彼女と僕の奇妙な日常【小説家になろう!】

MOH

4月 突然の来訪者

【行き倒れの少女】


 彼女と僕が、叔父さんちに引越して間もない頃のお話。


 その日は朝から細かい雨が降り続き、濃いグレーの雨雲が東京都心の真上に居座り、遠くの高層ビルが雲に隠れ半分しか見えない4月上旬、春らしくないハツラツ感ゼロのお昼近く。


 5階建てのオンボロビルで、どの空き部屋を自分の部屋にするのかで、ひと騒動あった後、彼女と僕の部屋がようやく決まり、1階の吹き抜けホールに置きっぱなしにしている引越し用段ボールをどうやって上の階に運ぶのか、協議という名目で彼女が僕に押しつけようとしている時のことだった。


 建て付けの悪い開き扉の玄関に何かがぶつかる音がして、慌てて外に出てみると、片方の扉に寄りかかったまま、人が倒れている。

 ベージュのスプリングコートを着た小柄な女の子が、全身びしょ濡れになって片手でドアノブを掴んだまま荒い息をしていた。


 彼女が「大丈夫?」と聞くと、その女の子はうつむいた蒼白な顔と虚な目を少しだけ僕たちの方に向け「助けてください…」と言ったまま、ドアノブを掴んでいた手が外れ、ズルズルと玄関に横たわってしまった。


「中に運ぼう!」

 彼女がそう言うから、どこの誰とも分からない行き倒れ(?)の女の子を建物の中に運び込むことにしたんだ。


 女の子をホールのソファに寝かせ、僕はバスルームへタオルを取りに行き、彼女は女の子に声を掛けていたようたが、タオルを数枚持ってホールに戻ってくると、彼女の様子がおかしい。棒のように突っ立ったまま固まっている。


「エムくん、ヤバいよ!」

 彼女にしては珍しく、切実な口調。


「何が?」と言ってソファに目を向けると、横になっていたはずの女の子が居ない。ヒビの入った皮のソファは、女の子が横になっていたところが濡れている。


なに!? なに!? たった今まで、目の前にいたのよ!」 彼女は玄関を出て雨に濡れた髪も気にせず、誰もいないソファに目は釘付け。


「うん、たった今、ここに運び込んだばかりだけど」


「なんでー! なんでいなくなるのー!」

 彼女が叫ぶのを初めて聞いた気がする。

 そんな声が出るんだ。


「僕がバスルームに行っている間に消えたの?」


「急に消えたの! マジックみたいに」


「突然?」


「そう、一瞬で目の前から消えたの!」 彼女は驚いたまま、目を閉じるのを忘れている。


 僕が書き続けている物語の登場人物なら『イリュージョン!』と叫ぶレベル。 今の出来事は物語のネタに使えるのかな? 誰を消しても、主人公から文句を言われそうだけど。


 彼女と僕が驚愕して固まっていると、ビルの玄関前にクルマの停まる音がした。




【彼女はだれ】


 ビルの外でクルマのドアを開け閉めする音がしたあと、叔父さんが玄関扉を押し開けて足を踏み入れ、雨に濡れた服のしずくを手で雑に払う。

 ソファの前で立ち尽くす彼女と僕を見て、怪訝そうな顔をする。

「どうした? 昼間っから、幽霊でも見たような顔をして」

 叔父さんは一人掛けのソファに腰を下ろし、ジャケットのポケットからタバコを取り出して一服する。煙を吹き出しながら天井を仰ぎ、フロアをぐるりと見回して、長ソファが濡れているのに気がついたようだ。

「誰かソファでお漏らししたの? 漏らしてもいいけど、ちゃんと拭いておかないとシミになるだろう? 年代物だけど補修すれば良い値で売れるんだから。一応イタリア製だし」


 このソファがそんなに良いものとは知らなかった。 どう見ても高級品には見えないけど。

 彼女と僕が突っ立ったままなので、叔父さんが首をかしげる。

「もしかして、2人でゲームをしてるのかな? お漏らしをして廊下に立たされるゲームとか?」

 初めて聞くけど、そんなゲームあるの? 誰得だれとく


 彼女がようやく我に返ったのか、ハッとして叔父さんの方を振り向く。「そのソファ、濡れているところに女の子がいたの」


「3人目の候補生? 合宿所の? これから候補生の募集をしようと思っていたけど、どこかで話を聞きつけたのかな? ここで合宿所を始めるのが、業界で話題になっているみたいだから」

 彼女の叔父さんは業界(出版?)でそんなに有名な人なの?


「違う、違う、玄関に行き倒れの女の子がいたの」


「オイオイ、それはないだろう? いくらココが不便だからと言っても23区内だぞ。何でビルの玄関に行き倒れがいるの?  ……っん? 待てよ……」

 叔父さんが何かを思い出したかの様に黙り込む。

 いつもの色付きセルフレームを掛けているので、どこを見ているのか分からない。今日は怪しいツバつき帽子を被っているので、うつむくと表情も窺い知れない。


 彼女と僕は、叔父さんからの次の言葉を待ちながらフロアに立ったまま。

 そんな状況がしばらく続く。「叔父さん、寝てない?」

 そう言って彼女は、カッカッと叔父さんの前まで歩み寄り、組んでいる右足を足で振り払った。

 相変わらず、こういう時の彼女の行動は容赦ない。

 いきなり払われた足はゴツンッと床に落ち、叔父さんは驚いて目を覚まし周りを見てキョロキョロする。やっぱり寝てたんだ。


「えっとー、何だっけ? クルマで長く走って疲れたから、上でひと寝してくる」 叔父さんはおもむろに立ち上がり、階段の手摺りに手を掛ける。


「叔父さん! 待ってよ! 女の子が居なくなったの」

「えっとー、誰だっけ?」

 叔父さんはひと寝する前に、寝ぼけているようだ。

「彼女と引越し荷物の片付けを始めたら、玄関の前に倒れている女の子がいて、中に運び込んだのだけどソファから消えてしまいました」

 片足を階段に載せたまま、叔父さんは首を捻る。「どんな子? 年、いくつくらい?」

 そう言われても、コートを着た小柄な子ぐらいしか覚えていませんが。



【一休さん】


 彼女は握りこぶしをおでこに当てて、何かを思い出そうとしている表情

。 一休さんの生まれ変わり? どうでも良いことを考えていると、彼女がおもむろに口を開く。

「歳は私たちと同じくらい、小柄で身長は150cmちょっとかな? 細身だけど胸は大きかったわ(その説明は必要なの?)。髪はストレートで肩に掛かる長さ、少し癖っ毛。顔は雨に濡れて化粧が落ち、目を閉じていたからよく分からないけど、丸顔で鼻はあまり高くなくて、でもよく喋りそうな口元だった」 彼女はあの一瞬でよく覚えているなぁ。 女性って、そんなに相手のことをよく見ているの?


