5月 大きな包み
【5月病】
5月に入り、ゴールデンウィークが終わってからも大学ではオンライン講義が続き、受験以来一度もキャンパスへ行くこともなく、合宿所と呼ばれるオンボロビルの1階で、叔父さんがイタリアの高級品だと
彼女が大きな包みを抱えて、どこかから帰って来た。
扉に嵌められた元は透明だったはずの磨りガラス状の覗きに人影が映り、開き扉の
「ありがとう、思っていたよりも大きくて」
彼女はお礼を言いながら、自分の身体が隠れるくらいの大きな包みを、そのまま僕にいきなり預けてくる。
急に大きな包みを渡されて一瞬よろけそうになったけど、大きさの割には重くない。
「ぬいぐるみか、何か?」
「なんだと思う?」
彼女が、ニコッと美少女スマイルをしながら聞き返す。
この笑顔は大好きなんだけど、今までの経験からするとそのあと面倒なことや厄介なことが待ち構えているんだ。
受験の時もそうだったし、引越しの時なんかは、生きて東京に出て来られたのが不思議なくらい。
「なに黙っているの? エムくんは地方から出てきたばかりで、見慣れないショップの包装にドキドキしてるの?」
いえいえ、東京に出てきた日は同じでしょう?
彼女のおかげで東京へ辿り着くのに、どれだけ大変な思いをしたことか。
叔父さんからは「何事もいい経験だよ」という編集長目線のコメントをもらったけど『九死に一生を得る』なんて、あんな事を言うのだろうな。
そんなことは忘却の彼方へすっ飛んでしまったかのように、彼女は東京で始まった新しい生活を満喫している。
最初のうちは叔父さんに「こんなオンボロビルで、東京の田舎に住むのなんて無理!」と駄々を
彼女が入学した文学部のシラバスに『マーケットリサーチ』の講義はなかったと思うけど。
書き忘れていたことを思い出した! 彼女も僕も晴れて合格した大学へ…… 一度も通っていない。厳密に言えば受験で一度行ったっきり。
受験の時、とんでもない数の受験生がゾロゾロと駅から大学へ向かうのを見て『こんなに学生がいるの?』と思ったけど、考えたら受験生だから多いのは当然。3教科の試験を終え、同じようにゾロゾロと駅へ向かう時もウンザリしたけど『大学が始まったらああはならないんだろうな』と思っていたらそもそも大学の通学が始まらない。入学式中止のお知らせはメールで来たけど、それ以降も大学とのつながりはメールとオンラインの講義だけ。
「エムくん、ボーッとしてないで包みをどこかに置いたら? もしかして5月病?」
いきなり大きな包みを渡されて、どうしよう?と思う間もなく彼女から5月病認定されてしまった。
去年の秋、学校の下駄箱に手紙という名の呼び出し状をもらって以来、彼女の勝手気ままなスピードにはいつも惑わされ、今もそれが続いている。
人の顔色はよく見ていて、ちょっとした表情の変化も見逃さずに『どうしたの?』と聞いてくる。
『心配してくれているのかな?』と思ってしまうから、こんなに振り回されても、彼女から目が離せないんだ。
【か弱い乙女】
このオンボロビルに似合っている、1階のホールに鎮座する古い革張りの長いソファに大きな包みをそっと置く。
壊れ物ではなさそうだけど、もしものことがあると彼女から何を言われるか分からないからね。
それにしてもこんなに大きな包み、彼女はここまでどうやって運んできたのだろう。クルマが停まる音もしなかったけど。
彼女は向かいの一人掛けソファに全身を脱力させて、ドサっと座る。
「アーッ、疲れたぁ。1日分の仕事が終わった気分、もう動けません。エムくん、私をベッドまで運んでくれない? お姫様抱っこで」
その美少女スマイルには騙されません。
それに未だ午後2時過ぎですけど。
去年高校で初めて手紙をもらい図書館で会った時には、こんな感じではなかったように思うけど……
いや、彼女が自分の都合と予定で動き回るのは変わらないか。
それでも高校生の時は、猫を十匹くらい被っていた気がする。
そもそも彼女がこのオンボロビルの最上階を自分の部屋にすると決めたから、部屋へ戻るのが億劫になるのだと思う。
叔父さんから1階と2階の部屋以外だったら、どの部屋を使っても良いと言われ、3階から上の部屋を彼女と探検(文字通り魔窟の探検)をして、あり得ないことがいろいろあったのだけどそれは別の機会に書くとして、エレベーターの無いこのビルの階段を一段一段、毎日登るのは大変なんだから。
キッチンもバスルームも1階にあるから、上り下りが大変なことに彼女は気がつかなかったのかな。
思い出した! 彼女はこう
「小説を書くのに心象風景は大切なの。3階よりも4階、4階よりも5階、少しでも高いところから外の景色を毎日眺めていたら素晴らしい景色が思い浮かぶの」
たしかにココは東京23区内にしては周りに自然が多く、彼女の言うことも分からないではないけれど、その時『だったらいっそのこと屋上にテントを張れば』と言ったのは
「エムくん、私はか弱い乙女よ。乙女を雨ざらしにする気?」と
滅相もありません。毎日、美少女スマイルに癒やされております。
でも『か弱い乙女』が、こんなに大きな荷物をどうやって持ち帰ったのだろう?
ソファに置いた大きな包みと、ソファで脱力した彼女がビクともしない時間がしばらく経過すると、2階から足音がして叔父さんが階段で降りてきた。
「持って帰ってくれたの? ご苦労さん」
彼女は叔父さんのお使いをしてきたようだ。
1階に降りてきた叔父さんは、ソファに置かれている大きな包みに手を掛ける。
「思ったよりも大きいな。持って帰るのは大変だったろう?」
ソファにダラッとしたままの彼女が答える。
「大変も何も、お店のカウンターで、叔父さんから渡された預り証を渡したら、店員さんが2人がかりでお店の奥からこの大きな包みを持ってきたの。お店の外まで運んでくれたけど、店員さん達はそこで包みを私に渡したら、直ぐにお店に引っ込みドアを閉めてお仕事終了。私は両手が塞がるし、どうして良いのか分からないからお店の前でしばらく呆然としたわ」
「タクシー代、渡しただろう? 骨董通りからココまでなら充分足りたはずだが」
「叔父さん、私は未だ文壇デビューもしていない、ただの学生よ。青山からこんな23区の僻地までタクシーを飛ばせますか?」
彼女の言うことには説得力がありそう。
でも叔父さんからタクシー代をもらっているんだよね? 彼女は貰ったタクシー代をくすねたの?
