第四十二節

 人の身体は不思議だと思う。

 臭いや音は、慣れてしまえば感じなくなる。光や闇にも、いずれ慣れてしまう。

 身体中の体液という体液が、眼下で泥と混じり合っている。立ち昇る臭いは強烈だった筈だけれど、もうとっくに解らなくなってしまっている。

 けれども痛みだけは、決して慣れることがない。人間の生命力というものが生きる意志を諦めない限り、それは永久に警告を発し続けるのだろう。ならあるいは、痛みに慣れた時こそが、生命の終わりなのかもしれないと思った。


 気が付くと、周囲には瓦礫と炎が広がっていた。

 空は黒く分厚い雲に覆われて、昼か夜かも解らない。そこには炎の弾ける音の他は何の気配もなく、肌をひび割れさせた無数の死体が焼かれて転がっているだけだった。エメスはただぼんやりと周囲を眺めていたが、ふと視線を感じて振り向いた。

 瓦礫の只中に、私が立っている。

 私は私を見つめて、困ったようにわずかばかりの笑みを浮かべている。


「もう、終わりにしたら?」


 私がささやく。

 私と同じでありながら、どこか透明に澄んだその声に、私の背筋がぞっと撫であげられる。


「自分で言ったじゃない。愛しているのかはわからないって」


 年があけてのフェデリコとの会話。

 ハフサ――彼女にとっては名も知らぬ誰か。その誰かを想っているのかと問われて、私は確かにそう答えた。けれど彼女はそれでも良いと言ってくれた。それは本来、曖昧なものだからと。

 けれど私がそう答えるより先に、眼前の私が蔑むように言う。


「フェデリコの許しがあったから、それでいいって? そこでフェデリコが出てくるのがおかしいと思わないの?」


 私が音もなく瓦礫を踏みしめて歩み寄ってくる。


までされておいて、あなた未だに彼女のことが嫌いじゃないんでしょ? そんな人間が、誰かを愛せたりすると思う?」


 私が私の瞳を覗き込む。


「あなたは愛されたから、愛らしきものを返しただけよ」


 その瞳は金環に縁どられて、言葉と共に輝きを増していく。それを覗き返しているうちに、私は私自身に抗えなくなっていく。意識の溶けあうような感覚。急に足元がぐらついたかと思うと、私は深い水底に沈んでいって、それから――


「エメス」


 声がして、うっすらとまぶたを持ち上げた。目の焦点がよく合わないのは、左のまぶたが腫れているせいだろうか。ハフサの顔を見て、エメスはそのまま首を項垂れさせた。何か声を掛けたかったけれど、頭はぼんやりとしていて何も思い浮かばなかった。


「とうとう喋らなかったわね」


 ハフサは寂しげに呟く。

 ムスリムの叛乱軍が大敗を喫したとの報は既にもたらされていた。彼らとココ商会との繋がりは明確ではない。叛乱軍にはハフサガブリエラとの面識はなく、商館の者たちも何も知らず商いに勤しんでいる。ハフサに連なる情報や証拠は何も無い。ただ唯一、エメスの存在を除いては。


「おかげで、あなたを始末するしかなくなった」


 エメスの視界の隅で何かがきらめいた。灯りに照らされて、短剣が橙色に輝いている。それを手にする美しく細い指。それで、ハフサが握っているのだと気が付けた。

 ハフサもエメスの視線を手元に感じて、じっとエメスを見下ろした。


「終わりにしましょう」


 全ては無意味だったのだ。心のどこかで抱いていた祈るような共感も、吐露されるうちにあふれた仄かな想いも、全ては何処にも辿り着けずに潰えるものだった。


 オリエント――エメスは、ぼんやりとその光景を想像した。

 自分は護衛をやり、アラビア語が通じない地域からは、通訳もする。ハフサならきっと、どこへ行っても商売をやっていけるだろう。数頭の駱駝を仕立てて、そうして東へ旅をしていく。たった数頭だ。商いで得た金は全て仕入れと路銀に消えていく。それでも旅は続けられる。その限り東へ、世界の果てを探しに行く――想像した瞬間、どうしてか、わけもなく悲しくなった。


 その想像にフェデリコの姿は無かった。エメスは彼女のいない世界を想像できてしまった。けれどエメスは、それを想像できるにもかかわらず、それでもなおその道を選ぶことができない。

 あの夜取った手のこと、その約束を理由にしてきた。

 それが誤っていたとは思えない。エメスは今でも、それが大切な約束だと感じている。だけど全てがまがい物のようだった。約束がではない。自分の心がだ。自らの想いを表すことができない。心のどこかに、私自身を閉じ込めて鍵を掛けてしまったかのように。