「なるほど、よく観察してるね。君はどうなの?」 叔父さんがいきなり、僕に振ってくる。

「えっとー…  彼女と同じかな?」

「オイオイ、人物観察は小説を書く以前の話だぞ。人の出てこない小説なんてある? 目の前にいる人物を言葉で説明できないと、文字にできないだろう?」

 おっしゃるとおりですが、一瞬のことで覚えていません。言い訳ですが…


「まあ、いいか。地方から出て来たばかりだしな。街に出て、通りを行き交う人を観察をしてみなさい。東京はいろいろな人がいるから、まず容姿を観察してその人の仕事をイメージし、どんな生活をしているのかを想像して書き出してみるんだ。じゃあ、おやすみ」

 叔父さんは階段を上り、2階に消えた。

 結局、ソファで消えた女の子に心当たりがあるのかないのかも分からないまま。


 宙ぶらりんな気持ちで彼女の方に目を向けると、彼女は手帳を閉じて嬉しそうな顔をしている。高校生の頃は『叔父さんのアドバイスメモ』をノートに書いていたが、最近はシステム手帳に書いている。本人に聞くと『常にアップデートは必要よ』とのこと。システム手帳を使うと賢くなれるの?


「エムくん、良かったね。さっそく叔父さんから課題が出たよ。私もエムくんの投稿小説を読んでいて、人物描写が少し足りないかな?と思っていたところなの」

 たった今まで消えた女の子に驚いていたのに、変わり身の早さ。

 人物描写のご意見は有り難く賜ります。人のことを掘り下げるのが苦手なのは自覚しています。


「そうだ! 明日は天気が良くなるって天気予報が言っていたから、人物観察に出掛けようよ。どこにしようかな? 渋谷? 新宿? あの辺はいろいろな人が盛りだくさんだから… そうね、スタートは銀座にしましょう。銀座四丁目の交差点WAKO前。文豪を目指すスタートに、ふさわしい場所よ」

 去年、彼女は大学生で文壇デビューを果たすとか言ってなかったっけ?東京に来て、またハードルを上げていますが、大丈夫?


「ここで消えた女の子は?」気になる僕は、濡れたままのソファを指さす。


「消えてしまったものは仕方がないわ、縁が無かったということで。それよりも引越し荷物を片付けましょう。明日は朝から人物観察だから今日中に片付けを終わらせないと」

 割り切りが良いというか、気持ちの切り替えが早いというか、だからいつも彼女に振り回されるんだ。




【段ボール箱】


 居なくなった女の子と、寝てしまった叔父さんのことはさておき、彼女と僕は1階フロアに積み上げられた引越し荷物の段ボール箱を、自分たちの部屋へ運び始めたんだ。細かく言うと僕が彼女の荷物を1階から5階まで運び、彼女は部屋のお掃除。


 初めてこのオンボロビルに辿り着いた日、玄関扉に叔父さんの字で『海外出張で不在』の張り紙。 彼女も僕も驚いたし、今日泊まるところをどうしよう?と相談しながら扉に寄りかかると、玄関が勝手に開いたんだ。叔父さんの不用心さを心配しながら、彼女と僕がビルの中に入り探索を始めたら、上の階、特に5階の部屋がとんでもない状態だった。蜘蛛の巣が張られているくらいなら驚かないけど、魔窟?

 実際に、それらしきものも出て来たから魔窟だったのかもしれない。身の危険を感じるものは何とか追い出したけど、部屋の汚れはその時のまま。


 そんな部屋だったから、掃除を買って出てくれた彼女には感謝したけど、2人分の段ボール箱の運び役になった僕の方が、もっと大変だということにあとで気がついた時には遅かった。

 とにかく彼女の荷物が重いんだ。気をつけて運ばないとダンボール箱が壊れそう。運送会社の人が、よくここまで壊さずに運んで来たなと感心する重さあとで、中に何が入っているのか聞いてみよう。 いや、聞かない方が良いのかも知れない。


 彼女が自分の部屋を5階に決めた理由は、彼女なりの蘊蓄うんちくを聞かされたけど、ココでは省略。


 段ボール箱を彼女の部屋と自分の3階の部屋に全部運び終わると、外はすっかり日が暮れて、開け放っていた窓から時折、春先の冷たい風が吹きすさぶ。

 彼女も僕も疲れ果て、これから段ボール箱の荷ほどきが待っているのかと思うと気が滅入る。1階のソファでダラッとしていたら、ひと寝してサッパリした様子の叔父さんがホールに降りてきた。色つきセルフレームを掛けているから表情は分からないけど、足取りは軽く鼻歌を歌っている。


「一応、荷物は片付いたみたいだな、腹減らない?」

「おなかは空いたけど、疲れて動けません。部屋の片付けも、まだだし」

 彼女は寝そべったソファから起きる気配もない。

「じゃあ、ピザでも取るか? ささやかな歓迎会をしてあげるよ」

 叔父さんはスマートフォンでピザ屋にオーダーしたあと、バスルームに入ってシャワーを浴びはじめた。


 そのあいだ、彼女と僕はボーッとしたまま。

 しばらくするとバイクの排気音がして、玄関の呼び鈴が鳴る。ピザ屋のデリバリーが届いたようだ。叔父さんがバスルームから出てこないので、僕が重い腰を上げ玄関へ向かう。

「お待たせしました。量が多いのでこの箱でお渡しします」

 配達員が渡してきたのはピザの箱ではなく、ピザ屋のロゴが入っている、さっきまで格闘していた段ボール箱と同じ大きさの箱。


「合計で2万円になります」

 エエッ! 叔父さんは何をオーダーしたの? とは言え『いりません』と言う訳にもいかず、ピザの入った段ボール箱を玄関口の棚に置いて、東京に出てくるとき餞別に貰ったお小遣いから1万円札2枚を用心しながら配達員に渡す。

 叔父さんは払ってくれるよね?


 ピザが入った大きな箱をホールに持ち込むと、バスローブを羽織り、頭にバスタオルを被った叔父さんが姿を現した。色つきセルフレームを掛けている。

 あれは叔父さんの身体の一部なのか?

