第9話『振り上げてしまえば、打つのは分かってしまう』(連続33話)


 ***



 毬谷円佳は自宅道場でひとり竹刀を振っている。

 直立すぐだちのすり足で、ツ――と間合いを詰め、仮想の対手である影に跳ね打つような面を叩き込む。


「――くっ」


 幾度となく繰り返し、既に汗まみれである。胴着も袴も、未だ肌寒い時期にもかかわらず重く湿るほどだ。

 柄を絞る掌は既にタコを白くするほどで、数時間、渾身の力を以て振り抜き続けているのを伺わせる。痛みも気にせず、関節が白くなるほど握り込み、尚武堂での一件を思い起こす。


「辻……あいつ……!」


 生意気だった。

 円佳の記憶にも残らぬ、凡庸な背景の中のひとりに過ぎなかった女。

 辻月旦。

 手加減はした。したとはいえ、木刀で面を打ち据える力は込めた。

 それが逸らされた。

 弾かれたのではなく。

 斬り返えされたのではない。

 そのまま打たれた――寸止めで。

 月旦は左右のどちらにも躱すことなく、円佳の剣筋を逸らせたのだ。

 そして、そのまま打った。――打たれた。

 時刻が九時を過ぎた頃、薄暗い道場に明かりが灯される。


「毬谷、ここにいたのか」

「センパイ」


 道場に現れ、明かりを灯したのは、剣道着姿の少女である。静かな佇まいの中、ショートカットの整った相貌に落ち着いた眼差しの少女は、左手に竹刀を携えて微笑む。

 そんな静謐な笑顔の中、唯一彼女に不相応な疵がある。潰れきった耳だ。

 まるで一昔前の柔道家のように、激しい寝技と襟の取り合いで潰れた左右の耳。内出血と、雑菌の感染により慢性的に腫れているとされるそこには、それでも治療の跡が伺える。

 次期――剣道部主将。

 東郷重美である。

 竹刀を持つその拳には、空手家のように拳ダコが作られており、掌には剣ダコが盛り上がる。その潰れた耳と合わせ、決して小さくはないであろう格技の世界で、その整った容貌とのギャップを以て『夜叉姫やしゃひめ』と言われる少女である。

 彼女の実家は警察官の家系であり、円佳の家との交流も深い。

 東郷重美は物心ついたときから剣を取らされ、柔剣道のみならず、空手をも修めるという武術の英才教育を施された。彼女自身それを強制されたという記憶はない。自然、体に馴染むものとして、十五年にわたり修めてきた生活の一部である。


「……尚武堂の一件、聞いた」


 涼しげな声が円佳の耳を打つ。

 びくりと身をこわばらせるも、いつのまにか間合いに入ってきた重美に頭を撫でられる。


「辻月旦に、一本取られたそうだな」

「は、はい――」


 なでなで。

 その掌は、分厚く硬いわりに、温かく優しげだ。


「内緒にしておくつもりはなかったのですが」

「かまわないさ。店主も気を利かせただけだろう。……いいか、毬谷」

「はい」


 なでなで。


「血の気が多いのは、仕方がない。剣家毬谷の鬼と言われた先代、先々代の血を濃く受け継ぐお前なら。しかし、木刀で打ち合うのは、チトやりすぎだ」

「申し訳ありません」


 なでなで。


「――辻、か」


 撫でる手を下ろし、重美は円佳を促し、剣道場の試合開始線まで誘導する。


「毬谷。辻はな、その祖父が高名な剣術家なのだ」

「剣術家……」

「辻流剣術。結構前に看板は下ろしたそうだが、諸田一刀流毬谷道場の先代先々代なら、知っていたかもしれない」

「センパイも、でしょうか」

「わたしが知ったときには、もうすでに看板は下ろしたあとだった。父と母が、ふと話題にしていたのを聞いただけだ。辻流剣術。いわゆる、古流というものだったそうだ」


 正対する重美の言葉は、淡々としたものだ。決して上っ面の感情は込めてはいない。しかし、その根底にある探ってくるような言葉の色は隠しようがない。


「剣道は、剣術の発展形として研鑽されてきた武道だ。それは、柔術と柔道の関係と同じく、より実践的なものを磨き上げ系統立って積み上げてきたものであるが、その段階で消えていった術理も多く、現在では伝えるものが消失しているものも少なくはない」