 ならば今なおハフサを嫌えないでいることも、自らが囁いたように、やはり誰かを愛せないことの証なのだろうか。そうではないと思う。けれどエメスは、ハフサが想ってくれるほどに、自らがハフサを想えているとは感じられなかった。エメスは、これほどまでに誰かを感じたことはなかった。他の誰よりもハフサのことを想っている。なのにその想いは、あまりにも小さい灯火のようなものでしかなかった。


 きっと愛している。

 けれど客観的に見れば、これは愛じゃない。


「さようなら、エメス」


 ハフサが告げて、短剣を握る掌に力を込める。

 喉がいいだろうと思った。非力でもしっかりと終わらせられるだろうから。

 ゆっくりとエメスに刃を近付けて、その喉に切先を押し当てる。一息力を込めれば、全てが終わる――目を閉じ、力を込めるハフサは、囁く声を聴いた。


「ごめんなさい……」


 ハフサは、何がとは問えなかった。

 エメスの顔がゆっくりと上がる。


「いっしょに、オリエントへ、行ってあげられなくて……」


 零れる言葉。エメスは渇いた喉をあえがせながら、絞り出すように続けていく。


「髪紐を、私の代わりに持って行って……お願い……」

「髪紐って……」

「赤い、革紐……ハフサが、私の髪を、結んでくれたやつ……私も、東へ行きたかったから……」


 ハフサの瞳孔が開いていく。


「何を言ってるのよ」

「今でも、変わらない……あたなと一緒に、行けたらって……。でも、どう頑張っても、行けそうになくて……だから、ごめんなさい。ごめんなさい、ハフサ……」


 憎悪とも悲嘆ともつかぬ感情が入り乱れ、ハフサの顔を歪ませる。

 エメスにはそれが解った。たとえ表情を伺えずとも、ハフサが今どれほどに顔を歪ませ、その瞳が何を求めていたのかを。


「こんなふうに私にされて、まだそんなこと!」

「私は、きっと……そういう風に……できてるんです。だけどもし、私が……ハフサが私を愛してくれたみたいに、ハフサのことを愛せたら……」


 また違ったのかな――その結末は、言葉にならず消えていった。

 エメスは、全身から痛みが霧散していくのを感じた。まだ終わりではない筈なのに、その身体は痛覚から解放されようとしていた。そうしてふわりと投げ出された意識が、深く、どこまでも深く落下していく、その浮遊感の先に扉があった。

 そこが開けば、になるのだと思った。


 地下室に、渇いた音が響く。

 音を発したのは床に転がった短剣だった。その音で、エメスは自らの意識がするのを感じた。生命力が再びその身を苦痛に苛み、エメスは、自らがまだこの世界に存在することを意識し始める。

 ハフサの肩が震え、彼女は両手で顔を覆う。


「やめて! やめてよ、そんなこと言うの!」


 ハフサは呆然としてふらつく。倒れそうになった身体を石壁にもたれ掛けさせ、ぐったりとするエメスと自らの短剣を見比べた。


「何よ馬鹿……! 私がその道を絶とうとしてるのよ、私を罵ればいいじゃないの!」


 眼元に滲む涙は、いったい誰の為にあふれたのだろうか。

 エメスには無論のこと、ハフサ自身にもそれは解らなかった。彼女は髪を振り、腕で目元を拭う。


「何が革紐よ! あんなもの! あんなゴミみたいなもの!」


 今のハフサには、あの紐きれより良い髪留めなんて幾らでも手に入る。一本で銀貨数枚もするような巧緻を極めた美しい織紐だって、何でも望むものが手に入る。だけどあの革紐は、あれ一本しかない革紐は、今は薄暗い地下牢で、部屋の片隅のごみ溜めに捨て置かれている。


 捨てればいい。

 ずっと見てこなかった、もうひとつの答えが脳裏によぎる。

 革紐ではない。ガブリエラの名を、ココ商会を、新しい時代を、それらの全て捨ててしまえばいい。そうして何もかも捨ててしまえば、あの革紐を拾い上げることができる。

 ハフサは奥歯を噛み締めて、身を翻し、ごみ溜めを蹴散らした。

 汚れも厭わず両膝をつき、その手で汚物をかきわける。


(私は……私はなんで……!)


