第四十五節

 彼が丘から見下ろすのは、続々とメッシーナ海峡を渡る連合軍の姿であった。

 メッシーナ海峡はその狭い海峡の中に激しく複雑な潮流を描いている。大型船で一気に渡るのは難しいが、ジェノヴァのコラボシオ商会から供与された小型商船が海峡を往復し、そのつど兵士たちがシチリア島へ渡っていく。


「動きは順調のようだな」


 モリーゼ伯トンマーゾは満足げに頷いた。背後の小姓が嬉しそうに、可愛らしい声ではいと頷く。拍は上機嫌で小姓の肩をとんと叩き、本営の天幕へと戻っていく。

 彼を総大将とする諸侯の連合軍は今や六千に達し、ここメッシーナ海峡には四千以上の兵が集結している。彼はフェデリコとの戦いに自信を持っていた。

アプーリアの小僧フェデリコの采配とその配下の軍勢が精強であるとの評は彼も知っていた。だが彼には十分な兵力と、何よりジェノヴァ商人からの潤沢な支援があった。ならば彼がすべきは決戦を急ぐことでなく、大兵力をもってパレルモへ攻め寄せて持久戦に持ち込むことだった。その為の時間はサラセンムスリムが十分に稼いでくれた。大敗を被ったとの報は届いているが、彼らに期待する役割が終わった今、それはさして重要でも無かった。


「少し眠る。日が暮れる前に起こしてくれ」


 彼は小姓に鎧を脱ぐのを手伝わせ、上半身を取り外したところでベッドへ横になった。

 そのままどれくらい眠っていただろう。彼は外の騒がしさに目をさました。


「おい、どうし――」


 視界の隅で、何かがきらめいた。

 彼が感じたのは、喉を焼く血の熱さだった。


「がっ……!」


 トンマーゾは咄嗟に傍らの剣を掴み、抜き打ちで一刀の下に下手人を切り払った。そこに居たのは、いつも傍に置いていたあの小姓だった。手応えはあった。少年は俯いたまま二歩、三歩と後ずさり、その腹からは血と内臓が溢れ出してくる。

 だがトンマーゾはぎょっとした。致命傷を受けたその少年はゆっくりと顔をあげ、感情のない瞳をこちらに向けて笑ったからだ。


「あなたの役割は、終わりだ……」


 少女のような可憐な頬を真赤な血に染めて、小姓はそのままどうと倒れた。

 トンマーゾは自分の喉を抑え、突き立てられたナイフに触れた。

 何が起こったのか。何故俺を殺る。誰かに買収されたのか。いや、あれはそんな者の瞳ではない――声が出ぬまま、彼はなおも天幕の出口へ足を引きずる。だが数歩進んだところでその膝は折れ、彼は天幕の布地を掴みながら、ずるずると倒れ込んだ。

 みるみるうちに血が広がって、喉の周りに血だまりを作っていく。

 暫くして、天幕へ複数人の足音が迫って来た。


「モリーゼ伯! 奴らの海軍だ!」

「すぐさま軍を……!」


 飛び込んできた数人の諸侯はぎょっとした。一人は思わず後ずさりし、勢い余った後ろの護衛に突き飛ばされた。

 彼らが見たのは、自分たちの総大将である筈のモリーゼ伯の死体だった。


「どういう事だ……誰がやった!?」


 わななき辺りを見回すも、答える者は無い。

 唯一血まみれの小姓だけが遠く離れて身体を折り曲げて息絶えている。だが彼らは、まさかその小姓が突然に乱心したとは露ほども思わない。

 海峡の悲鳴や喧騒だけが、テントの中にこだまする。

 完全な奇襲だった。彼らの兵員を輸送していた商船数隻は島の影から突如現れた船に焼かれ、残りは算を乱して逃走した。護衛の海軍がアルトゥールの拘束で機能不全に陥っていたことを彼らは知らなかったが、海上護衛が機能していない事だけはもはや明白だった。


 陣たちの混乱は大きくなり、泳げぬ兵たちは海流に呑まれて次々沈んでいく。

 やがて、対岸のシチリア島では稜線から馬蹄と鬨の声が上がった。フェデリコと共にその姿を現す、総勢三千の軍勢。そこには、新たに一千のムスリム民兵が加えられていた。号令一下矢の雨が降り注ぐ。浜辺に上陸したばかりの部隊には逃げ場も遮蔽物もなく、彼らの血が浜辺を赤く染めていく。

