第四十三節

 どれほど、そうしていただろう。

 長かったような気もする。けれどおそらくは、感じたよりもずっと、ずっと短い。

 蝋燭の灯りも途絶えた暗闇の中に、一筋の光が差し込んだ。ざわめきが遠く聞こえ、慌ただしい足音が辺りを走り回っている。その足音が立ち止まり、地下に影を差す。

 光を背に立つ大切な彼女を見上げて、エメスは力なく微笑んだ。


「ご無事でしたか、フェデリコ様」


 階段を飛び降りて、彼女が駆け寄ってくる。


「……ばか!」


 彼女は片膝をつき、飛び込むようにしてエメスの肩を抱き締めた。


「人の心配をしてられる身か!」


 力いっぱい抱き締める腕が痛みを思い出させても、エメスはそれが嬉しく、一方ではこれが現実なのだと思い出せれて、悲しくなった。

 ふいに拘束が解けて、フェデリコが視線を落とした。

 エメスの膝に抱かれていた、血まみれの冷たい身体。それを見つめるフェデリコの目元は険しくなり、唇が固く結ばれる。

 焦ってエメスは身を乗り出した。ちゃんと説明しなければ。彼女が誰で、何があったかを。一瞬たりとも、フェデリコにハフサを嫌ってほしくはなかったから。


「彼女は――」

「ハフサか?」


 遮ろうとした言葉を、フェデリコが制した。


ハフサなのか?」

「……ハフサです。ハフサが……」


 自分が飛び越えるまでにずっと掛かったその十年の時間を、フェデリコは一瞬にして飛び越えた。フェデリコにはそれができてしまう。エメスはそれが悲しかった。

 聞いてください、ハフサに会ったんですよ――あの時、年甲斐もなくはしゃいで言ってしまえば、たったそれだけで違う結果になったかもしれなかったのに。それなのに、そうはならなかった。その細い糸はずっと自分との間にあったというのに。

 なぜ、そうしなかったのかが解らない。

 約束をしたから。

 けれどそれだけじゃない。あの時エメスは、確かに楽しんでいた。ハフサに秘密よと言われて、何かが嬉しかった。一緒に子供のようにじゃれ合っているのが幸せだった。


(私はそれを知りたかったのだろうか)


 その理由を。自分が感じていたものを。

 けれどそれらももう、あの拷苦の中に掠れてしまった。

 きっともう、取り戻すことなんかできない。


んです。ハフサは生きてたんです……!」


 エメスは涙を抑えきれなくなって、ぼろぼろと大粒の涙をこぼした。こんな状態になっても、涙だけは出る身体を恨んだ。

 わあわあ声をあげて泣くエメスの頭を抱いて、フェデリコは何も問わなかった。

 何があったのかは解らなかった。

 けれど己のせいだという事だけはいつも確かだった。


 望むと望まざるとに関わらず、歩み続けるだけで、どうしようもなく誰かを巻き込み、傷つけ、血が流れていく。歩かなければ、そのために、同じことに陥っていく。己の存在そのものが、無数の呪われた刃に連なっている。

 そのことは当に解っている。誰かのために上ろうと決めた階段なのに、段を上がる度に、手の届かないものが増えていく。


(いつだってそうだ。私たちはいつだって、すべてが遅すぎる)


 少年のようになってしまったエメスの髪を掻き抱き、ただ心の中に呟いた。




 野営地のフェデリコの下を、一人のマルセイユ商人が訪れた。

 アルトゥールだ。彼は平然とした様子で落ち着き払い、全く悪びれる様子が無かった。だがそれは当然のことだろう。ここにいる彼は、複数の商会を裏で束ねる大胆不敵な黒幕でなく、中堅商会を経営するしがない一商人でしかないからだ。

 案内の兵士の後ろに続きながら、彼は陣営をそれとなく伺う。


(国王軍は士気充実し、主戦力は練度も比類なし、といったところですか)