「立て替えておきました」

「じゃあ、あとでね」

 ホントに払ってくれるのかな? 悪い予感しかしないのだけど。


「君たちの部屋も決まり、合宿所のスタートだ。入所おめでとう!」

 叔父さんは僕が立て替えたピザ屋の箱からビールを取り出して、プルタブを引き起こしビールを飲み始める。アルコールも頼んだから支払いが多かったのか。


 それから疲れ果てた彼女と僕、ひと寝して元気になった叔父さんの3人で、ささやかな歓迎会が催されたんだ。叔父さんが次々にビールを開け、ワインを箱から取り出してボトルごと飲み始め、時々彼女がホールからいなくなるのが気になったけど、3人には多すぎる量のピザとサイドオーダーを僕はウーロン茶で流し込み、途中から疲れと満腹感で眠気が高まり朦朧もうろう となって、何とか自分の部屋までたどり着いたところまでは覚えているけど、荷ほどきをしないまま段ボール箱の上で寝てしまったようだ。

 段ボール箱運びの疲れで朝まで熟睡したみたいだけど、夜中に階段の足音が聞こえたり、人の声がしたのは夢だったのかな?




【日本食派】


 翌朝、段ボールベッドならぬ段ボール箱の上で寝ていたら、スマートフォンの呼び出し音で起こされた。

「おはよー、朝ごはん出来たよー」

「うぅん? 朝食があるの」

「降りてくれば、分かります」

「降りていくけど…(ツーッ、ツーッ)」

 彼女との通話は切れた(切られた)ようだ。


 僕の部屋がある3階には水回りのものが完備されておらず、着替えとタオル、トラベルセットを持って1階へ降りて行く。

 ソファが点在するホールの中央から少し離れたところに、以前はダイニングテーブルだったかもしれない古びた作業台の上に、おにぎりと卵焼き、御御御つけおみおつけが置いてある。

 食べて良いのか迷っていると、彼女が玄関から戻って来た。

「朝からどこかへ出かけたの?」

「エムくんは、お寝坊さんね。もう9時過ぎよ。早くご飯を食べて『人物観察』に出かけましょう」 僕の問いには答えず、今日の予定を確認する彼女は、いつもの通り。

「人物観察?」

「忘れたの?」

「昨日、叔父さんが出した課題だろう。銀座に行くんだっけ?」

「エムくんの起きるのが遅いから、お昼になっちゃうよ。食べ終わったら直ぐに出掛けるから、よろしくね」

 彼女が軽快な足取りで階段を駆け上がる。

 スウェットの上下とスニーカーだったから着替えをするのかな。

 それにしても、おにぎりと卵焼き、御御御付けとは。

 彼女は日本食派なの?


 急いで朝食を食べ終わり食器を片付けて、バスルームへ向かう。 バスルームの鍵を掛けてシャワーを浴び、歯を磨く。

 このオンボロビルの何が一番不便かというと、今までは叔父さんが一人で住んでいたから、これで良かったのかも知れないけど、三人で住み始めてもバスルームが1階にしかないこと。元々、会社が使っていたビルだから各階にトイレはあるけど、そのあと叔父さんが住居用に改造したためか、トイレ以外の水回りが1階にしかないんだ。彼女が長風呂しないことを願うばかり。

 昨日はあれからシャワーでも浴びたのかな? 朝から清々しい美少女スマイルだったけど。


 バスルームで服を着替えホールに入ると、オリーブ色のセーターワンピースにオフホワイトのレザージャケットを羽織り、濃いブラウンのショートブーツを履いた彼女がソファに座り、スマートフォンに何かを打ち込んでいた。

 バスルームから出てきた僕に気がついて顔を上げ、格好をチェックするように眺めている。

「エムくんは朝からマイナス2点です。プラスになるように頑張って下さい」

「どういうこと?」

「今朝の行動のペナルティです」

「僕の行動?」

「そうです。まず寝坊、それから昨日外出を決めたのに、見たところ何も準備をしていません。その格好で銀座に出かけるつもり?」


 寝坊は言い訳しないけど、格好はシャワーを浴びたばかりだから、ジャージとパーカーなのですが。説明するのも面倒なので『着替えてくる』と言い残し、3階の部屋まで階段を駆け上がる。階段を上る途中の2階はシーンと静まり返っている。叔父さんはどこかへ出かけたみたいだ。

 自分の部屋に入って愕然とする。まだ引越しの荷解きをしていなかったんだ。 仕方がないので、引っ越すときに着て来たピージャケットとハンガーに吊るしたままの厚手のコットンパンツに着替え、上京前に買ったハイカットのスニーカーに履き替えて、急いで1階に降りて行った。




【人物観察】


 彼女と僕は、春の風がかすかにそよぐ陽当たりの良いベンチでボーッとしていた。正確にいうとボーッとしているのは僕だけで、彼女はスマートフォンに何かを忙しく打ち込んでいる。

 ココは、30分に一本しかバスが来ないバス停。

 まさか東京の公共交通機関が、こんなに不便だとは思わなかった。ベンチの前を時々、見たことのない外国のクルマが通り過ぎる。知らないクルマが通り過ぎるのを見ていると、やっぱり東京なんだなとは思う。バスを待つ僕たちには不便だけど。


 バス停の時刻表と同じ時刻に、乗客が数人しか乗っていないバスがやってきた。 なるほど、乗る人が少ないから30分刻みなのか。彼女が先に立ってバスに乗り、僕は2人分の折りたたみ椅子を持ってバスに乗り込む。

 合宿所という名のオンボロビルから出掛けるとき、玄関の外に折りたたみ椅子が置いてあるのに気がついた。「エム君、よろしくね」 彼女から目的語の無い依頼を受けたけど、その視線を見れば言わずもがな。僕は「了解」とだけ応え、2脚の折りたたみ椅子を担いでバス停まで辿り着いたんだ。


 出掛けたのが中途半端な時間だったのが良かったのか、バスと地下鉄を乗り継ぐ銀座までの道程みちのりは、車内が空いていて折りたたみ椅子を運ぶのが邪魔にならなかったのは幸い。

 地下鉄銀座駅に着くと、彼女は迷うことなく銀座四丁目の交差点口から地上に出て、あたりを見回す。

「日曜日だから、ちょうど良いでしょう?」

 そうか、今日は日曜日か。

 大学が始まっていないから、曜日の感覚が分からない。長い春休みが続いている。このままずっと休みだったら良いのに。


 歩行者天国の道路に折り畳み椅子を開いて、人物観察を始めることにする。

 持ち込みの椅子なので、気をつけて歩道に置き、歩行者天国を歩く人たちの人物観察をスタートする。


 銀座を歩く人たちを見ていると、うしろから見られている気がする。

 誰かが見ている? 誰? 少し気になるが、隣に座る彼女がシステム手帳に黙々とメモを書き留めているので、気にしないことにした。

 相変わらず、こういう時の彼女の距離は近い。

「椅子、少し離そうか?」

「エムくん、私のこと避けているの?」

 滅相もありません。美少女(大学生になったから美女? ちょっと違う感じもするけど)が隣に座っているだけで、誇らしいです。

 彼女のことを見ながら通り過ぎていく人も多い。


「いや、折り畳み椅子に並んで座っていると、交通量調査をしているみたいだなと思って」

「それ、いいんじゃない。次からカウンターと腕章も持ってこようよ。(どこにそんなものがあるの?) そうすれば、どこに椅子を置いても怪しまれないよ。皇居の前でも大丈夫」

