第四十四節

 叛乱軍にはかつて、六千近い兵が参集していた。

 中でもアリーが直接統率する主力はおよそ四千人を数え、残る二千は各拠点の守りと輜重しちょう兵として各地に分散していた。

 彼らはこのうち主力の殆どを率いて出撃し、伏兵の罠に嵌った。

 アリーは辛うじて虎口を脱したものの、副将フサインは討死。他にも数多の兵が未帰還となった。この夜戦で討ち取られた者と焼け死んだ者は両者合わせておよそ八百人。更には七百人近い兵が降伏した。フェデリコは更に、副将ルートヴィヒを代将として精鋭を与えて砦を奇襲させ、最前線に位置していた叛乱軍の砦を陥落せしめていた。

 これにより、戦場を個々に脱した兵士の多くが本隊への合流を諦め、夜が明けるまでに数百人が離散した。また本隊とは別にある程度の統率を維持していた五百人程度の部隊も、やむなく近隣の廃城へ逃げ込んだが、フェデリコが立てた軍使の前に戦況を絶望視して降伏した。

 アリーら叛乱軍本隊は第二の砦を目指したが、ヘルマン率いる騎兵隊に追撃されて兵の脱落と投降が相次ぎ、また進路を妨害されたためにやむなく最奥地にある後方拠点へと逃げ込んだ。

 ここへ辿り着いたのは僅かに六百人弱。

 後方ということで多数の非戦闘員が避難していながら、その防御は心もとないものだった。兵たちは皆疲れ、アリー自身もまた疲れていた。それでも彼は瞳になお闘志がたぎらせ、傷だらけの身体を引きずるようにして兵士たちを元気づけて回っていた。

 兵士たちは、その時だけは俯く顔をあげ、力ない笑顔で頷いたが、それも一時の空元気に過ぎなかった。アリーが立ち去り際にちらりと見やると、彼らは先ほどまでと変わらぬ様子で俯いている。


(士気は払底した)


 アリーは敗戦を悟りつつあった。

 モリーゼ伯の軍勢が今どこまで迫りつつあるのか、彼らには情報が入ってこない。食料はもって五日。だが彼は既に、疲れ果てた兵士たちに腹いっぱい食わせるよう指示を出していた。せめて食わせぬことには、彼らには立つ気力もなかったからだ。

 食わずのままでも数日くらいは、何とかなる。だが迫るフェデリコの軍勢を前に、腹をすかせた兵でどれほど戦えるというのだろう。それとも、避難民らの食料を取り上げればもう数日は持つだろうか。


 それでは外道だ。一瞬頭に浮かんだ考えを、反射的に振り払った。

 彼らに残された選択肢は二つだけ。モリーゼ伯の到来を願いつつ飢えを厭わず籠城を続けるか、あるいは。


(打って出る、か)


「アリー殿!」


 彼の逡巡を遮って、兵士が駆け込んできた。


「敵です! 奴らの軍勢がすぐそこに!」

「馬鹿な、早すぎる!」


 彼は兵士を伴い、急いで物見櫓へ駆け上っていった。

 防備を固めるための木材を伐採して禿げ上がった山の稜線に、赤地に金の刺繍で鷲の描かれた帝国旗が翻る。更には彼に従うドイツ騎士団やその他諸侯の戦旗が次々と風にたなびき、殺風景だった禿山は瞬く間に絢爛なタペストリーへと姿を変えた。


「奴ら、他の砦を無視してここまできたか」


 であれば考えられないことはない。

 他の防御拠点にも叛乱軍は一定数の兵を置いていた。だがそれらが逼塞しているならば、アリーたちが逃げ込んだこの拠点を直接突くことは十分可能だからだ。


(ならば、他の拠点の兵力はまだ無事だ)


 撤退を促した急使が辿りつけて、彼らが上手く脱出に成功すれば、まだ望みがある。村々を回って食料を調達し、こちらへ運び込むこともできる――しかし、彼の胸中に灯った期待の火は、そのまま煙となって消えてしまった。

 王国軍の陣を割って、数名のムスリムたちが数名歩かされてきた。後ろ手に縛られた者、手足を自由にしている者は様々だったが、その後ろには戸板に縛られた死体が続いた。

 数は多くない。全部で八名。けれどアリーは、その顔の全てを知っていた。

 彼らはいずれも各拠点に配置した守将たちだった。降伏したか、戦って囚われたかあるいは討たれたか、そのいずれにせよ、アリーたちは自らが孤立無援であることを知った。動揺する兵士たちから、今度はざわめきが上がった。


「俺の母親だ!」


 誰かが指さして叫ぶ。それを皮切りに、親族を探す者が相次いだ。

 更には騒ぎを聞きつけ、拠点に匿われていた避難民たちまでもが詰め掛けて稜線に目をこらす。彼らの多くは親族を見つけられなかった。それでもなお、大勢が物見櫓や岩山の上から様子を伺った。