 臣従諸侯の兵には多少不安もあるが、それはモリーゼ伯率いる連合軍も同じこと。ならば主力が精鋭である国王軍の方がにわかに有利と思われた。

 彼らに足りないものは武具だ。

 自前の装備が潤沢なドイツ騎士団はともかく、フェデリコ直轄の軍の装備は、よく手入れはされているものの元の装備が貧弱だ。ならばなおのこと、自分のような人間が協力する意味があるというものだった。


(さて、どこまで食い込めるものか……)


 彼は既に、叛乱に見切りを付けていた。

 モリーゼ伯の軍は所領を発ったというが、既にほぼ壊滅したムスリムの叛乱軍はあと一週間と保たないであろう。抵抗運動は続けられても、大きな兵力を集めてうねりを起こせる流れにはない。そうすれば参陣を様子見していたシチリア諸侯が駆け付け、兵力的には五分と五分、それも勢いを示しているのは国王側であるから、少しの揺さぶりでどっと国王側に流れ込むと見えた。

 アルトゥールが見るところ、王国軍の動きは卓越している。若き国王の采配に家臣がよく団結し、連携も取れている証拠だ。つまるところ、あとは自らが、最後の一分を手助けしてやればよいのだ。


 問題は勝利の美酒を分かち合った後の手綱の取り方である。

 彼も籍を置いていたジェノヴァの商人組合アルティはそこを誤った。


(私には短剣ブルトゥスがある)


 彼はとうに、ガブリエラを始末して女を移すよう命令を出していた。

 女がフェデリコの秘密とやらを吐けば、それが取引材料になる。よしんば吐かずとも、手許にあるという事実だけで、まるで知っているかのように振舞うくらい訳ない事であるからだ。

 が、彼はそれでフェデリコを脅すような真似はしない。勝者に対する脅迫は自らの命を縮める事を知っているからだ。秘密はとどめの一撃とするか、共犯者になる為に用いられねばならない。それがアルトゥールの処世術であり、今まで勝者であり続けてきた理由だった。

 謁見の場として指定された天幕を潜ると、やがてフェデリコが姿を現した。


(なるほど、才児だ)


 彼はフェデリコを一目見て、自らの先物取引を良しとした。

 長い前口上が述べられ、アルトゥールはおそれながらと本題を切り出した。


「本日は陛下に献上したき品を持ってまいりました」


 フェデリコが鷹揚に頷く。


「それはよい。滞陣が長引いていてな」

「武器と食料、それぞれ陛下の軍勢を養うのに十分な数を」

「ほう、気前がよいな。どういう事だ?」


 アルトゥールは胸元から書簡を取り出し、傍らの家臣へと預けた。


「と申しますのは、私が取引しておるココ商会が叛徒への密輸を企てておりました。そこで、彼らの商船が近隣に寄港した際にこれを我が方で拿捕したのです。今回献上する品はここで押収されたものとなります」

「……そうか」


 フェデリコの返事に、アルトゥールは違和感を覚えた。

 喜ぶにせよ詳細を訪ねるにせよ、もう少し反応があってよいものだ。フェデリコのその口ぶりは、まるでそれを知っているかのようではないか。だが既にその一端をちらつかせてしまった。違和感を抱えたまま、彼は話し続ける。


「ココ商会につきましては、叛徒に対する支援の証拠を手に入れました。私ども商人には商人なりの伝手や情報というものもございます。今申し上げたココ商会のガブリエラについては、手を尽くして探させております。早晩捕えられましょう」


 アルトゥールは小さく頭を下げながら、違和感の正体を探ろうとした。


「また、モリーゼ伯とも繋がりがあり、捕えました彼らの使者から、決起した諸侯どもの進軍ルートが明らかとなりました」

「……それを知らせてくれるというのだな」

「はい、詳細は先程お渡ししました書簡に……」


 そうして顔をあげた時、天幕の後ろから姿を見せた女に、僅かに頬を強張らせた。


「どうした。続けよ」


 事も無げに言い放つフェデリコ。その隣に現れたのは、肩を兵士に支えられたあの地下牢の女――すなわちエメスだった。彼女がここにいる事自体が、計画の狂いを告げている。

 それでもアルトゥールは冷や汗を押し隠し、務めて平静を装った。


「陛下、そちらの方は酷いお怪我の様子。いかがなさいましたので……」


 まだすべてが破綻したとは限らない。彼は地下牢では言葉を発しなかった。顔を覆い隠し、ガブリエラの言う情報を確かめただけだ。ガブリエラが死んでいるなら、奴と自分を繋ぐ糸は何もないからだ。