 先鋒隊は壊滅するだろう。

 総大将である筈のモリーゼ伯ももはや亡き人となった。

 その場にいた数名の諸侯は息を呑む。一人が、おもむろに剣を抜いた。何事かと怪訝な顔をする彼らに、ちらりと目配せをする。意を察し、残りのものたちも次々と剣を抜くと、物言わぬ死体となったモリーゼ伯に近付く。


「奸臣モリーゼ伯は我らがやった。よいな?」


 彼らは頷きあい、揃って次々と刃を突き立てた。




 フェデリコの寝室をノックする音。

 月も沈んだその夜、不寝番を免ぜられていたエメスは、フェデリコが呼んでいると告げられて部屋を訪ねていた。その姿はまだ傷だらけで痛々しく、普通の人間ならまだ立ち上がることもままならないだろうと思われた。


「エメスです。何か御用ですか」

「ちょっといいかしら」


 声の主はフェデリコでなく、シュミーズ姿のカナだった。

 エメスがそっと扉を開くとカナがこちらへと手招きをする。ちらりと見やるとフェデリコは裸のまま毛布にくるまり、ベッドの上で寝息を立てている。足を踏み入れたエメスは、音を立てぬよう後ろ手に扉を閉じた。

 要件を聞こうとするエメス。けれど彼女が振り返った時、その肩をカナが抱き留める。エメスは目をぱちくりとさせてぽかんとしていたが、やがてカナがぽつりと話しかける。


「大きくなったわね」


 彼女は少し身体を放すとにこりと微笑んだ。


「はじめてあった時は私より小さかったのに、今ではあなたの方が大きいわ。すっかり大人なのね」


 改めてそう言われ、エメスは照れくさそうに俯いた。

 カナはくすくすと笑うと、またエメスを抱き留めて、赤子をあやすようにその背を叩いた。


「まだ子供なのなら、こうしていましょう」


 自分より小さくなったカナに背を抱かれながら、エメスは目を閉じた。ゆったりとしたひと時が流れて、カナの頭からは、髪油のかすかな香りがした。カナは少しの間そうしてから、静かに問い掛ける。


「……だいじょうぶ?」

「何がでしょうか」

「ごめんなさい、回りくどい聞き方をすべきじゃなかったわね」


 カナはエメスの背に、少しだけ力を込めた。


「彼女のこと」


 腰のあたりにあったエメスの指が、ぴくりと震えるのを感じた。


「あなたはきっと、だいじょうぶだって言うでしょうし、実際にそう思ってるのでしょうね。……けれど、そんな事はないのよ」

「そんなことありません。私は……」

「自分がどう感じてるのかがよくわからない、うまく表現できない人って、いるのよね。あなた気付いてる? 最近、ずっと笑ってないわよ」


 そう指摘されて、エメスははっとした。エメスにはどこか実感が湧いていなかった。悲しくないのとは違う。ただどうしてか、そんな感覚はひどく摩耗してしまったような気がした。そんな何度も繰り返してきたものでもない筈なのに。

 曖昧に目元を泳がせて、カナの肩に視線を落とす。


「ご心配をおかけしてごめんなさい。気を付けます」


 きゅっと唇を結ぶ。全ては終わったことだ。エメスの身体には、今なお深い傷が刻まれていて、先のメッシーナ海峡での戦いにも参加はしなかった。身体の傷も、髪も、いずれは元通りに戻っていく。けれど目に見えない傷がいつ癒えるのかを、エメスは知らなかった。

 カナはそんなエメスの様子に気付いたか、背を少し強くだきしめて囁きかける。


「少し違うわ。私はそれをやめなさいと言ってるのではないの……忘れて前に進めだとか、いずれまた良い出会いがあるっていう人もいるかもしれない。けれどね、そんな言葉に耳を貸す必要はないわ」


 その意を解しかねて、エメスが顔をあげる。けれど、エメスの首元に顔を寄せたままのカナの表情は、その口元がわずかに窺える限りだった。


「辛くない、悲しくないなんて明るく振舞う必要はない。それを乗り越える必要だってない。あなたは泣いていいし、悲しんでいい、心の底から嘆いていい。この世の終わりが永遠に続くのだと、うんと絶望していいのよ」