ソファに寝そべるように座る彼女をぼんやりと見ていたら
叔父さんも気が付いたようだ。
ソファーに寝そべるように座っている彼女のところへ行き、右耳を軽く引っ張る。
「ほう、ピアス開けたの? その石、綺麗だね」
叔父さんが言う通り、彼女の耳朶には初めて見る
何で僕が彼女のピアスのことを知っているのかって?
去年の秋、手紙をもらって以来、彼女に振り回され続けている出来事の一つなんだ。
【ピアス】
大学の合格発表があって間もない頃、家で惰眠を貪っていたら、彼女からメッセージが入った来た。
『ちょっと付き合ってくれない?』
同じ大学への入学が決まり、叔父さん付きとはいえ東京で同居するから正式な交際が始まるのかなと思い、買ったばかりの濃紺のピー・ジャケットを着て、いそいそと待ち合わせの書店に入ると彼女がもう待っていて、少し緊張した面持ちで『コッチ』と袖を引っ張るので、彼女について商店街を抜け、公園や街の公共施設のあるエリアへ向かう。
何も喋らない彼女に連れて行かれたところは、市内の総合病院。
彼女が『ココ』と言って病院玄関に入って行く。ジャケットの袖を引っ張りながら。
『エッ!』未だ付き合ってもないのに父親になるの!? ドキドキしながら彼女について行った先は『皮膚科』。
『何で?』たぶん、僕はそんな顔をしたと思う。
「ピアスを開けに来たの。消毒のこととかもあるから、ちゃんとした病院じゃないと不安でしょう?」
細菌とか入ったら危ないからね、でも何で僕が付き添いなの?
「親には内緒なの。高校は、あと卒業式だけだし、私たちは受験が終わったけど、クラスの友達は国立狙いで受験前だから、エムくんに付き合ってもらったの」
なるほど、消去法で僕が付き添いになったわけか。
「でも、未成年者のピアス施術は保護者の同意書がいるのでは? 同伴も」
「ちゃんと持ってきています。筆跡を変えるの、大変だったんだから。今日、両親は仕事で来られないから、エムくんに付き添ってもらう、ということにしておいたから」
彼女はバッグから書式に沿った同意書と、ワープロで作った委任状を取り出した。
彼女のこういう手際の良さは凄いなと思う。
作家を目指すより、詐欺師になった方が儲かるんじゃない。 掴まるけど。
僕はそのあと待合室で連載中の小説をスマートフォンで打っていると、彼女がホッとした表情で施術室から出て来た。
「お待たせー、終わりました」
そう言われても、髪に隠れて見えないのですが。
彼女が『ホラッ』と言って横髪をヒョイッと持ち上げる。
「これ、ファーストピアスと言って、これでピアスホールを作るの。1ヶ月くらいでホールが固定するらしいから、東京に行ったら素敵なピアスが付けられるわ」
僕には身体に穴を開けることの良さが分からないけど、人間は太古の昔から身体のいろいろなところに穴を開けていたみたいだし、人間にはそんな本能があるのかも知れない。
病院を出ると彼女は『親に見つからないように偽装しないと』と言いながら『じゃあ、またね』と言って立ち去り、3月の寒空の下、特にやることのない僕はまた書店に戻り、気になっていた文庫本を買って帰宅したんだ。
家に帰ると姉が外出先から帰宅しており、僕の新しいジャケット姿を見てニヤッとする。
「フーン、東京で同棲する彼女さんと新居の打ち合わせ?」と
家族には、東京の大学へ通うのに彼女の叔父さんが主催する合宿所へ入ることを伝えており、両親は安全面と経済面(これが大きい)で大喜び。姉は一緒に合宿所へ入る彼女のことを聞いてから、事あるごとに
「うん、彼女と一緒だったけど、ピアスの穴あけに付き合っただけ」
「ヘェー、彼女ピアスをしたの? 東京デビューを着々と準備しているのね。彼女可愛いから、ボーッとしていると東京の男に取られるぞ。エムくんもココで一発、パリッとする?」
「パリッと、何をするの?」
「例えばねー そうだ! タトゥーとかどう?」
姉はちょっと微妙なところに、親にはナイショでファッションタトゥーをしている。見えないところにファッションタトゥーをしても意味がないと思うのだけど。
「入墨はしません。プールで泳げなくなるから」
「チェッ、ノリが悪いなあ。お姉さん、ノリの良い子が好きなんだけどなぁ」
そのノリの良さで真夜中に何度スマートフォンで起こされて、酔い潰れたあなたをお店まで迎えに行ったと思います?
