斬り飛ばしていた。

 その切っ先は外側に流れず、ぴたりと角材を斬り抜いた場所で止まっている。

「刀というモノは、軽く振り当てただけで肉を断ち筋にとどく非常に鋭いものなの。居合いはまず相手の機先を制し、動きの枕を制し、後の先を制して、相手の戦力を削ぐのが目的」

「……………………」

「ん? ああ、言葉の意味? 『動きの枕』とは相手が動く動きの出掛かり、『後の先』は相手の動き初めを利用した先手のことで――」

「そうじゃなくて」


 勢花はプルプルと小刻みに首を振る。

 そんな勢花に代わって、月旦が言葉を引き継ぐ。


「その、天羽師範――」

「なにかしら」

真剣ほんもの、なんですね、それ」


 すっぱりと切断された角材。突きつけられたままの切っ先。

 どう見ても、刃引きはされていない。


「ああ、これ? それはあなた、本身じゃないとこんなに綺麗に斬れないわよ。ほほほほほ」


 「そうじゃねえだろ」と、沸き上がってきた言葉を勢花は口の中で飲み込んだ。


「はい、今日は刀の抜きかたから覚えましょう。月旦さんは復習するつもりで、勢花さんはしっかりと」

「最初は楷書で、丁寧に」


 勢花の言葉に、小雪は頷く。

 彼女の兄の言葉であった。

 楷書――一画一画を丁寧に書く。つまり、動きのひとつひとつをしっかりと覚えること。


「刀の抜きかたの訓練は色々あるわ。備えた相手に抜く方法もあるけど、今日はいまのそれをしっかり覚えましょうね」

「はい」

「はい」


 ふたりは頷き、刀を袴の腰に差す。

 鍔の位置は正中線、やや高め、鳩尾の直下臍の前。


「ん~……」


 そのふたりを見ながら、小雪はやや難しい顔だ。


「刀を差すなら、やはり居合い帯は必要ね。いいわ、用意しておきましょう。今日は、そのまま。――もうちょい上。そう、添えられた右手は柄を掴むのではなく、迎えるように。そう、そうよ」


 跪いた姿勢から腰を開いて抜く方法。

 刀の柄、柄頭を柱に付けたまま、腰を開いて抜く方法。

 楷書で、ひとつひとつを丁寧に。

 ただそれだけを、たっぷりと二時間。

 空腹の極みに、一段落ついた。


「ここまでにしましょう。さ、夕飯よ」


 同じようにお手本としてひたすら納刀と抜刀を繰り返してきたにしては、額に汗ひとつかいていない小雪に、ふたりとも瞠目する。


「ここの鍵を渡しておくわね。明日から自由に使いなさい」


 最後まで小雪に圧倒され、ふたりは懐から出されたそれを黙って受け取るしかできなかった。


「しっかり鍵を掛けておいてね。木刀は掛けたままでいいわ。食事が終わったらしっかり汗を流して明日に備えなさい。先は長いわよ?」


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