第10話『それは面白い』(連続33話)
向陽高校は、教科ごとの答案が返ってくる前に、総合得点が集計され、順位が学年掲示板へと張り出されるのが通例である。
「無理」
己が机にしがみついたまま、戸田勢花はブンブンと首を振っている。
「得点が公表されるのは学年五十位まで。何をそんなに焦っているの?」
月旦はふたつ左の席で膝と腕を組み、フンと鼻を鳴らしてため息をつく。
「まさか勢花さん、いきなり五十位以内に入ってるかも、と」
「さすがにそれはないけど」
顔だけ上げるが、しがみついたまま体を起こそうとはしなかった。グリグリと机に押しつぶされるのをまじまじと見つめる月旦の目は、じっとそこに据えられていたかと思うと、ふと自分の胸を見、ストンと腿に落ち注がれる視線にため息をつく。
終業式前の登校日である。ホームルーム明けの十時ちょうどに掲示される成績評価を前にざわつく教室を見回しても、そんなふたりを気にする者はいない。
良くも悪くも、目立たぬふたりである。
「赤点を取ると、たしか……――」
「通知表を差し押さえられた上に、補習。長期休みに回収不可な成績や出席日数なら……」
月旦はそれを聞き、「そのまま留年……か」と天井を仰ぐ。
試験の日程が終了したとっくの昔に、剣術部の設立に勢花の進級は不可欠であると伝えてある。「はやく言ってよ!」と勢花の文句が出たのだが、月旦は「余計なプレッシャーになったでしょうから」とバッサリである。
その総合的な今後の評価が下ろうとしている、九時五十五分とすこし。
「あああああああああ、あ、ああああああ。赤点あったらどうしよう」
「追試の張り出しも行われるんだから、見に行きましょう。いやその、勢花さんが赤点取ってるのを確認しようという意図ではないのだけど」
「うう、やっぱり月旦ちゃんも赤取ってると思ってるんだぁ」
「『も』ってあたりにお互いの不安が見てとれるのが面白いところね」
「面白くなーい!」
ようやっと体を上げる勢花。
「ともあれ、結果が変わることはないのだから、胎を括るしかないじゃない」
「うう。2日目3日目あたりからは良いんだけど、月旦ちゃんに勉強見て貰う前のテストがね、テストがね?」
「わたしの問題用紙の確認で、たぶん……大丈夫だってことになってるでしょう」
「たぶん……たぶん……」
うん、たぶんね――と月旦も頷く。
「どう考えても、ホームルームのときの松下先生の顔色は蒼白すぎやしませんでしたかね月旦さん」
「そんな口調になったところで――」
月旦は勢花を促しながら立ち上がる。
「総合順位自体は、学年主任のみが知り得る情報と言うことになっているから、松下先生だって知らないのだから仕方がないじゃないの。それは不安も不安でしょう。……わたしもほんとにあなた本人から聞くまで、そこまでだとは思っていなかったものだから」
「うう。でも柳先生も柳先生だよぅ。そんな交換条件出してたなんてさ~」
実際、柳にとって先輩である松下への手助けという形にはなっているが、その実、世話焼きの体育会系教師である柳が、努力の果てに報われなかった勢花へ居場所を作ってやりたいとの思いの表れであろうと月旦は考えている。
安易に居場所を用意してやるつもりはなく、やはり『それなりの』『学生としての本分を守る程度の』努力のもとであれ、ということなのだ。
「……そろそろよ。行きましょう」
「うううううううううううううううううううう」
まるで獣の唸りだな、と、勢花の首根っこを摘まみ上げながら月旦は思った。
果たして、勢花を促し2棟一階の掲示板へと向かうと、既に人だかりができていた。混雑緩和のために各学年の教室がある棟の掲示板の周囲に、同じものが三枚張り出される。自分の成績に興味がある生徒でごった返している中、ふたりは遠目から確認出来る位置まで人を掻き分け入る。
「ここで上位から探すのか、下位から探すのかで、お前らの自信と自負が伺えるんだがな」
「柳先生」
そんなふたりの後ろから現れた長身の柳が、勢花の頭に肘を置きながら掲示板を興味深く見上げている。
「上位から探してますね、先生」
月旦が苦笑すると、柳も「そりゃあね。期待してるから」と、視線そのままで笑いかける。
「あった」
月旦のささやきに、ふたりは弾かれたように彼女の視線を追う。
「戸田勢花――二百五十三人中、二百位。赤はないようだ」
「はああああああああああああああああああああああ……」
巨大な溜息が漏れた。へたり込んだ勢花の安堵の溜息を感じつつ、ふと柳はいちばん端に一枚だけ張られた追試者の張り紙を先に見ようとしなかったふたりに可愛げを感じている。
「ふふふ。これで松下先生も安心するだろう」
その言葉は、そのまま月旦と勢花に『約束』の履行を確約するものであった。
この一件が心配事の要であった松下の代わり見に来た柳も、肩の荷を下ろした瞬間でもあった。
「ふぅ」