翌日、前の日にあったことを話しても取り合ってくれないから、諦めているけど。
そんなことが高校卒業まで他にもいろいろとあり、彼女は地元で周到な準備をして無事、東京でピアスデビューが出来たみたいだけど、そのピアスを見るのは初めて。東京に来てから買ったのかな。
【呪いのピアス】
彼女は、叔父さんが右耳を引っ張る手を払い退けた。
「大学生なんだから、ピアスくらいするでしょう」
と説明するが、彼女も僕も入試以来まだ1度も大学には行っていない。
「まあ、そうだね。これから大人の仲間入りをするのだから、身だしなみもそれなりにしないとな」
「荷物を取りに行った隣のお店で買ったの」
「あの店の隣にそんな店があったかな?」
「ショーウインドウにキラキラした綺麗なピアスがあったから、思わずお店に入ったわ」
「おかしいなぁ、隣はズッと空き店舗だったはずだけど」
「お店の人が付けてくれて、素敵だから買ったの。高かったけど」
「それに渡したタクシー代を使ったのか?」
「ごめんなさい」
「どうやって帰ったきた?」
「地下鉄を乗り継いで、駅からはタクシーに乗ったけどメーターが上がりそうな手前で降りたの。そこからは坂を下るだけだったし」
なるほど、だから彼女が帰って来た時、クルマの音がしなかったんだ。
この古いビル、敷地だけは広くて道路から玄関までクルマが余裕で入って来られるからね。
叔父さんは「仕方ないなぁ」と言いながらタクシー代の横領は許した模様。姪っ子には甘い叔父さん。
そんな叔父さんを見て、彼女は話題を変えようとしたのか、叔父さんに質問する。
「ところで、この包みは何なの?」
「人に渡すモノだから、包装を開けられないよ。中味は、ヒ・ミ・ツ」
叔父さんは勿体ぶった言い方をして、彼女と僕に触らないように念押しして、2階へ上がって行った。
「わざわざここまで運んだのだから、何なのか教えてくれとも良いと思わない?」
彼女は少々、ご立腹。
僕はあまり興味ないけどね。
その日は書いている小説の区切りがよく、珍しく午前零時前にベッドに入り、健やかな安眠に入って間もない頃、スマートフォンのコールで起こされた。
「真夜中になんだよぉ」と思いながらディスプレイを見ると彼女から。
通話ボタンをタッチすると彼女の悲鳴。
「エムくん、来て! なんか変!」
スピーカーから切羽詰まった彼女の声が聞こえたので、上掛けを跳ね除け靴を引っ掛けて、寝巻きのジャージ姿のまま3階から彼女の部屋がある5階まで急いで駆け上がる。
考えてみると、彼女の部屋に入るのは引っ越し荷物を運んであげて以来。
一応、ノックをしてみる。
「早く、早く!」
中から急かす声がしてドアノブを回すと鍵は掛かっておらず、ドアを開けると薄暗い室内で彼女が床で悶えている。
部屋に入ると『キーン』と嫌な音。
頭をキリで刺すみたいな頭痛がしてくる。
ドアの横にある照明用スイッチを2度押しして部屋を明るくすると、彼女はパジャマ姿で床に転がりながら両耳を押さえながら唸っていた。
「大丈夫? どうすれば良い?」
「鼓膜が破れそう! 耳がおかしくなりそう!」
顔をしかめながら床に横たわる彼女に近づくと、イヤな音がますます大きくなる。
彼女が耳を押さえている指の間から、お昼に付けていたピアスがキラキラと光っていた。
『もしかして』と思い、まず右耳を押さえつけている手を剥がし、ピアスのキャッチを外してピアスを取り、左耳のピアスも同じようにして取り外す。
彼女の部屋を見回すと机の上にボトルガムがあるのが目に入り、ボトルの横に置いてあるハンカチでピアスを包みボトルに入れて蓋をした。
実家に居たとき酔っ払って帰ってきた姉貴の世話をしたのが、こんなところで役に立つとは思わなかった。姉から「ピアスを外して」と初めて言われたときには、どうやって外したら良いか分からず、無理に引っ張ったら姉貴から思いっきり蹴られたことを思い出す。
頭痛のするイヤな音がだいぶ小さくなったけど、まだ音が耳に付くので机の引き出しを開けてボトルをしまい込むと、イヤな音は囁くくらいの小ささになった。
机の引き出しを勝手に開けたけど(中に入れてあるものの乱雑さは見なかったことにしておこう)、緊急避難的だから仕方ないよね。
イヤな音が収まると、彼女が肘をつきながら床から起き上がる。
「あーっ、ビックリしたぁ。何だったの? あのピアス。呪われているの?」
ピアスを取るときは急いでいたから気が付かなかったけど、彼女の寝間着姿を初めて見た。ピアスをするには似つかわしい小さなクマさん柄の厚手のパジャマ。
「呪われてはないと思うけどね。頭痛がするイヤな音は、あのピアスから出ていたのは間違いないね」
「ピアスから音が出るなんて変じゃない? 夜中に突然鳴り出すなんて」
「ピアスが変なのは確かだけど理由は分からない。お店に返しに行くしかないね。ピアスでもクーリングオフは出来るはずだし」
「そうよね。高かったのに物騒なピアスなんて願い下げよ。明日、お店に戻してくるわ。エムくん付き合ってね」
そう来るとは思ったけど、トラブルを巻き起こす彼女から頼られるのには慣れてきた。彼女と知り合ってからずっとトラブル続きだから。
「分かった。一緒に行くけど、それまでそのピアスはどうする?」
急いでピアスを仕舞った彼女の机を指さす。
「この部屋に置いておくのはイヤよ。エムくんが持っていてくれない?」
変なピアスは僕も持ちたくないなぁ。
「じゃあ、1階の冷蔵庫に入れておくよ。冷蔵庫だったらピアスの音が大きくなっても気にならないから」
「それが良いわ。じゃあ、お願いね」
彼女は両手を合わせてお願いのポーズを取りながら、ピアスに少しでも近づきたくないのか、そのままベッドに潜り込む。
僕は机の引き出しを開け、囁くように音を出すピアスの入ったボトルガムを持ち、彼女に「お休み」を言い1階の冷蔵庫にピアス入りボトルガムを仕舞ったあと、ようやく自分の部屋に戻り眠りにつくことが出来たんだ。
【骨董通り】
翌日、スマートフォンのコールで目が覚めた。
ディスプレイを見ると昨晩と同じく彼女からのコール。また何かあったのかと思い、急いで通話ボタンをタッチすると、彼女の爽やかな声が聞こえてきた。
「おはよー、朝ごはん出来てるよー」
それだけを言うと、通話が切れた。時間を見ると午前9時過ぎ。
昨夜は真夜中に彼女の電話で起こされたからまだ眠い。
朝食を作ってくれたということは、食べ終わったらすぐに昨日ピアスを買ったお店へ乗り込むことを考えているのは間違いない。
彼女が昨日行った場所は、叔父さんが「骨董通り」と言っていた気がする。骨董通りが青山にあることくらい知っているけど行ったことはなく、銀座で人物観察をやった時のように、彼女から服装チェックが入るのは間違いない。