 カナの言葉は、あくまで穏やかだった。


「私が喪ったものはあなたとは違ったかもしれないけれど、私もまたそうだった。だから、自分の感情に鍵を掛けてしまってはだめよ」

「鍵を……?」

「感情をしまいこんで、鍵を掛けて閉じ込めてしまえば、自分がいつしか自分ではなくなっていく。自分が誰なのか解らなくなっていってしまう」


 ふと脳裏に浮かぶ、扉のイメージ。

 水底や炎の景色、灰に埋もれた街――あらゆるイメージの中に、それは姿を現してきた。もしその扉が彼女の言う鍵であるなら、自分は既に、自身の感情をそこに閉じ込めてしまったのだろうか。あるいはそこに、何をしまい込んだのだろう。


「少し、解る気がします。けれど、開け方がわからないんです」

「……そうね。自由に開けたり閉じたりなんかは、できないものかもね……ならこうしましょう。いつかその扉が開く時、それを抑え込んだりしないって。自分自身から目を背けないって……それだけ約束してちょうだい」


 エメスは少し考えて、小さく頷いた。


「なら、それまではしっかり悲しんで。苦しんで、傷付いてる自分自身を否定しないでね……人間ってそういうものだから」

「……私は人間になれるでしょうか」

「何をばかなことを言ってるのよ」


 くすくすと笑うカナが顔を離し、背後のフェデリコを見つめる。

 フェデリコも背を向けたまま、もぞりとその背を丸めた。カナは再びエメスへ視線を向けると、少し見上げるようにして囁いた。


「したい?」

「何をですか?」

「決まってるじゃない、フェデとよ」

「ご冗談を――」


 真赤になったエメスの唇を、カナの指がそっと抑える。


「からかってなんかないわよ。私がいっしょに誘ったのなら、フェデはきっといやとは言わないから」


 カナにさらりと言ってのけられても、エメスは首を縦には振らなかった。視線を逸らしたまま、震えるように首を左右に振るう。


「ふふ、そうよね」


 その様子を見上げていたカナは身体を放すと、髪をばさりと拡げた。そうして静かにフェデリコの方へ歩いていくと、その背をとんとんと指でつつく。


「ん、う……」

「フェデ、少し奥へ寄せて」


 カナがそっと囁きかけると、フェデリコは寝ぼけた様子のまま、もぞもぞと奥へ寄っていった。カナにおいでと手招きされて、エメスはやや戸惑いがちに近付いていく。そうして誘われるがままベッドの中に身を寄せると、その背をぐいとカナに押し込まれた。

 後ろからベッドに入ったカナは、三人だろうと余裕でくるめる大きな毛布を引いて、その中に身を埋めた。


「私、フェデの代わりにドイツに行くわ」

「ドイツへ? 何故ですか、せっかくフェデリコ様もイタリアへ戻られたのに」

「フェデとも話して決めたの。ドイツ王の代理といったところかしら。フェデがイタリアにいるからこそ、誰かがドイツにも睨みを利かせていなければね……エンリカも、北を見てみたいと楽しみにしてるわ」


 背後の声に、エメスは少し寂しそうな表情を浮かべた。


「……暖かい恰好でおいでください。ドイツは、シチリアよりずっとずっと寒かったです」

「ええ、知ってるわ……」


 カナは頷く。うとうととする意識は、やがてハンガリーにいた自らと手をとって、シチリアからローマ、ドイツを巡る。

 カナは後に、フェデリコの皇帝就任に伴ってドイツの地へ赴き、四年半ほどして亡くなる。十二年に及んだ生活のうち、フェデリコが共に過ごした時間は三年に満たなかった。


 おやすみ――背後からのカナの挨拶に、エメスは促されるままゆっくりと目を閉じ、フェデリコの背にぴとりと耳を付けてみる。心臓の音が響いて、確かに生きているのだと感じさせられる。二人の寝息に合わせるようにして、自らもまた寝息を立ててみる。

 それでも、眠気はない。

 エメスはいつもと変わらず眠りのまね事をする。けれどエメスはそれでいいのかもしれないと思った。

 この関係も自らの感情も、すべてはまね事だ。あの地下でハフサに告げた。あなたのようにあなたのことを愛せていたらと。ハフサに抱いていたものも、きっとまね事だった。抗いようもなく全てが奪われるような想いはそこにも無かった。けれど、それでも、彼女を愛したいと願ったことだけは本当だったはずだ。