 彼女は皇居がトラウマにならなかったの? 受験の時、あんな酷い目に遭ったのに。


「それとね、一人で座っていると変なおじさんが声を掛けてくるから、エムくんはその防波堤。気にしなくて良いからね」

 なるほど、人ではなくて防波堤ですか。了解です。

 彼女は口を動かしながらも、目に付いた通行人を素早く見取り、システム手帳にその人物の特徴をメモしている。僕はたまに珍しい人(そんなカッコウをして恥ずかしくないの?みたいな人)を見つけて、たまにメモをする程度。しばらく人物観察を続けていると正午を過ぎ、どこからともなく食欲をそそる匂いと共に数台のキッチンカーが現れた。


「エムくん、お腹空かない?」

「少し空いたかな」

「ノリが悪いなぁ。健康な男子だったら『腹減ったぁ、メシは? メシはどこ?』って言うでしょう?」

 そうか、彼女は一人っ子で、同い年の男子を高校のクラスでしか知らないから、その発想は小説かアニメの受け売りだね。部活にも入っていなかったし。僕たちの世代がみんな腹っぺらしだったら、外食産業がもっと儲かっているはずだけど。

「じゃあ、どこかへ食べに行く? 銀座は初めてだからお店は分からないけど」


 待ってましたと言わんばかりに『仕方がないなぁ』という顔をしてから、美少女スマイルを見せつける。彼女は顔の表現が豊かで、コロコロと表情が変わる。思わず見とれていると、だんだんと目元が険しくなる。

「ナニ? ボケーッと人の顔を見ているの! お昼ごはんをどこで食べるのか?でしょう。エム君がノーアイデアなのはお見通しよ。ほら、どのお店が良いと思うう?」

  彼女がシステム手帳の中から、折り畳んだ紙を取り出す。

 渡された紙を開いてみるとA4サイズに印刷された銀座マップに、手書きでお店とその情報が書き込まれていた。




【ただいま休憩中】


 彼女が地図に書き込んでいるお店の情報は、本好きの人が見たらすぐに分かる、小説家に関わるお店の数々。

 地図に書き込んでいるお店の名前と小説家との由来を読んでいると、彼女が横から覗き込んでくる。

 やっぱり距離が近いんだけど。彼女はパーソナルスペースを気にしないのかな。


「どう? エムくんは昨日の夜、すぐに、お眠ねむだったけど私はあれからその地図を作ったのよ。凄いでしょう?」

 昨日はあんなに疲れていたのに、この地図を作ったのは凄いと思うけど、よく見ると銀座のお店は2〜3軒だけ。あとのお店は地図の外に書かれていて、銀座の地図に書き込んだ意味はないと思うけど。

 僕が微妙な表情をしているのに気がついたのか、彼女は地図を取り上げて説明を始める。

「思いついて作り始めたけど、文豪が通った銀座のお店はあまり残っていなかったの。少し範囲を広げてネットで調べてみたら、いろいろなお店が紹介されていて、面白い逸話も読めたから、余白に書き足したわ」

 新橋や浅草は近くだから分かるとしても… だから新宿のお店も出てくるのか。

 この地図のことは分かったけど、結局、お昼はどこへ食べに行くのかな?


「エムくんの表情は分かりやすいなぁ。今、どこへ食べに行くのか分からなくて途方に暮れたのでしょう?」

 はい、正解です。

 彼女が真面目に人物観察をやった成果です。途方には暮れていませんが。

「エムくんの初めての銀座到達記念に、お店を予約しました」

「わざわざ、予約を?」

 銀座が初めてではないことは、あえて話さなかった。

 あの時は深夜で、バタバタしていて余裕がなかったから、彼女も自分がどこに居るのかを考える余裕が無かったのだと思う。

 それよりも予約が必要なお店に入る格好を、してこなかったのですが。

「予約したといっても、普通の洋食屋さんだから、緊張しなくても大丈夫。さあ、行きましょう」

「これ、どうするの?」

 自分たちが座っている折り畳み椅子を指差す。

「大丈夫。ちゃんと持って来ました」

 椅子から立ち上がった彼女は、肩下げバッグの中から折りたたんだ紙とセロテープを取り出して、椅子の座面に貼りつける。


『ただいま休憩中』


 僕もそれを見て立ち上がり、紙とテープを借りて椅子に貼り付けた。

 なるほど、彼女らしく用意周到。

 紙を貼り終わると、彼女は歩行者天国の車道に駆け降りて歩き出し、振り返って『こっちこっち』と両手で手招き。

 彼女の身振りが大きいので、近くを歩いている人たちが彼女を見て、その視線の先にいる僕を見ている。

 みんな、そんなにがっかりした顔をしないで欲しいのだけど。


 彼女に追いつき、初めて銀座の歩行者天国を歩いてみる。

 国道1号線中央通り、道幅は広いが両側に立ち並ぶビル群が壁のように続いている。

 しばらく歩くと、彼女が思い出したように急に左に曲がり、脇道へ入っていく。

 追いかけるように、その脇道を入って行くと両側のビルがますます高い壁のように感じられ、4月の昼間なのに陽も差さず、夕方のよう。

 先を行く彼女に、急ぎ足で追いついて聞いてみる。

「予約したお店がこの辺にあるの?」

 彼女を見るとスマートフォンで誰かと話をしている。

 チラッと僕の方を見てから「はい、もうすぐ着くので、よろしくお願いします」と応えて通話を切った。

 スマートフォンをジャケットの内ポケットに仕舞ってから、僕の方を向く。

「お店を予約した時間を過ぎたから、電話をしたの」

「じゃあ、急がないと」

「大丈夫。今日、お店は空いているそうよ」

 彼女は歩行者天国から入った脇道、更にそこから右に折れ細い路地へ入って行く。

 銀座にもこんな通りがあるんだなと意外に思う。

 その路地は薄暗く、クルマが通れないくらい細い。商売をするのに不便じゃないのかな?