ベッドを降り、パジャマ代わりのジャージを着たまま、掃き出し窓を開けて奥行きのないベランダに出てみると、オンボロビルの周りに広がる雑木林から流れてくる風で目が覚め、とっくに登っているお日様の周りには雲一つなく、絵に描いたような皐月晴れ。
こんな日は何を着て行けば良いのか迷うところ。
寒い冬は、上にオーバーやコートを羽織れば何とかなるが、微妙に暖かいと着るものに迷う。
暑い夏なら、Tシャツ一枚で良いから楽なのだけど。
少ないワードローブから選択の余地はなく、黒い長袖コットンシャツの上に、初めて地下室で叔父さんに会った時着ていた格好を真似て親に買ってもらったレザージャケットとリーバイス511のリンスカラーを合わせる。
それにドクターマーチンの3ホールシューズを履けば、彼女から『着替え直し』命令が出ることはないと思う。
また3階まで階段を登るのは避けたいので、外出に必要なモノをトートバッグにつめて1階へ降りていく。洗面道具を1階のバスルームに置けるようになって、少し手間が減ったのはありがたい。
1階に降りると、彼女はミントブルーのウールジャケットにドレープの入ったスカートの組み合わせ。濃いブルーのベレー帽をかぶり、足元はカッチリとした紐の革靴で固めている。
ピアスを返却してお金を返して貰わなければならないから『お金は持っています』アピールをしているのかも知れない。
昨日トラブルにあった耳朶には金色の小さな十字架の形をしたピアスを付けている。そう言えば銀座でビックリパーティー(僕にとっては)をした時の洋食レストラン『煉獄亭』の名前を不審に思った時、彼女が(キリスト教上の)天国と地獄の蘊蓄を語っていたのを思い出した。
彼女はクリスチャンなの? 教会に行くとか聞いたことはないのだけど。
そんな装いをしているのを忘れたかのように、彼女はソファに座り膝の上に置いたMacBook に凄いスピードで何かを打ち込んでいる。
作業を邪魔するのも悪いので小声で「おはよう」と言って、以前は立派なダイニングテーブルであったであろう作業台の上にある、彼女が用意してくれた朝食の席につく。
今日も銀座で人物観察をした時と同じメニュー。
おにぎり、卵焼きと御御御付け。
これが彼女の定番料理なのかな?
「いただきます」を言って食べ始めると前回と同様に御御御付けが美味しい。豆腐とわかめ、小ネギのお味噌汁だけど出汁が効いているのか、香りが良い。
美味しい朝食をあっという間に食べ終わり「ごちそうさま」を言って食器を片付けながら彼女に聞いてみる。
「叔父さんは?」
昨晩の騒動は彼女が買ったピアスが原因だけど、始まりは叔父さんが彼女におつかいを頼んだこと。
何か話があっても良いはず。
「私が起きた時には、叔父さんはもう出かけたみたい。包みもなくなっているから、どこかへ持っていったのかな」
ホールの真ん中にある革張りのソファに目を向けると、昨日、彼女が持って帰った大きな包みが消えている。ホールの窓から外を見ると叔父さんが運転するボルボ240ワゴンがない。叔父さんはあの怪しい大きな包みをどこかへ届けに行ったようだ。
バスルームで歯を磨いて身なりを整える。
ホールに戻ると彼女は小さな皮のハンドバッグを持ち、直ぐに出かける格好をしている。
「出かけるの?」
「今ならバスに間に合うわ。ピアスを忘れないでね」
【空き店舗】
この合宿所という名のオンボロビルは、東京23区にあるのに至極公共交通の便が悪い。周りには敷地の大きな住宅街があり、近くの(と言ってもかなり歩くけど)コンビニエンスストアに歩いて行く途中で、見たこともない大きな外国車と何台もすれ違う。この辺の住民に公共交通機関は不要なようだ。
昨日の真夜中、冷蔵庫に入れた異音を発するピアスの入ったボトルガムを取り出すと、昨晩のような頭痛を催す音は聞こえて来ない。
「音がしなくなったようだけど」
彼女は玄関の扉を押しながら、ボトルガムを持つ僕の手をじっと見る。
「今はそうかも知れないけど、あの音はゴメンだわ。直ぐに返しに行きましょう」そう言って彼女は外に出て行った。
昨晩の異音に懲りたようだ。
ボトルガムをトートバッグに放り込み、急いで玄関を出て彼女のあとを追いかけた。
滅多に来ないバスに無事間に合い、電車を乗り継ぎ骨董通りへ向かう。
骨董通りと聞いていたから古美術品を売っているお店が並んでいるのかと思っていたら、飲食店やアパレルショップ、美容院が多い。
彼女について行くと、首を傾げながら急に立ち止まる。
目の前には『For Rent』の看板がショーウィンドウに掛かる空き家。
「おかしい。昨日、このお店でピアスを買ったのよ」
珍しく彼女がブツブツ言いながら、昨日お使いをした隣のお店に入って行く。外から見ると何をやっているのか分からないようなお店。広い窓から中がよく見え怪しいモノは無さそうなので、僕もなかに入ってみる。
無人のカウンターに置かれたベルを彼女が鳴らすと、暫くして奥から僕たちより10歳ほど年上に見える女性店員が出てきた。
店員は彼女の顔を見て「アラッ」という表情で聞いてくる。
「昨日、お渡ししたものに何か不具合でも」
「不具合も何も、何が入っていたのかも知りません」
彼女の言葉に、お店の人は「なるほど」と、頷く。
何が『なるほど』なのだろう? あの大きな包みの謎が深まる。
彼女は包みの疑問はさて置いて、このお店に来た本題に入る。
「隣のお店なのですが…」
「隣? 隣の画廊に何か用事があるの?」
お店に入る時に見た左側のクラッシックなお店は画廊だったのか。
「そちらではなく、反対側のアクセサリーを売っているお店ですけど」
お店の人が眉根を上げ、不審そうな表情を浮かべる。
おそらく『この娘、何言っているの?』と思っているんだな。
「左側(外から見ると右側)の店舗は、随分前から空いていますよ」
「そんなはずはないわ。昨日このお店で荷物を受け取る前に、隣のお店でピアスを買いましたから」
お店の人の表情が「変な人」を見ている顔に変わる。
「そう言われても… 私が知る限り、隣はずっと空き店舗ですよ」
予想したとおり、話が進まない。
彼女はしばらく視線を斜め上に向け、一息ついてから店員に口を開く。
「納得できませんが分かりました。このお店とは関係のないことですし。ところで昨日、私が受け取った大きな包みの中身は何なのですか?」
彼女も大きな包みのことは気になっていたようだ。
「アレですか? 依頼人と受取人以外には中身を明かしてはならず、仲介した私たちには守秘義務が生じておりますので、お話しできません」
この説明には僕も驚いた。
昨日の大きな包みはそんなに秘密な、何かなのか?