 として眠りに落ちる。その頬を、一筋だけ涙が伝った。




 青い空に雲が輝ける、初夏の終わり。

 フェデリコの姿はローマにあった。彼女は独り、窓に頬杖を突いて外を眺めていた。その姿は美しく飾られ、身には緋色の帝衣を纏っている。


「フェデリコ様」


 聞き慣れた声に、フェデリコは振り返った。

 流れる赤髪が陽の光に梳かれてきらめく。その美しさは多層的なもので一口には語れない。けれど確かに含まれている女性としての美しさに、エメスは困ったように微笑んだ。


「もしかすると、気付かれてしまいますね」

「ばれては困るな」

「お結びしてもよろしいですか」


 エメスが首から提げた小さな袋から、擦り切れかかった革紐を取り出した。


「私は、いらなくなってしまったので」


 エメスの髪は、まだ伸びていない。彼女の生命力は、骨や肉の損傷を驚くほど早く癒してくれた。けれど髪の伸び方は、他の人と何ひとつ変わらなかった。かつて肩甲骨のあたりまであった黒髪は短くなったまま、眉毛にすら掛かっていない。

 フェデリコは、エメスの手にした革紐にどこか見覚えがあった。


「その紐」

「お嫌でしたら――」

「いや、それがいい」


 フェデリコは即答した。窓に向かい、エメスに背を向ける。


「失礼します」


 近寄ったエメスが、フェデリコの後髪を手に取り、櫛で梳き整えていく。手にした革紐を指に添えると、その髪をひとつにまとめて革紐を掛けた。

 一瞬、エメスは手を止めた。

 その革紐はエメスがあの日からずっと身に着けていたものだ。

 戦場にあっては泥に汚れ、人を斬っては血にまみれてきた。毎日、繰り返し髪を結び直し続けてきたそれはすっかりくたびれて、いつ千切れてしまうかも分からない。


(思い出も、いつしか擦り切れていくのかな)


 想いを振り払うようにきゅっと革紐を閉じ、エメスは一歩下がった。


「……できました。いかがですか」


 フェデリコは肩越しに結ばれた革紐を見つめて微笑んだ。


「うん、いいな」

「大聖堂でお待ちしてますね」


 小さく頭を下げて歩き去ろうとするのを、フェデリコが呼び止める。


「私を止めるなら今だぞ。皇帝にならないでくれと言うなら、何もかも捨てて旅に出ようとねだるなら、これが最後だ」


 けれど単なる冗談とは、少し違う。何事でもないように聞く彼女は、けれどどこか真剣だった。きっと、止めたところでフェデリコは皇帝になるのだろう。行きたい場所へ思うように旅をしたい、そう望むかつての自分たちの為にこそ。

 けれど同時に、願いを振り切って皇帝になったという事実は、ずっと覚えていてくれる。それはひとつの呪いとなるのだろう。


「皇帝になんか、ならないでください」

「そうか……」


 ふと微笑むフェデリコ。

 けれどと、エメスは言葉を続ける。


「けれど、ハフサの代わりにも言います。皇帝になってください」


 少し驚いて、ぽかんと口を開くフェデリコ。エメスはそれを見て少し満足そうに笑うと、答えを聞くことなく、ぱっと背を向けて早足に部屋を出ていった。

 その背を見送るフェデリコが、ややして笑みをもらす。

 ひどい呪われ方をした。何をやっても、どちらへ進んでも誰かを裏切る呪いだ。だが気付かないだけで、自分たちは常にそうしてきたのだ。その座を望むと望まざるとに関わらず、あらゆる営みは誰かへの裏切りだった。すべては終わってからでなければ気付かない。そうしてあらゆる過ちを、その身に抱え込んでいく。


 帝衣の紐を結びなおし、扉に手を掛けた。

 フェデリコはゆっくりと歩き始めた。帝座へと進む道に伴う者はいない。皇帝となる者はその最後を孤独に歩かねばならないからだ。


 風を受けて緋色の帝衣が翻る。

 それは血と炎に染められてあかくなったのだろう。

 かつて異双の眸の若者が東方オリエントより種を授かった。

 その末裔は混沌を母として産まれ、流血を産湯に取り上げられ、炎が全てを薙ぎ払った跡に世界ローマ秩序帝国を築いた。

 死を糧に生を産み、失われた命と生まれる命を数える。人に許されざる業と交わるならば、それはもはや人ではない。人の身を依代とする神であり、無数の怪物を産み落とすティアマトだ。


 呪われよ、皇帝ティアマト――


 フェデリコティアマトは祈らず、ただ願った。

 

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紅緋の帝記 御神楽 @rena_mikagura

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