 そんなことを考えながら、路地に並ぶお店の見慣れない看板の文字を読みながら歩いていると突然、彼女にぶつかった。


 正しく説明をすると、急に立ち止まった彼女の肩甲骨部分と腰のあたりに、前を見ていなかった僕の身体が接触した。

「ゴメン」

 振り向いた彼女がニヤッとして宣う。

「エムくんは、薄暗くなると襲ってくるタイプなの?」

 それって、犯罪者じゃない?

 18歳を過ぎたら改正少年法で刑が厳しくなるので、そんなことはしません。18歳未満でもしないけど。


「銀座にも、こんなところがあるんだなと、ついよそ見をしていただけです」

 不慮の事故なのに、言っている自分が言い訳がましい。

「その『こんなところ』にあるお店に着きました」

 彼女が指差す先には、木製の古びたお店の看板。


『煉獄亭』




【煉獄亭】


「なんだか物騒な名前のお店だね」

「『煉獄亭』が?」

「だって、お店のなかで焼かれそうでしょう?」 もしかすると、髪の毛が炎になったりして。


 彼女は訝しげな表情の僕を見て、顎をクイっと上げて得意げな顔をし、右手の人差し指を左右に振りながら「チッチッチ」と効果音を付け加える。

「エムくんは、キリスト教のことを知らないの?」


 うちは代々、仏教徒ですが、何か? 自分の家がどこの宗派なのかも知らない、葬式仏教ですが。

 僕が、どう答えようかと考えていたら、彼女が胸をそらすようにしてこちらを向く。去年の秋から彼女と一緒にいる時間が増え、彼女の癖も分かるようになってきた。このポーズは、これから彼女の講義が始まる時間。お店の予約時間を過ぎているけど大丈夫? こんな路地裏で講釈を聞かされるの?


「では、エムくんの後学のためにもお話ししましょう。そもそも煉獄というのは、カトリック教会では天国に行けなかったけど地獄にも墜ちなかった人が行く中間的なところとされています。苦罰によって罪を清められた後、天国に入る手前のところという位置づけです」

「ふーん、要は中途半端なカトリック教徒が亡くなったら、天国に行く手前で足止めされているところ?」

「中途半端っていう言い方はどうなのかな? とにかく天国でも地獄でもないところよ」


 彼女も詳しくは知らないらしい。意地悪をしてもう少し質問をしようと口を開き始めたところで『煉獄亭』のドアが開き、赤毛のカールされたセミロングに赤いセルフレームを掛け、バブルスの厚底を履いたメイド服姿の小柄な女の子が、お店から出てきた。

 パリッとしたブラウスの胸元がキツそう、生地がパンパンになっている。このお店の制服? 彼女は洋食屋さんに行くと言っていたよね。メイドカフェ?

「失礼ですが、ご予約のエム様でしょうか?」

 メイド服姿の女の子が彼女に聞いてくる。

「はい、エムの名前で予約した2名です」

 彼女が僕の名前を使ったのかな? なぜ自分の名前を使わなかったのだろう。


「お待ちしておりました。よろしければ、お入りください」

 彼女とメイド服の女の子を交互に見ていたら、彼女から腕を引っ張られた。


「エムくん入ろ、入ろ。私、朝が早かったから、お腹が空いたの」

 そう言えば彼女は今朝けさ、どこかから帰ってきたみたいだけど、どこへ行っていたのだろう。

「エムくんの名前で予約をしたから、今日はエムくんが主役よ。遠慮せずに入って、入って」

 主役と言っても彼女と僕の2人だけだから、主役も何もないと思うけど。それを突っ込むと、彼女からまた『細かい』とか言われそうなので引っ張られた腕をそのままにして、お店の中に入って行った。




【メイド服の女の子】


 お店の中に入るとそこは、古めかしいが普通の洋食屋さん。

 4人掛けと2人掛けのテーブルが7~8つあり、テーブルにはチェック柄のビニールクロスが敷かれてある。普通ではないのは、店内に誰もいないこと。ランチタイムが終わったからなのかも知れない。

 入口で店内を眺めていると、メイド服の女の子が「どこでもお好きなところへ」と言うので、窓際のテーブルを選び彼女に確認をして腰を下ろす。


「エムくんは窓際が好きね」

「初めてそんなことを言われたけど」

 ゴルゴ13ではないからレストランの席なんて、その時の気分。

 狭い路地にあるので、本能的に外に近い場所を選んだのかも知れない。

 古い作りの、このお店は火が出たらよく燃えそう。


「そう? あの時だって、窓際の席を選んだでしょう?」

 あの時って、どの時? うーん、思い出せない。彼女と、どこへ行ったときのことだろう。

 記憶の紐をいくつか選んで引っ張り出そうとしていると、メイド服の女の子がトレイにグラスと氷水の入ったデキャンタを載せて片手で持ち、もう一方の手に厚いメニューを持って、テーブルにやってくる。

 フロアを歩く仕草がぎこちない。ここでトレイをひっくり返したら、ドジっ子メイドに認定出来そう。


「お待たせしました」 テーブルにメニューを置き、グラスを置いてデキャンタから冷たい水を注ぐ。デキャンタもテーブルに置いて、お辞儀をしてテーブルから離れていった。ドジっ子メイドには認定出来なかったけど、その子を近くで見ていると、初めて会ったハズなのに既視感を感じる。どこかで会ったのかな?


「エムくん、あの子が気になる?」

 彼女の目は鋭い。僕がたまたま異性を見ているから、余計にそうなのかも知れない。

「見たことがある子だなぁ、と思ってさ」

「エムくんは、ああいう感じの子が好みなの?」


 ちょっと見ただけで、どうしてそういう解釈になるのかな。

「全然。あの赤い装飾品とは、一緒に歩けません」

 真っ赤に染めた赤毛と赤いセルフレームを差別しているわけではありません。好みの問題。


「フーン、それよりメニューを決めましょう。お腹が空きすぎて、倒れるかも知れない。ここのお店のお薦めは、カツレツとオムライス。せっかくだから両方頼もうかな」

「カツレツとオムライスを両方食べるの?」

 その細い身体のどこにそんなに入るの?と思いつつ、彼女が見かけの割に健啖家であることを思いだした。昨日も、叔父さんがオーダーした有り余るピザをためらわずに何枚も食べていた気がする。でも細いんだよね。裸を見たことはないけど(捕まりたくないし)、高校の体育祭でチラッと(本当にチラッと)見た体操服姿は細くてしなやかな感じ。対抗リレーに出ていたから、足は早かったと思う。食べたモノがどこかにワープしているのかも知れない。


「じゃあ、頼んじゃうね。すみませーん、オーダー、お願いしまーす」

 フロアに控えていたドジっ子ではないメイドがテーブルにやってくる。

「カツレツとオムライスを2つずつ、それと私はチキンサラダ、エムくんは?(何でも)じゃあ、カニサラダにしてサラダはシェアしましょう。スープは?(スープも頼むの?)そうね、これにスープは多いかな。以上です」