軽くてフワフワしたぬいぐるみみたいなモノだったけど、怪しい何かなのか?
彼女が大きな包みのことを尋ねてから、そもそも愛想のなかった店員は僕たちが店に居ないかのように振る舞い始め、カウンターの下にある何かをゴソゴソと扱い始めた。
それ以上その店にいても新しいことが分かることはなさそうなので、お礼を言い店を出ることにする。
二人で隣の空き店舗の前に立ち、薄汚れたショーウィンドウを覗いてみるが、中は何も無い室内空間が広がっているだけ。
「おかしいなあ。昨日、このお店に入ってピアスを買ったはずなのに」
「領収書を貰わなかったの?」
「それがおかしいのよ。現金で払ってお釣りと領収書をお財布に入れたはずなのに、いくら探しても見つからないの」
ますますおかしい。
「エムくん、私のことを疑っているでしょう。私が詭弁を吐いていると思っていない?」
やっぱり彼女が人を見る目は鋭い。詭弁を吐いたとは思っていなけど、昨日まであったお店が急になくなるとは思えないし、お店の人の話ではずっと前から空き店舗だったと言うし。
空き店舗の前に立ち、どうしたものかと話をしていたら、さっき話をした店員が他の店員と僕たちを疑わしい眼差しで、お店の窓越しに見ながら何か話をしている。 彼女もそれに気がつき、面倒なことになる前にそこを退散することにしたんだ。
厄介なものを持ったままなので、どこへも寄らずに合宿所へ戻り、また冷蔵庫にピアスを仕舞うことにした。
元ダイニングテーブルには叔父さんの走り書きが残されており、しばらく出張で戻らないらしい。
それから数日間は何事も起こらず(冷蔵庫に入れたままのピアスを時々取り出してみたが、うんともすんとも言わない)、僕はオンラインの講義を受けたり小説を書いたりし、彼女は朝早く出掛け夕方になると合宿所へ戻ってきていた。『市場調査』を続けているのかもしれない。
【転がり込む少女】
土曜日の午後、陽が斜めに傾いてきた頃、週末限定研修生のユリさんが訪ねてきた。正確に言うとこのオンボロビルの玄関から転がるように飛び込んできた。
「大変です!」
小柄な身体全体で息を弾ませ、ここまで走ってきたのか顔がほんのりと赤い。
上に何か羽織っているが(東京の女子高生の服装はよく分からない)下はジーンズにスニーカー。
今日は『煉獄亭』で着ていたコスプレ衣装は着ていない。合宿所の倉庫にあるから
「ユリちゃん落ち着いて。何が大変なの?」
彼女は2歳年下のユリさんにはお姉さんっぽく接している。彼女はひとりっ子だと聞いていたから、ユリさんのことを妹のように思っているのかもしれない。
「聞いてください! ここに来る途中で変なモノに追いかけられました」
「変なモノって? ユリちゃんは可愛いから変態さんとか?」
変態に『さん』付けとは。彼女のそういうところは今だに分からない。
「とても変なモノです。人ではない何か?」
質問に疑問系で答えている。
叔父さんがいたら、研修生として指導を受ける発言。そう言えば叔父さんはいつ帰って来るんだろう。
「ユリちゃん、それはもしかしたら新しい小説のネタを、ご披露しているのかな? ユリちゃんは演技が上手いからね」
あの嘘っ子メイドの演技は上手かったのか?