 重美は、竹刀を正眼に構え、ひとつ息を整える。

 その澄んだ気迫に、円佳もやや遅れて剣を構える。


「剣は、正眼に構えたとき、相手を打つには――『振り上げ』て『打つ』という動作がどうしても必要になる」


 重美は切っ先を真っ直ぐ上げ、ゆっくりと振り下ろす。

 綺麗な剣道の素振りを、丁寧に分かりやすくゆっくりと繰り返す。


「だが」


 正眼に構えなおし、重美はスと目を細める。


「毬谷。動きを消す、という考え方を知っているか」


 問いかけではない。確認である。

 円佳は一拍遅れて、頷く。


「予備動作を悟らせないこと……ですね」

「そうだ」


 重美は、それが正解ではないというようなニュアンスで肯定する。


「振り上げてしまえば、打つのは分かってしまう」


 もういちど、ゆっくりと重美は竹刀を振り上げ、打つ。


「それがいかに早くとも――」


 刹那。

 裂帛の気合いと共に重美の竹刀が円佳の額にぴたりと当てられる。

 寸止めであった。

 その早さに、来ると分かったのに反応出来なかった。


「振り上げて打つことに代わりなはい。いくら切っ先を振り上げる幅を減らし、体のバネで叩き込んでも、変わらない」

「は、はい……」

「しかし」


 すり足で間合いを直す重美は、もういちど正眼に構える。


「辻月旦が見せたものは、少々趣を異にする」


 コトリと倒された竹刀が、重美の体側、左側を通り、輪を描くように振り上げられ、そのまま振り下ろされた。

 一連の動作は、意図的にゆっくりと行われたが、そのあまりの滑らかさに円佳は辻月旦の姿を脳裏に思い浮かべ、目の前の人間が重美であるのを忘れて歯がみした。


「肘を曲げず、落とした切っ先を体側に沿ってふりあげ、同じ速度で振り下ろす。手の内でかえされた刀は常に刃の方向に動いている――の太刀。その剣の軌跡からそう呼ばれている術だ」


 重美はもういちど繰り返す。


「頭頂から体側に流れ来た太刀は、相手の斬撃を受け流す」

「……!」

「そのまま、逸れた太刀筋の隙を突き、相手を斬る。振り上げる動作そのものが防御であり、打ち落としの予備動作というその動きそのものを消す。振り上げ、打つ。その動きの二拍子を、長大な円弧の一端を描くような太刀筋で一拍子に。あくまでも振り上げ落とす動きを同じ速度で行うことで、ふたつをひとつにし、ひとつの動きそのものを消す」

「動きを、消す……」

「私が知る、いわゆる古流剣術の一端の、基礎の基礎……らしい。あいにくと柔剣道空手と現代体育にまみれてきた故、詳しいことは知らない」

「しかし、握りの甘いその振り当てでは――」


 振り上げるときの、倒した切っ先、添えるだけ、支えるだけの両の手の内を思い浮かべ、円佳は憤る。


「そんな甘い打ち込みは、とおりません!」

「……甘い、か。事実、しかし、お前の打ち込みは受け流された」

「――!」

「受け流すだけなら、刀身を滑らせ逸らせるなら、握力はそう要らん。そもそも、この術理においてしっかりと柄を握るという行為そのものが不要なのだ。力の方向は、理に適っている」


 もっとも、と重美は苦笑する。


「いざやれと言われて実践出来るか問われれば、わたしにはできんと思う。身に付いた術理そのものが異質だ。それに、これは相手が動いていなければ成立しない。後の先、動いた時点で辻の術に有利に働いたわけだ」


 このときばかりは重美も自嘲気味だ。

 術理を知ることと実践出来るかどうかは別物なのだ。


「辻月旦。名を聞かぬ処を見ると、この世界では何も動いていなかったんだろうな。それを、剣術部、か。面白いことになったな、ははは」

「笑いごとではないです、センパイ!」


 構えを解き、円佳は握り拳をふるわせて歯を食いしばる。切歯扼腕とはまさにと体現し、悔し涙を滲ませる。


「わたしは――!」


 ――面子メンツか、と重美は察した。

 毬谷一刀流を修める円佳には自負がある。多少なりとも鼻に掛けていたにしても、実力は関東でも屈指だ。その面子が、辻月旦によって、文字通り寸止めにされた木刀で潰されたのだ。

 そんな彼女が、雪辱戦を望んでいるのは肌で感じた。

 剣道部の現責任者として重美に伝えた尚武堂店主は、まさにその流れを心配してのことだったのだろう。

 うまい着地点、落としどころを探る重美の心中は、しかし穏やかだった。


「ふむ」

「――センパイ?」

「ともあれ、この一件、わたしが預かる」

「そんな!」

「飲み込め、毬谷」


 その重い一言に、円佳は息を詰まらせる。

 この東郷重美という少女の持つ殺気じみた気迫に、こみ上げる不満を飲み込まざるを得なくなる。


「……はい」


 その首肯に頷くと、重美は空気を変えるように踵を返す。


「毬谷、防具を着けろ。悔しいという気持ちがなくなるまで付き合ってやる」


 その言葉に、負けたとき以上のそら冷たいものを感じ、円佳は苦笑する。

 東郷重美の笑顔は、強敵を察したときのそれと同じになっている。

 これは寝た子を起こしたのかもしれない。

 いや、虎の尾を踏んだか。

 どちらなのか知らぬが、そのどちらでもあるのだろうと、円佳は重美が満足するまで打ち合うことを覚悟したのであった。

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