 だがそこへ、数名の書記が両腕に紙の束を抱えて出てきた。

 アルトゥールとフェデリコの間に机が置かれ、それらの紙束が積み上げられていく。それらがひと段落すると、フェデリコが立ち上がった。


「それらは、古い友が残した帳簿や手紙、それに留め書きだ」

「それと、私に何の関係が……」


 フェデリコはちらりとアルトゥールを見やると、言葉を低く問いかけた。


「ハフサという女を知ってるか」


 アルトゥールは己の破滅を知った。

 言い訳は思いつく。そうしてもいい。最後まで諦めないのが商売であるからだ。だがこの王の物言いと、これまでの態度から、もはや逃げ場はないと知れた。


(彼は私を殺すだろう)


 彼は瞼を閉じるとゆっくりと天幕の上に広がっている青空を仰ぎ見た。

 答えぬ男に、フェデリコは続ける。


「そなたの下へ行われた送金、あるいは命を遂げるに要した金のやりとり。全てそこに記されている」

「全て。全てと申されましたか」


 アルトゥールはそのままの姿勢で呻いた。


「全てだ。留め書きを信ずるならばな」


 一枚の紙を取り出して、フェデリコはその紙面に目を落とした。そこには今回の叛乱におけるムスリム及びモリーゼ伯との取引の全容はおろか、アルトゥールとの取引の全容が詳らかにされた裏帳簿に彼が抱える独立商会の全ての名、売られた奴隷の名と行き先を記録した台帳までも残すとし、その最後にはこう記されていた。


「『アルトゥールに売られた時に備える』」


 フェデリコからその一言を聞かされて、アルトゥールは表情を歪ませた。


「私が見込んだだけのことはあった」


 彼はようやくに顔を下ろし、自らの致命傷となった紙束を改めて一瞥した。

 肩を支えられ足を引きずるエメスが机に近寄る。

 彼女は机の前に立つと、爆発しそうな感情をぐっと堪え、紙束の上に小さな袋を置いた。


からです」


 小さな銀貨が数枚、音を立てて袋からこぼれる。


「……女であることが惜しいと思っていた」


 彼は確かに、ハフサの能力を認めていた。

 商才には地位も宗教も関係ないことを知っていた。だから彼は、ハフサをとして認めていた。だがそれは、アルトゥールが彼我の間に引かれた一線を所与のものとし、ハフサをあくまでとしてしか捉えていないことの証左でもあった。それ故に彼は、ハフサを無意識のうちに自らの所有物と見做し、支配と被支配の関係で捉えていた。

 彼は気付くべきであった。

 金貨十枚を使わなかった時点で、ハフサはとっくに己から自由になっていたことを。

 値切りに値切られた銀貨三十枚。見下ろすアルトゥールの口元に、老境に差し掛かった男の例えようもない自嘲が滲んだ。


「私も衰えたものだ」


 フェデリコはその顔を見もしなかった。

 傍らに控えていた騎士らに、アルトゥールを連れていけと目配せをする。予め命じられていた彼らが猿轡をきつく噛ませて喋れないようにし、全てを諦めたアルトゥールを引きずるようにして連行していった。

 見送った直後に、エメスは膝を突いた。両膝の上で手を握りしめて、あふれる涙で拳を濡らした。

 あの時と同じように、フェデリコは泣かなかった。まだすべきことがあったからだ。たとえ全てが遅すぎるのだとしても、だからこそ、あるいは。

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