さすがに月旦も知らずため息をついていた。
「これで、来年度から…………」
そんな、気を抜いた瞬間であった。
ふと、月旦の首筋にチリリとした薄き痛みが走る。
それが殺気に至らぬ前の、薄い気迫であると月旦は看破した。
姿勢は不動の正中線のまま、スっと気迫の元を辿る。
「――こんにちは」
少女から掛けられた挨拶。
その少女に「こんにちは」と返しながら、「初めまして。おそらく、東郷重美先輩」と眉根をやや引き締める。
「先輩――」
勢花も、その声に気が付き、身構えた。
「戸田、久しぶりだな。最後の練習の日、以来か」
「と、東郷先輩……」
「そうか、辻月旦さんと同じクラスだったのか」
ふむ、と頷く。
「辻さん――」
「なんでしょう」
「先日は、毬谷が失礼した」
「こちらも、売り言葉に買い言葉でした」
自然体で話しかける重美に、月旦は目礼で返す。
「ところで」
一歩間を詰め、重美は一足一刀の間合いでぴたりと向き合う。
「剣術部を立ち上げるとか」
「耳が早い。諸田一刀流、毬谷道場の方からお聞きに?」
「ふふふ」
明確には答えず、重美は目を細める。
どうしても好戦的な笑いに見え、一歩離れた柳も苦笑する。
偵察か……と思う柳だが、それが果たして『敵情』視察なのかどうかの間境が掴みにくい。
そこで、月旦は自ら一歩踏み出す。
間合いも、言葉も。
「学年末テストが滞りなく終了し、来年度から立ち上がる予定です」
「部員は?」
「わたしと――」
そして月旦は重美から視線を外し、勢花へと彼女のそれを促す。
「ん――?」
重美は首を傾げる。
「
「なんだと?」
その膨れあがる気迫に、月旦はフンと鼻を鳴らす。
「戸田、どういうことだ」
「先輩……」
口ごもる勢花の前、重美の視線を遮るように立ちはだかる月旦。
「試験が始まる前、次期副部長に直々に剣道部
「
重美の口をついて出た言葉には、探るような色が見受けられる。月旦は「やはり知らなかったようだな」と内心頷く。彼女のクビは、毬谷円佳による独断専行だったという確信を得た。
「そうか」
顎に手を当て考え込む重美。
お互い合点がいった様子である。
さて、どんな言葉が飛び出すかと月旦は意地悪く思ったが、果たして重美の口から出た言葉は意外なものであった。
「面白い」
重美はもういちど「それは面白い」としきりに頷いている。
「面白い?」
これは、伺っていた柳の漏らした言葉である。
「そういうことなら、納得した」
重美の言葉は、もはや彼女の頭の中のリンクの整理に過ぎなかった。
「戸田、どこにいてもお前はお前だ。頑張りなさい」
「は……はい……」
言葉をかけられ、頷く勢花。
しかし心のどこかで、まだ、重美に「剣道部に戻ってきなさい」と言われることを期待していた勢花の中で、何かが区切られたのは確かであった。
「しかし――」
そこで、重美は明確に何かしらの意図を込めてほくそ笑む。
「ふふふ、しかし面白い。……楽しみだ」
三度ほど頷き、東郷重美は柳に向き直る。
「柳先生」
「なんだ」
面倒くさいことになりそうだと、柳は溜息混じりに頷く。
「明日、生徒会に剣道部活動予定表を提出します」
「ん? ……ああ」
何気ない報告だった。
春休み中の活動を含め、来年度の活動予定の提出は次期部長の努めでもあったからだ。無論、柳の受け持つ柔道部も、休みに入る前に提出しているはずである。
「ふふふ。――では失礼します。戸田も、辻さんも」
三人に一礼し、重美は踵を返し去って行く。
向かう先は下駄箱だろう。
「ふぅ……」
その去り行く背を見やりながら、月旦はひとつ息を吐く。
「何か仕掛けてくるわね、あれは」
「月旦ちゃん」
「いいの? あなたのクビが毬谷円佳の先走りだと申し出れば、戻れるんじゃない?」
「その期待はあったけどさ」
悪いと思いながら正直に言うと笑う勢花。しかし月旦の肩に頭をコトンと当てると、照れるようにすりすりとこすりつける。
「だって抱きしめられて『欲しい』って言われちゃったし~」
「忘れなさいッ」
あのあとそんなこと言ったのかと柳は一歩引く。身も心も。
「もう、戻れないわよ……」
月旦が拒否しないのを良いことに、ぐりぐりと頭を彼女の肩に押し付ける。
「いいわ」
肩の重さにため息をつく月旦は、しかし頭を掻きつつ頷く。
「けっして剣術部が逃げ場であったと思わせはしないわ」
頭を掻いた手を、そのまま恐る恐ると、肩に乗せられた勢花の頭にあて、優しく撫でる。
「ともあれ、来年度から頑張りましょう」
「うん――」
それを見ていた柳は、もう一歩引きながら、「ふむ」と頷く。
やはりこの二人、アヤシイと。
「しかし、気になるな。東郷のあの言葉、態度。何をしようとしてる?」
柳が東郷重美の真意に気が付くのは、翌日。修了式のあとのことであった。
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