 彼らの瞳に宿ったのは里心と、膨らんでいく不安だった。なぜ郷里に残された家族を並べたのか。それが人質であるならば、彼らは降伏か家族の死を選択せねばならなくなる。固唾を呑んで見守る彼らを抑えるため、アリーは叫んだ。


「フランクの王よ、アプーリアの子よ! 答えよ、貴様は何を謀るか!」


 アリーの虎のような唸り声が山々に木魂する。

 王国軍の隊列が割れ、フェデリコが歩いてきた。彼女は戦装束にシチリア王の冠と衣をまとい、自ら旗を掲げて現れた。その足が兵たちの間を抜け、守将たちに並んだ。だが彼女は足を止めず、並べられた家族らの間に分け入り、そこをも抜けてただ一人で籠城側に対峙した。

 その旗が傍らに突き立てられて揺れた。


「シチリア国王フェデリコである。私は諸君らに、今一度同じ屋根を頂くことを求める」


 静かな、けれど不思議と人の意識を引く声。


「王として、私は諸君らに次のことを約束する」


 約束。フェデリコは、降伏という言葉を使わなかった。同じ屋根を頂こうと言う。その王が、求めるよりも前に約束を口にする。


「叛乱の罪を許し、武器を置いた者、罪を犯さなかった者を誰一人傷つけない」


 フェデリコは続けて、最初に砦で殺された彼らの首領の名を口にした。


「イヴン・アッバードはその罪を無とする。彼は正当な裁判を受けられず殺されたため、その理非が明らかではないからだ」


 そこで一度、言葉を切った。

 イヴンの死が誰かの策謀であればどれほど簡単な事だったろう。悪いのは彼らであって、私ではないと言えれば、どれほど楽であっただろうか。

 だがハフサが残したものに、その証拠は無かった。彼らの反抗心を焚きつけてはいても、殺害に直接の関与があったかははっきりしなかった。

 イヴンの死はおそらく明らかにならないだろう。砦にいた兵は皆殺しにあい、死を知らせた少年は兵となりあの夜戦で行方不明になったと聞かされた。もはやイヴンが死したる時に、その場にいた者は誰一人として生きていなかった。


 あるいは仮に、彼らが殺害を指示していたとしても、フェデリコの言葉は変わらなかっただろう。事件が無ければ、この叛乱は起きなかったかと問われれば、そうかもしれない。だがその背景にあった抑圧と貧困までもが無かったことにはならない。

 事件は、火種に過ぎなかった。燃料は既にうず高く積み上がっていた。長年に渡る不均衡が彼らを抑圧し、戦乱が拍車を掛けた。だからフェデリコは、たとえそれが徒労と空約束になる可能性があるとしても、それを断言せねばならなかった。


「彼が殺された経緯を明らかにするため、諸君らの中から司法官を選んだ。必要に応じ、この数を増やしてもよい」


 どういう事かと、兵士たちの誰もが疑問を覚える。

 だがその気配が渦となるよりも早く、フェデリコは背後の捕虜や家族らを指し示した。


「これまでに述べた約束は、彼らを以てその証とする。望む者あらば、この中から見知ったる者を呼ぶがよい。私はその者に、諸君らの砦へ駆け込むことを許す。私の言葉が真実か否か自由に確かめよ」


 しんと静まり返る山。砦ではアリーの部下が傍らに近付き、様子を伺う。

 彼はじっと黙っていたが、静かに部下に頷いた。やがて、家族を見つけた兵士の中から名を呼ぶ声が聞こえ、十数名が砦へと駆け寄り、門の中へと迎え入れられた。

 はたしてフェデリコの言葉に偽りは無かった。城内の兵士たちは降伏すべきか戦うべきか声を落として語り合う。けれども彼らとて、敗戦と苦しい追撃を耐えてここまで辿り着いた者たちだ。彼らの多くは戦うべきと主張した。自らの命を惜しむ者はなお少なかった。


 アリーはその輪には加わらず、じっとフェデリコを睨んでいた。

 フェデリコもまた身じろぎひとつせず砦を見つめていたが、彼女はやがて、城内のざわめきがひと段落したのを感じて言葉を続けた。


「私は、新たな街を建設し、移住を望む者全てにこれを認めると約束する」


 唐突なその話に思わず呟くアリー。


「街だと……?」


 だがフェデリコの提案は、それだけに留まらなかった。


「私は新たな街において、諸君らの一人一人に新たな土地と仕事を与え、国の為に剣を取る名誉を許す。また諸君らの信仰イマーン平穏サラームを保護し、諸君らが望む法学者ウラマー領主アミールを認める」