 メイド服の女の子は彼女のオーダーを書き留めてメニューを持ち、下がって行った。

 それから彼女は、午前中の課題『人物観察』の反省会を始めたんだ。




【タンシチュー】


 彼女が『人物観察』の反省会という名の、歩行者天国を歩く人たちの辛辣な講評を終え(内容は女性が着ている服の話が多かった。よく分からないけど)、壁に掛かった柱時計を見ると、お店に入ってから30分以上経っている。

 相変わらず、彼女と僕以外にお客さんはいないのだけど、もしかすると厨房の人たちがお昼休みに入っているのかも知れない。そんなことを考えていると、メイド服の女の子がトレイに料理を載せてテーブルにやって来た。調理に時間が掛かったから、味に期待しよう。


 テーブルに置かれた皿は、オーダーをしていない料理。オニオングラタンスープ? 僕が怪訝な顔をすると女の子が、申し訳なさそうに説明する。

「すみません。オーダーの調理に時間が掛かっておりまして、こちらはお店からのサービスです。もうしばらくお待ちください」

 お辞儀をしてフロアへ戻って行く。


 彼女が何か一言、何か言うのかなと思っていたら女の子の説明にうなずいただけで、見るからにボリュームのあるスープを食べ始めている。僕もお腹が空いたので、スプーンを手に取った。このスープもメニューにあったと思うけど、オーダーした料理と同じくらいの値段だったのではないのかな?


「美味しいね。これがサービスだなんて、良いお店」

「タダより高いものはない、ということわざもあるけど」

「エムくんはその辺、用心し過ぎじゃない? 叔父さんの家の合宿だって、最初はタダなのを疑ったでしょう」


 たしかに家賃がタダなのは、地方から出てきた学生にとってはありがたいけどね。でも大学の講義も始まっていないのに、この疲労感はなんなのだろう。東京に出てきてから、家賃以上の労働をしている気がする。その大半は彼女に関わることが多いように感じるのは気のせい?

 おかげで毎晩熟睡しているけど。


 サービスのオニオングラタンスープを食べ終わり、ホッとひと息ついていると、メイド服の女の子がトレイを持ってテーブルにやって来た。ようやく昼食だ。

 アレ? 女の子がテーブルに置く皿が、またオーダーと違う。

「もう少し調理に時間が掛かります。これもお店からのサービスです」

 メイド服の女の子はそれだけを言って、フロアへ戻って行った。


 なんでオムライスが出てこなくて、タンシチューが出てくるわけ? まさか残り物じゃないよね。僕がフォークでタンを突いていると、彼女はナイフで切り分けてタンを口に運んでいる。

「うん、美味しい。タンシチューは好きよ。脂質が少なくて、ローカロリーだし。でもシチューにはパンがないとね。すみませーん、パンもお願い出来ますか」


 このお店に、彼女と僕以外のお客さんがいないことに慣れっこになったのか、彼女はフロアに立っているメイド服の女の子に大声でオーダーをする。

 まるで自分の家にいるかのようだ。

 女の子はうなずいて、厨房へ入っていった。

 しばらくすると女の子がトレイを重そうに運んで来た。 ようやくオーダーしたカツレツとオムライスが出来たみたい。




【3万円】


 テーブルに置かれた料理に、また驚く。

 パイナップルが乗ったポークチャップと、彼女がオーダーしたパン。


「えっとー… これ、頼んでいませんよね?」 思わず、言葉が口に出る。

「はい、オーダーの調理に時間が掛かっており、お店からのサービスです。申し訳ありません」

 メイド服の女の子が深く頭を下げる。


「エムくん、お店からのサービスだから謹んで受けましょう。女の子を困らせてはダメよ」

 彼女の言葉を聞いて、女の子はフロアに戻って行く。

 いくらお店のサービスだといっても、彼女と僕がオーダーした料理の金額をとっくに上回っている。だんだん心配になってきた。彼女はポークチャップを器用に切り分け、肉の上にパイナップルを乗せて口に運ぶ。


「これ、サービスだよね? お金、取られないよね?」

 彼女はそれには答えず、ポークチャップを口に運んだあと、システム手帳に何かを書き込んでいる。レースのカーテン越しに見える窓の外が、だんだんと暗くなってきた。そう言えば、彼女と僕がお店に入ったあと、誰もお店に入って来ない。

 他にお客さんが来ないのは、ランチタイムが終わるギリギリにお店に入ったから?


 そんなことを考えていたら、厨房からシェフハットを被った恰幅の良いオヤジさんが出て来た。

 オイオイ、シェフが出て来て、何ごと?と思っていたら、テーブルの前でシェフハットを取り、頭を下げる。


「食材が無くなりまして… 急いで百貨店の地下で買ってきます。お店の現金を銀行の金庫に預けたばかりなので、お金を貸して頂けませんか。それをお勘定にしてもよいのですが…」


 何! いきなり?


 彼女にどうするのか聞こうとすると、彼女が先に口を開く。

「本日の主役、エムくんが決めてよ。サービスで出された料理は美味しく頂いたから、このままお店を出ても良いし、困ったシェフさんにお金を貸して食材を調達してもらい、あらためてオーダーした料理を頂いても良いのよ」


 これだけ食べておいて、お金も払わずにお店を出るのは気が引ける。 返して貰えるのなら、お金を貸そうかな? 今日のお勘定分くらい渡せば良い?


「いくらお貸しすればよろしいのですか?」

「とりあえず、3万円ほど」

「えっ!」

「お店として買う食材が僅かな金額だと、百貨店側から『あの店、危ないのかな』と思われて、いざという時に掛け払いが出来なくなりますから」


 銀座だとそういう取引もあるの? よく分からないけど。

 昨日、2万円をピザ代の立替に支払い、財布の中にまだ3万円あるけど、これで上京する時に貰った餞別が全部無くなってしまう。

 料理も美味しいし、お店が逃げるわけじゃないから貸すとするかな。


「3万円ですね。一応、借用書を書いてもらえますか?」


 用心してシェフにそう言うと、シェフはポケットから『3万円』と書かれた借用書を取り出した。

 手際が良すぎるけど…




【アドバイス】


 借用書を受け取り、3万円を渡そうとしたところで、突然、お店の灯りが全部消え、店内が真っ暗になった。

 足音がして、誰かが近づいて来る。誰?


「エムくんは優しいなぁ。都会には良い人も悪い人もたくさんいるから気をつけないとね」

 暗闇の中から叔父さんの声? どういうこと?