最後まで見破れなかったから、大きなことは言えないけれど。
「本当です。なんなら今から見に行ってみます? そこの坂を登って直ぐの児童公園です」
児童公園? そう言えばそんなところがあったような気がする。
子供が遊んでいるところを見たことはないけど。
ユリさんの話を聞いて、彼女の目がキラキラし始めた。
また、彼女の好奇心から始まる面倒ごとに巻き込まれそうな気がする。
「エムくん、ユリちゃんの話を聞いたでしょう。これは見逃せない題材よ。閑静な住宅街に『人ではない何か変なモノ』が出てくるなんて滅多にないわ。すぐに出かけましょう! 事件は会議室で起きてるんじゃなくて、現場で起きているのよ!」
思った通りの展開。
最後の言葉は、僕たちが生まれる前に放映された邦画のパクリだと思うけど… ここに会議室はないし。
どうしたものかと考えていたら、黙っていた僕にツッコミが入る。
喋らない僕に突っ込むのは彼女の得意技。
「エムくんはノリが悪いわね」
身内にも言われたような気がする。
「分からないことが出てきたら、まず現場で確かめる。これって小説家の基本でしょう?」
いえいえ、それは刑事の基本動作では?と思うけど、ここで議論しても仕方がない。
「じゃあ、児童公園まで行ってみる? ユリさん、その『人ではない何か』って危なそうなものなの?」
「分かりません。でも見るとゾゾッとする感じ」
うーん、ますます分からない。
幽霊か何かかな? 陽が暮れてきたけどオバケが出る時間にしては早過ぎる。
「大丈夫『三人寄れば文殊の知恵』と言うでしょう。行ってみれば何とかなるよ」
彼女は時々、謎の慣用句を引用する。
それは『凡人でも三人集まって相談すれば良い知恵が浮かぶ』の意味で、ユリさんが見かけた『人ではない何か』への対応は難しいと思うのだが。
どうでも良いことを考えていたら、彼女はキッチンから大きなめん棒を片手に現れた。50センチくらいありそう。
「出発よ! エムくん、もしもに備えて何か武器を持って来て」
めん棒は彼女の武器なのか? 確かに殴られたら痛そうだ。
自分の部屋まで戻るのは面倒なので、この古いビルの各階にある換気窓を開ける長い棒を持って行こう。ぶつけると折れそうだけど。
気合の入っている彼女が先頭になり、合宿所の敷地を出て上り坂に向かう。彼女の後ろからユリさんが何か話をしながらついて行く。
僕はしんがりを務める形のなったが、後ろから何かが襲ってくる気配はないから
土曜日の夕刻、街が薄暗くなり坂を上る行く途中ですれ違う人やクルマはいない。そもそもこの坂を下った先には合宿所という名の叔父さんの家があるだけだからいつも人通りは少ない。
23区の辺鄙なところにあるとはいえ、叔父さんはこの広い土地と古い5階建てのビルをどうやって手に入れたのだろう。
そんなことを考えていたら、坂を上った先の右手に児童公園が見えて来た。見た感じ普通の児童公園でブランコにシーソー。すべり台と小さなジャングルジム、低い鉄棒がある。
ベンチに誰かが座っている。
「あそこ! あのベンチ!」
ユリさんが小さな声で叫ぶ。
ベンチに一人で座っている人の姿は、確かに異様で頭からつま先まで全身黒尽くめ。
黒い帽子に黒いサングラス、黒いマスクに黒いコート、黒いズボンに黒い靴、まさしく "Men in Black"。
でも、そんな人がいてもおかしくないよね。ファッションだし。
と思って見ていたら、その黒尽くめの謎の人物は僕たちの目の前から消えてしまった。
【児童公園】
「エーッ! 消えたけど… どこに行ったの?」
彼女も同じように消えたように見えたようだ。
昨日遅くまでSF小説の続きを書いていて、今朝は景色がぼんやり見えていたから、自分の見間違いでないことが分かり安心する。
「そうなんです。さっき合宿所に来る時もあそこのベンチに座っていて、変な人だなと思って見ていたら急に消えて、そのあとブランコに乗っていて、また消えて。そのあと嫌な感じがしたから、振り向いたら私の直ぐ
ユリさんが、自分のうしろを振り返りながら説明する。
確かに人が現れたり消えたりするのは単に驚くだけだけど、自分の
彼女もめん棒を握りしめて、周りをキョロキョロ見ている。
僕たち三人はお互いに身を寄せ合い、警戒態勢。
そんな状態がしばらく続き、陽が無くなりかけたところで彼女が大きく頷きながら口を開く。
「とりあえず、今のところは大丈夫そうじゃない? さっき消えた黒い人は不気味だけど、消えただけだから影響はなさそうだし」
消えた黒い男の謎は、彼女の好奇心を満たしていないようだ。
「でも、消えっぱなしってことはありませんよね?」
ユリさんはまだ油断を怠らない。黒い大鎌の何かが余程怖かったようだ。
「霊的なモノだったら消えたままかもよ。エムくん、中途半端なままだと気持ち悪いから、念のため公園の中を確認してから帰らない?」
彼女は口で『気持ち悪い』と言っているが、薄暗くなった公園で彼女の瞳が輝き始めた。怖さより好奇心が優った様子。それが何よりも彼女の行動基準に優先するのはこの半年で学習してきたんだ。
「じゃあ、公園の中をぐるっと回ってから合宿所に戻ろうよ。何も無かったら、霊的なモノということで良いのでは」
本当はどうでも良いのだけど、ここまで来たらあやふやなままで帰るのは無駄足のような気もするからね。
めん棒を片手に彼女がズンズンと公園に入って行き、ユリさんが追いかけるようについて行く。僕は引き続き、しんがりを務め前を行く彼女たちを見ながら少し間を空けて公園に入って行く。
彼女は入って直ぐのところにある、さっき黒い人が乗っていたというブランコのチェーンを握り揺さぶってみる。
「何ともないわね」
そのまま隣にあるシーソーの真ん中に飛び乗って両足でバランスを取る
「懐かしいなぁ。こうやってどっちが地面に着かないように続けられるか競わなかった?」
彼女は『ヨヨッ』とか言いながら器用にシーソーの上でバランスを取る。膝上のスカートを履いているけど、気にしていないようだ。
バランス運動に満足したのか、その先にあるすべり台へ向かう。
もしかしたらと思っていたら、思ったとおり彼女はすべり台の方から勢いを付けて登り始める。途中でワラビーの靴底が滑り、慌ててすべり台を掴んだのはお約束。
「いろいろ見えていますけど」
僕の横に立って彼女のアクティブな行動を見守るユリさんが、女性目線で助言する。
彼女はすべり台のてっぺんに立ち、周りをひと通り見回し頷いてから僕たちの方を見下ろす。
「ユリちゃん、見せパンを履いてるから大丈夫。わざわざ見せたりしないけどね。ここから見た感じ、この公園には何も居なさそうよ」
彼女は駆け登った滑り台を今度は立ったまま、バランスを取りながら滑り降りてくる。そういえば高校の体育祭で、彼女が障害物競走で一等を取ったのを思い出した。
公園の奥にある小さなジャングルジムへ向かう。
「結局、何も無いわね。あの黒い人は何かの見間違いだったのかしら」
それは無いと思うぞ。健康な僕たち若い3人が揃って見間違えるはずないし、ユリさんは2回も見てるんだから。
彼女がジャングルジムを登り始めたところで、動きが止まる。
ジャングルジムから少し離れていたユリさんと僕が『何か見つけたのかな?』と思い彼女の動きを見守ると、ジャングルジムを登り掛けていた彼女の身体が格子状の鉄棒の中に吸い込まれるように消えていった。
【彼女を救出】
「彼女さんが消えましたけど…」
ユリさんが呆然とした顔で、小さく消えそうな声でつぶやく。
「うん、消えたね」
あとで思い出すと、自分でも間抜けな受け答えをしたと思う。
「どうしましょう? 110番に電話しますか?」
目の前で起こったことがあまりにも現実的ではなく、ユリさんと僕は思考が停止していた。
「でも、お巡りさんに何て話をするかだよね『友達がジャングルジムに登っている途中で消えました』とか説明したら『ちょっと署まで来てくれる』と連れて行かれてアルコールと薬物検査をされると思うよ。僕たち未成年だし」
ユリさんは僕の言葉にうなずきながら「じゃあ、どうします?」と聞いてくる。それは僕も聞きたいところ。
あたりが暗くなった児童公園でなすすべもなく、ジャングルジムの前で僕たちが立ち尽くしていると、騒がしいクルマの騒音が聞こえ薄ぼんやりしたヘッドライトの光が公園入口を照らす。
クルマが停車してドアが開き、叔父さんが僕たちのところまで歩いて来た。
「今、彼女はどんな感じなの?」
叔父さんは消えた彼女のことを知っているの?