 砦からどよめきが上がった。

 幹部も兵士たちも、皆唖然として周囲の者と顔を見合わせた。


「嘘だ!」


 兵の誰かが叫んだ。


「王の偽りだ! 我らはずっとずっと、謀られてきたではないか!」


 彼は怒りを露に木の城壁を殴りつける。周囲の兵士たちは曖昧な態度をみせた。皆その怒りは痛いほどに共有していた。けれどもそこに示されたものこそは、正に彼らがずっと求めてきたものではなかった。

 それだけに、怒れる兵士は我慢ならなかった。

 敵の慈悲と寛容を喜びたくなどなかった。それでは苦しみ、殺されてきた者たちが報われないではないか。彼は腰の弓を取ると、咄嗟に矢を番えた。誰も止める間が無く、弦から指が離れる。


「っ……!」


 フェデリコは身じろぎひとつしなかった。

 その鏃が首を掠め、赤い血がぱっと飛び散って伝わった。

 背後の軍勢が一斉にいきり立つ。彼らは剣に手を掛け、口々に吠え猛った。


「貴様ら異教徒が!」


 ただでさえ寛大過ぎる条件に彼らは不満だった。怒りならば彼らにもあった。おまえたちだけが苦しいとでも思うのか。それが偽らざる本音だった。

 それだけに、王へ弓引かれたことは彼らの最後の我慢を断ち切らんばかりだった。


「鎮まれ!」


 フェデリコの鋭い咆哮が、彼らをあと一歩で押し留める。

 フェデリコが顔をあげる。彼らが同じく空を見上げると、そこには一頭の鷹が上空を旋回し、出来事の全てを睥睨していた。


「鷹のしたことだ。罪に問うな」


 フェデリコは赤く染まった首筋を拭うと、その手を王衣へ伸ばした。

 兵士たちがあっと声を挙げた。

 フェデリコが王衣の留め紐を解き、その手を払っていた。分厚い王衣がばさりと地面に落ち、土埃を巻き上げる。

 その腰から剣を抜いて地に突き立てると、彼女は王冠を降ろし、その輪を剣の柄に掛けた。乾いた金属音が響き、剣が微かに傾く。

 誰もが黙ってみているしかなかった。籠城する側の兵士や避難民たちはおろか、王国軍の兵士も騎士も、誰一人言葉を発しなかった。

 フェデリコは鉄と鎖の縫い付けられたフードコイフを外し、顔を振るった。

 風が吹きすさぶ。

 旗が揺れる。真赤な髪は炎のように風にたなびく。

 人は息を呑み、彼女の言葉を待った。


慈悲あまねく慈愛深き神の御名においてビスミッラーヒル ラハマーニル ラヒーム


 その流暢なアラビア語に人は息を呑んだ。

 だが彼らが真に驚いたのは、そこに続く言葉だった。


「朝において、静寂な夜において――」


 その誓いに彼らは聞き覚えがあった。クルアーン第九十三章「アッドゥハー」――彼女はいずこを見るでもなく、誰に語るでもなく言葉を紡いでいく。


「主はあなたを見捨てられず、憎まれた訳でもない。

 本当に来世これからは、あなたにとって現世いまより、もっと良いのである。

 やがて主は、あなたの満足するものをお授けになる」


 真に神が存在するならば、たとえ異教徒の力と言葉を経てでも、それを信じ今を生きる者たちにその恩恵と慈悲が下されるのではないか――その仮定はカトリックとムスリム、どちらにとっても不信仰者の物言いかもしれなかった。

 けれどその時の彼女はどこか、自らの決定と声を、ひとつの事象のように感じていた。私を見るな。私の声を聞くな。ただ差し伸べられた手だけを見ろ。この手はと。


「かれは孤児のあなたを見つけられ、庇護なされたではないか。

 かれはさ迷っていたあなたを見つけて、導きを与え、

 また貧しいあなたを見つけて、裕福になされたではないか」


 エメスとハフサの二人、あるいは自らを別けたものが何だったのか。時は待ってくれず、彼女は解らぬままに前へ進んでいくしかない。それが自分の選んだ道だからだ。

 ただ、ふと思う。自らが歩む途すがらに、かつて孤児であった己を見つけた時、私は手を差し伸べられるだろうか。それをこそ、今自らに問わねばならなかった。


「だから孤児を虐げてはならない。

 請うものを拒んではならない」


 そこまで告げて、フェデリコは砦をぐるりと見回した。

 城壁で固唾を呑んで見守る兵士たちひとりひとり、あるいはその壁の内側で震える人々全てに向けて。


の主の恩恵を宣べ伝えるがいい」


 聖句が締めくくられる。

 彼女は、祈らない。

 自らの言葉と営みの欺瞞を知っているからだ。

 私たちはいつだって、すべてが遅すぎる――心のどこかに言葉が繰り返される。私たちの営みは、本質的に過ちで、全ては常に手遅れだ。

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