 しばらくして、お店の灯り点くとシェフの隣に、叔父さんが立っている。

 右手には1万円札が数枚。自分の右手を見るとシェフに渡そうとしていた3万円が消えている。叔父さんが盗ったの?


「今日は2人で人物観察に銀座まで出て来たけど、どうだった?」

 叔父さんを疑いのまなこで見ている、僕のことを気にする気配もなく、問いかけて来る。


 いきなり『どう?』と言われてもね『色々な人がいるな』くらいしか思いつかないけど、それより叔父さんの右手にあるお札が気になる。

 すると、彼女が手を挙げてから話し始める。挙手をするところは、高校生の名残り?


「日曜日の銀座、歩行者天国を歩く人たちには、あらゆる意味で幅があります。例えば年齢、例えば国籍。着ている服も様々で、耳に聞こえてくる会話もいろいろ。そんな多くの人たちを一言で『ホコ天を歩く人』とか『銀座に買い物に来ている人』とひとくくりで表現するのは難しいと感じました。今日、多種多様の人たちを眺めての実感です。ですから物語を書くとき、主人公を丁寧に書き表すように主人公の周りの人、例えば友人や家族も、小説の中に書き出すかどうかに関わらず、それぞれの設定を掘り下げて考えておく必要があると感じました」

 彼女が書いている小説をまだ読んだことはないけど、今の説明だと大作を書いているのかな?


「よく気がついたね、そういうこと。書き始めたばかりの物書きは多分に、主人公に肩入れをしすぎて突っ走る。その勢いは良いけど、周りの描写にまで手がまわらないから、読んでみるとせっかくの物語が薄い読み物にしか感じられないんだな。エムくん、分かる?」


 なんだか悔しいけど、彼女がそこまで考えていたとは。

「はい、もう少し周りのことにも注意を払いたいと思います」


「そうそう、その気持ちを忘れないようにね。では改めて合宿所のオープニングパーティーを始めようじゃないか」

「パーティーは昨晩やりませんでしたっけ? 宅配ピザで」

 立て替えたお金を、まだ返してもらっていませんが。


「昨日のあれ? あれはエムくんが、引越そばの代わりに出したのだろう? 合宿所のオープニングパーティーがあれでは、しょぼ過ぎるよ。せめて銀座でやろうよ。お店の立地はともかく、ここも銀座だからな」

 やっぱり返す気がないんだ。

 今、右手に持っている3万円は?


「今日は、私の事務所主催だ。この店を借り切っているから、遠慮しなくて良いからな」

「お店のサービスと説明された今までの料理も、その一部なのですか?」


 テーブルの向かいに座る彼女が、僕の腕をチョイチョイと指で突つく。

「エムくん、そろそろ気が付こうよ。このお店に入ってから、何か変だと思わなかった?」そう言いながら、美少女スマイルで僕の顔をのぞき込む。


「それは変だと思ったさ。頼んだランチが出てこないのに、余計な料理ばかり出てくるし。美味しかったけど」


 今度は叔父さんが僕の肩を突つく。

「変だと思ったのに、なぜ食べ続けたの?」


「それは… 彼女が気にせずに食べていたし、銀座のお店ってそんなものかなと思って…」言っている自分が、言い訳がましい。


 叔父さんは、ウンウンと言いながら口を開く。

「小説家を目指すのなら、疑問に思ったことをそのままにしたり、何も考えずに周りに同調しているとオリジナリティーのある物語は書けないよ。不思議に思うことは、まず聞いたり調べたりしないとね」


 彼女がテーブルに開きっぱなしのシステム手帳に、何かを忙しく書き込んでいる。叔父さんメモを追加しているのだろう。小説家になるためのアドバイスはありがたいけど、ちょっと待てよ。そもそも今日はどこからが仕込みで、僕はいつから騙されたの?「ご教授、ありがとうございます。一応、お尋ねしたいのですが、今日の課題とこのお店、どの辺からが演技というか、設定なのですか?」


 プッと、彼女が噴き出す。

 テーブル越しに見る姿は、目を細めて笑いを堪えている美少女の横顔。

 もしかしたら彼女は最初から全部知っていて、叔父さんとグルだったの?




【行き倒れの少女】


 笑いを堪えている彼女の横顔を、僕がいぶかしげに見ていると、彼女は右手を横に振り『違う、違う』のポーズをする。

 僕の方に向き直り、自分を落ち着かせるような仕草をしてから、おもむろに口を開く。


「ゴメン、ゴメン。細かいことは端折るけど、昨日の夜、エムくんが先に寝てから、叔父さんに今日の『人物観察』のことを相談していたら話が盛り上がって、叔父さんがよく知っているこのお店を使う方向で話に進んだの。エムくんがどう反応するのかなって」


「彼女の言う通り、ちょっとしたビックリパーティー。悪気は無いよ。去年からエムくんのことを見ていて、あまりにも素直な青年だと思ったから。このまま小説を書き続けると行き詰るのが、目に見えていたからね。少しは疑いの目も持てるように、一芝居打ってみたのさ」


 叔父さんの言わんとすることは分かるけど、なんだか腑に落ちない。

「ということは、二人で僕を騙していたのですか?」


「騙すとか、人聞きが悪いよ。同じ高校の同窓生じゃない? これも小説家になるためのトレーニングよ、トレーニング。それに、お芝居を打ったのは二人だけじゃないのよ」


「目の前にいる、シェフさんでしょう?」オーダーした料理を出してくれないし。


 彼女がまた、右手の人差し指を左右に振りながら『チッチッチ』と口で効果音を付け加える。

「一番大事な役者さんを見逃しています。さて、誰でしょう?」


 彼女から言われて、はたと気がつく。というか、このお店にはあと一人しか残っていない。メイド服を着た女の子。

「もしかしたら…」


「うん、うん、もしかしたら?」彼女が焦らす。


「もしかしたら、メイド服の彼女は、昨日の『行き倒れの少女!』」


 僕が半ば叫ぶように答えると、メイド服を着た女の子がホールの真ん中に出てきて、赤毛のウイッグをバサっと外し、赤いセルフレームを取り、胸元の苦しそうなブラウスのボタンをいくつか外した。昨日、彼女が言ったとおり、胸は大きいようだ。


「フゥー、疲れました。急にメイド服を着せられるし、サイズも全然合わなかったし…」


「ユリちゃん、お疲れさま。お水を運んでくる時は危なっかしくて、見ている方がハラハラしたわ。エムくん、どう? ユリちゃんの演技、様になっていたでしょう。 そうそう彼女、ユリちゃんっていうの」


「初めまして」

 彼女がユリと呼ぶ、小柄な少女が挨拶をする。僕も釣られて挨拶をした。


「誰が、たくらんだの?」

 キャストが揃ったので、あらためて確認しよう。


「たくらんだとか騙したとか、エムくんは意外と口が悪いのね。お芝居よ、お芝居」


 僕だけが知らなかったことを『騙す』と言うのでは?