「どんなも何も、このジャングルジムを登っている途中で消えました」
「そうか、そう言うことか…」
そう言うことって、どういうこと?
公園内は敷地の真ん中にあるLED灯の光でわずかに照らされ、いつものように鍔付き帽子とサングラス姿の叔父さんの表情は分からない。
「エムくん、例のピアスはまだ冷蔵庫に入ってる?」
叔父さんはなぜ、冷蔵庫に入れたピアスのことを知っているのか?
その時、僕は訝しげな表情で返事をしたと思う。
「ええ、一応毎日確認していますから」
「じゃあ、急いで取って来てくれるかな。ここで待ってるから」
彼女が消えたのと、あの呪いのピアスに何か関係があるわけ?
僕が動かずに叔父さんの方をじっと見ていると、叔父さんが急かせて来た。
「あとで説明するから、とりあえずピアスを急いで持って来てくれ。そうしないと彼女が消えたままになるから」
サングラスの下の眉間に縦皺が寄っている。
理由は分からないが、只事ではないことは分かったので、僕は児童公園の入口を抜け、合宿所へ向かって走り出す。
敷地までの長い坂道は道路も周りも暗く、足がもつれそうになりながらも全力で坂を駆け降りた。
玄関からホールに入ると建物の中は、僕たちが児童公園に出かけた時のまま。
冷蔵庫を開けボトルガムに入っているピアスを確認して、ジャケットのポケットに突っ込み、建物を飛び出した。
坂道を走って登りると途中で息が切れてくる。東京に出て来てから合宿所にいることが多く、運動不足かも知れない。
ゼーゼー言いながら児童公園まで戻り、ジャングルジムの前までたどり着くと叔父さんとユリさんはさっきと同じ場所に立っていた。
僕がボトルガムからハンカチに包んだピアスを叔父さんに渡すと、叔父さんはハンカチを開き、うなずきながらピアスを一つずつ両手に握った。
叔父さんはピアスを握った両手を前に突き出し、そのまま彼女がいなくなったジャングルジムまで歩いて行き、ジャングルジムに両腕を突っ込むような姿勢をとる。
僕の隣に立つユリさんは興味津々なのか、首を伸ばすようにして叔父さんのやることを見ていた。
叔父さんが両腕をジャングルジムに突っ込んだまましばらくすると叔父さんの両手を中心にして、ほのかにジャングルジムが明るくなり始めた。
どこかに提灯がぶら下げられているような感じ。
その状態が続くと、彼女がジャングルジムを登ろうとしていた場所から突然現れて『ドサッ』と、公園の焦茶色の土の上に落ちてきた。
「痛ぁい! 痛たた…」
彼女がお尻をさすりながら立ち上がる。
小説では読んだことがあるけど『痛たた』なんて言う人が本当にいるんだと感心する。
「アレッ? 叔父さん、急にどうしたの? 突然現れて。またいつもの手品か何か?」
急に消えて現れたのは、あなたですが。
「俺のことが分かるか?」
叔父さんは心配そうに、彼女の顔を覗き込む格好で顔を近づける。
「叔父さん、何言ってるの? 出張に行ってたのでしょう? お土産は? お土産。んん?なんか臭い… 分かった! ビール飲んできたでしょう? いけないんだぁー。ここからは私が運転して帰るから叔父さんは歩いて帰って下さい」
現れた彼女は今までにも増して元気な様子。
「まあ、いいから。土産より身体は大丈夫なのか?」
叔父さんは彼女のことがやっぱり心配なようだ。
「ジャングルジムから落っこちたばかりだから、お尻は痛いけどアザになっていないと思うから大丈夫」
彼女がスカートを捲り、見せパンを剥ごうとしたところで、隣にいたユリさんが慌てて隠そうとする。
「大丈夫よ。もう暗いし、叔父さんとエムくんしかいないから。ヘーキ、ヘーキ」
叔父さんはともかく、僕がいても気にしないのか? 安全牌だと思われているのかもしれない。
ようやく僕が口を挟めそう。
「えっとー、良いですか?(叔父さん「なんだい?」)さっき彼女が消えたのと、叔父さんがピアスを使って彼女を助け出したことが、どういうことなのか教えて欲しいのですが」
僕の質問に、ユリさんは激しく首肯し、彼女はポカンとしている。
「そうだな。じゃあ家(合宿所)で説明するから、とりあえず戻ろう」
叔父さんはそう言いながら、足は自分のクルマに向いている。
「叔父さん! ビール飲んでいるからダメよ」
彼女が走って追いかけ、叔父さんの手から鍵を取り上げて振り向く。
「私が運転するから安心安全。さぁ、乗って乗って」
さっき長い坂道を走って往復したからクルマで帰れるのはありがたいけど、彼女は自動車免許を取ったばかりではなかったかな? 初心者マークは?
指摘しようと思ったけど、これ以上自分の足で歩きたくないので、黙ってボルボ240ワゴンに乗り込んだ。
彼女が運転席、叔父さんが助手席に座り、僕とユリさんが後部座席に座り、児童公園をもう一度よく見ようと窓を開けようとしたら、叔父さんが大声を上げる。
「窓空け禁止! 閉まらなくなるから」
なるほど、古いクルマは乗り方にルールがあるのね。
彼女がハンドルを握るクルマは、短い距離を無事、合宿所までたどり着いた。
【ピアスと黒い人物】
合宿所に戻ると叔父さんはバスルームへ向かい、鼻歌を歌いながらお湯に浸かっていた。
バスルームへ入る前、叔父さんが「何か食い物を取ってくれ」と言うので彼女が「何、取ろうか?」と聞くと、ユリさんが「この前のピザ、美味しかったのであれがいいです」と即答する。
アレッ? ユリさんはここでピザを食べたことあったかな?
「ユリさん、ここでピザ食べたっけ?」
彼女とユリさんは一瞬顔を見合わせて吹き出し、涙を流さんばかりに笑い続ける。
「あの時はピザをご馳走になりました」
あの時… 「アッ! 分かった! ユリさんが行き倒れになって初めてここに来た日。ユリさんが隠れた時、彼女がこっそりピザをユリさんに運んでいたんだ」先月のことがようやく腑に落ちた。
「エムくんにタネ明かしをした時に話さなかったっけ?(「ユリさんが隠れていたことしか聞いていません」)そっかー、だってユリちゃんお腹空かせていたし、叔父さんがオーダーしたピザの量が半端なかったからちょうと良かったわ」
それで僕は2万円も支払う羽目になったんだけどね。
そのあと、ユリさんご所望のピザ屋さんに注文をして(今日は叔父さんのアルコール抜きだから前回のような金額にはならなかった)しばらくすると叔父さんがバスローブ姿でバスルームから出てくると同時にデリバリーサービスが玄関の呼び鈴を鳴らす音がする。
今日は叔父さんに払ってもらうからね。
「なに? ピザ頼んだの? そう、ハイじゃあ受け取っておいて」そう言いながら1万円札を渡してくる。今日は気前が良いのかな?
テーブルにピザを並べている間に叔父さんは冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲み始めた。酔う前に公園でした質問の解説をして欲しいのだけど。
バスローブ姿の叔父さんが缶ビールを片手に「あーっ、疲れた」と言いながらソファに腰を下ろす。
僕たちが叔父さんからの説明を黙って待っていると「冷えたピザほど美味しくないものはないぞ。とりあえず食べよう、さっきの説明はそれからだ」
ほんとに話してくれるのかな?と思いながら僕たちもピザを口に運ぶ。
4枚届いたピザの半分ほどなくなったところで叔父さんがおもむろに口を開く。
「あの
「「「エッ!」」」
今、叔父さんは「
叔父さんは『ムー出版』の編集長ではないよね?
僕たち3人が疑いの目で叔父さんを見ていると、それに気がついたのか「じゃあ、ざっと説明するよ。最初から全部話しても理解できないだろうから」
叔父さんとその仲間(どの仲間か分からない)は大学時代に人間ではないものを研究するサークルをやっていた。いわゆるオカルト同好会。
大学を卒業してからも時々集まって、情報交換という名の飲み会をしているらしい。
その会合で最近、
叔父さんはそれで彼女の
「叔父さん、アレは無理よ。あんなの付けたら、妖に遣られる前にピアスに殺されてしまうわ」
「いや、アレをお前があんなに早く手に入れるとは思わなかったからさ。ピアスが
叔父さんは彼女が信用するように、元オカルト研究会の仲間たちと手の込んだ芝居を打ったらしい。お使いを何度か頼んでピアスを買うように仕向けるつもりが、初めてのお使いで彼女がピアスを買ったため計画が狂ったらしい。
「そのピアスはどうするの?」
叔父さんが手のひらで転がしているキラキラ光るピアスが彼女は気になるらしい。
「これ? さっき
叔父さんがヒョイッとピアスを彼女に渡す。
ピアスを受け取った彼女は思案顔。
それはそうだよね、真夜中に酷い目にあったし、元妖避けのピアスなんて僕だったら付けたくないかな。
「一応もらっておくわ。でも様子をみたいから、エムくん冷蔵庫に入れておいてくれる?」
ピアスは彼女のモノになったけど、その管理は僕に託されたようだ。
ユリさんが手を挙げながら「ちょっとよいですか」と叔父さんに質問。
「あの公園に居た黒い人は何なのですか?」
「アレかい? なんだろうねー、俺たち同好会仲間は
「でも、あの公園はココ(合宿所)に来る時、必ず前を通るから怖いですよ」
それはそうだ。僕たちもあそこを通らないとココからどこへも行けない。
「それは大丈夫。さっきのピアスの威力でここに近づくことはないよ。しばらくの間はね」
『しばらく』が、どのくらいの期間が気になるところ。
説明がひと段落して、叔父さんはキッチンの棚からワインボトルを取り出したけど、コルクスクリューが見つからず無理やりコルクを押し込んで、歓迎会の時のようにラッパのみを始めた。ワインはグラスに入れた方が美味しいと思うのだけど。
夜が遅くなる前にユリさんをバス停まで彼女と送りに行き、その日は冷蔵庫のピアスを気にすることもなく眠りにつくことができたんだ。
そういえば彼女がお使いに行った『大きな包み』は何だったんだろう?
何時かわからないくらい熟睡している真夜中、スマートフォンが唸り始める。
寝ぼけながらディスプレイを見ると、また彼女から。
一件落着したよね?と思いながら 通話ボタンをタッチすると彼女の悲鳴。
「エムくん、来て! なんか変!」
(大きな包み:了)
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