「昨日、ユリさんが玄関で倒れるところから、お芝居を始めたの?」


「それは現実。昨日、彼女はやっとの思いで、合宿所に辿り着いたの」


「合宿所…? 僕たちが住み始めた、あのオンボロビルのこと?」


「そうよ、彼女の小説家への熱意は熱いの」


 叔父さんが振り返り、メイド姿のゴテゴテした装飾を、近くのテーブルに次々置いているユリさんの様子を見守りながら、つぶやく。

「俺も昨日の夜、彼女から話を聞かされた時にはビックリしたさ。ユリちゃんのお父さんはよく知っているし。まさか娘さんが小説家になりたいなんて知らなかったよ」


「だって父は、自分が仕事で書籍を扱っているのに、娘には『職に就ける学部に入りなさい』と言って聞いてくれませんから。合宿所の研修生になれば父も認めてくれるかなと思って」ユリさんはまだ高校生のようだ。


「今日のユリちゃんの演技を見て、小説家になれる資質を感じたよ。(演技で小説家になれるの?)研修生の3人目に加えよう。高校を卒業して、お父さんの言う通りまず大学に入ること。合宿所に入るのはそれからだ」


「分かりました。家から合宿所は遠いですが、それまでは週末に通うようにします」ユリさんの瞳が輝いている。


 待てよ? 良い雰囲気でパーティに流れ込みそうだけど、一つ思い出した。

「昨日、ユリさんをソファに運んだあと、消えましたよね? あれはどうやったの?」


「あぁ、アレね。エムくん、知りたい?(「人が急に消えたら、どうやったのかは知りたくなるでしょう?」)そっかー、エムくんにとっては謎なのね」


 それを聞いて叔父さんがニヤリとする。「良い課題が出たじゃないか。君たちが運び込んだユリちゃんが、どうやって消えて、そのあとメイド服のフロア係になったのかを考えてご覧。密室殺人ならぬ、密室瞬間移動と早変わりで小説が書けるから」


 叔父さんの合宿所は、思っていた以上に課題が出て大変だ。

 昨日と今日でお財布から消えた5万円の方が、もっと大変だけど。

 結局、手元から消えた3万円はどうなったのだろう。




【タネ明かし】


 叔父さんに、ユリさんが消えた方法を『課題』という名の謎かけにされて、思いついたことをいくつか挙げてみたが、その度、目の前に座る彼女からはテーブル越しに「うん、うん。それで?」とか「そこは合っているけど、惜しいなぁー」と突っ込まれ、叔父さんとユリさんはニヤニヤしている。


 シェフさんはパーティ料理の準備をするため、厨房へ戻っていった。

 調理用の食材は、たっぷりとあるらしい。


 テーブルに置いたままの借用書を見て思い出した。貸そうとした3万円はどこへ消えたの? 叔父さんが盗ったとしか思えないから、遠回しに聞いてみると頷きながら、こう答えるんだ。「あの時、真っ暗になっただろう? ああいうのを『全ては闇の中』と言うんだよ。推理小説を書いていて、細かい出来事の整合性が取れなくなったら、使ってみると便利だよ。謎の本題に使ったら小説として成り立たなくなるけどね」


 また、はぐらかされた気がする。彼女がまた『叔父さんメモ』をシステム手帳に書き足している。小説家も『継続は力也』なのかも知れない。3万円は有耶無耶うやむやのままになるのかなと、半分諦めかけていたら叔父さんが歩み寄り、僕の肩に手を置いて顔をのぞき込む。


「昨日の立替も覚えているよ。今日の分と合わせて(やっぱり盗ったんだ)合宿所の敷金ということにしておくから。君たちを入居させるために、いろいろお金が掛かったんだから5万円なんて安いものさ」


 敷金だから、いずれ返してくれるんだよね? でも僕たちが、あのオンボロビルに入るために、何か手を掛けたようには見えないのだけど。


 そのあと、ユリさんが消えた方法と、このお店でメイド姿になるまでの過程をいくつか挙げてみたけど、『正解』は貰えなかった。叔父さんは、お手上げ顔の僕をからかい、彼女とユリさんはニマニマしながら、シェフがようやく出してくれた最初にオーダーしたカツレツやオムライス、それにパーティー料理のエビフライや唐揚げ等々、洋食屋さんの料理を楽しんだ。


 謎が解けない僕は悶々としながらも、出てきた料理が美味しかったので、それなりに満足したんだ。叔父さんは最初からビールを飲み、途中からワインのフルボトルを昨夜と同じようにラッパ飲みし始めたから、そのあとはグダグダ。

 日曜日の銀座裏通りは昼間以上に暗く静まりかえり、高校生のユリさんもいるので合宿所のオープニングパーティーもお開きになった。

 合宿所所長のはずの叔父さんが寝ちゃったから、お終いにしたのだけど。


 お店のシェフさんが叔父さんの面倒を見てくれるそうなので、お店で散会にして、ユリさんは自宅へ、彼女と僕は合宿所に帰ることにした。

 お店の外に出ると看板の横に交通量調査、いや人物観察に使った2脚の折り畳み椅子が置いてある。

 彼女も折りたたみ椅子に気が付き、僕の方を向いて美少女スマイル。「エムくん、よろしくね」

 ハイハイ、分かりましたよ。来た時と同じように僕が担げば良いのね。


 日曜日の遅い時間だったので電車の中は空いており、座って帰ることが出来たけど、バスに乗る段になって時刻表を見て驚いた。

 終バスが終わっている。


 駅に何台かタクシーが止まっているけど、5万円が消えたから僕のお財布は空っぽ。彼女に聞くと彼女も小銭しか持ち合わせがなく、キャッシュカードはオンボロビルに置きっぱなしらしい。彼女は東京でカードを持ち歩くとスキミングされて危ないと宣うが、あのビルに置きっぱなしの方が危なくない?


 仕方がないから、オンボロビルまでの長い道のりを、彼女と僕は歩いて帰ることにした。日付が変わる前になんとか玄関へ辿り着いたけど、折り畳み椅子を担いでいたから身体のあちこちが痛い。ビルに辿り着くまでの道すがら、彼女からユリさんが消えたタネ明かしを聞けたのが、唯一良かったことかな。


 でも歩行者天国に置いたままの椅子が、お店に届いていたのは謎のまま。

 叔父さんの言う通り『全ては闇の中』なのかも知れない。


(突然の来訪者:了)

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