 それは今だけでなく、過去の自らへも遡る問いだった。

 短剣を手にした自分。拉致当夜の自分。市場で再会した自分。自由を買わなかった自分。帳簿係を陥れた自分――ハフサは何時でも、呪われた世界を前に、自分を変えることを選んできた。何もかもを投げ打って自分を変えてきた先に、自分のための世界があると信じてきたからだ。

 けれど、本当にそうだったのだろうか。私は本当に、自らの意志で選んできたんだろうか――


 そこにあった赤い革紐は、ながい時の間にすっかり細くなって、今にも擦り切れそうになっている。思わず手のひらに握りしめ、ハフサは振り返った。


「こんな紐が、あなたのかわりになる訳ないじゃない……行けるわよ、オリエントくらい! 今からだって行けるわよ! 自分で見に行けばいいでしょ!」


 ハフサは転がるようにして、エメスの傍らに取り付く。


「私に言えばいいじゃない! すべて捨ててって言えば良かったのよ! 商館も名前も捨てて、ハフサに戻ってって! そうすれば私は――」


 身勝手な物言いなのは解っている。

 それどころかきっと、そう言われたって私は捨てなかっただろうとも解っている。それでもハフサは、たとえ八つ当たりであろうとそう言わずにおれなかった。

 手枷を吊り下げていた鎖、その一部に掛けられていた閂に縋りつく。彼女はその細腕を限界まで軋ませて、力任せにごとりと閂を引き抜いた。鎖が盛大にのたうち、エメスの肢体が石畳に投げ出される。


「誰か! 枷の鍵を持ってきなさい!」


 階上の部下に叫ぶ。

 エメスに掛された枷から鎖を抜き去り、その身体を引きずった。

 一秒でも早くエメスをここから出そうとした。地下から出して、空気を吸わせて、陽の光を浴びさせる。それから、東へ行く。全て捨てて東へ――それ以外のことなど、どうでもよかった。


「早く持ってきなさい!」


 再び彼女は叫んだ。階上から地下に人影が差す。


「何を見てるの! 早く――」


 悲痛な叫びをあげる彼女の前に、人影が降りてくる。そしてそれは、力なく階段を転げ落ちて来た。見知った拷問係が床に叩き付けられ、だらりと舌を垂らす。ハフサは階段を見上げた。

 血に濡れた剣を手に、男が二人立っていた。


「あなたたち、何を……」


 ハフサはその男たちに見覚えがあった。当然だ。彼らはハフサの護衛として雇われていたからだ。


「それを連れて、どこへ行かれるというんです」


 男が鎧を鳴らしながら地下へと下りてくる。その目に浮かぶのは乾いた殺意だ。

 アルトゥールの差し金か――ハフサはすぐさま悟った。企ての雲行きが怪しくなったと見て、彼は自分を切り捨てることを決めたのだと。あるいは必要ならそうする為にこそ、アルトゥールはハフサに独立した商会を任せていたのだから。

 ハフサはエメスを背後に庇いながら、彼らを睨んだ。


「金は! 幾らで雇われたの!? 私なら倍払う!」


 彼らはちらりと互いに目配せをしたが、結局ハフサの話には耳を傾ける様子が無かった。前に立つ男が血に濡れた剣を携えたまま近寄る。


「あんたはもう終わりですよ」

「待っ……」


 剣が振るわれ、後ずさったハフサは尻もちをついた。

 先ほど取り落した短剣が指に触れ、取りすがろうと咄嗟に伸ばした手が、固い靴底に踏みつけられる。

 手のひらが石畳と靴底の間で軋み、ハフサの顔が歪む。


「いっ……!」

「暴れんでください。その方がお互い楽だ」


 男は手にした剣を逆手に持ち直すと、かつての主人の背中を見下ろした。彼にとってのハフサは、金払いの良い雇い主だったが、しょせんはアルトゥールの囲われ娼婦でしかなかった。

 ハフサは歯を食いしばり、ただ這いつくばって眼に涙をにじませる。

 涙の向こう、エメスは力なく横たわっている。その瞳の金環がふいに消え、瞬間、瞬いた。


 地下室に跳ねる、獣が一頭。

 ハフサの眼前で、それは脚を振り回した。その裸脚は鞭となってしなり、ハフサは手が軽くなるのを感じた。男の視界は上下に反転し、彼は頭を石畳に叩き付けられる。胴を覆っていた鎧が地下室に盛大な音を響かせ、もう一人の男が顔を向けた。


「貴様あ!」


 男が腰の剣に手をやる。

 その胴目掛け、四肢が跳ねた。獣は――エメスはその脚力だけで床を蹴り上げ、一直線に走って体当たりしていた。鈍い衝撃が互いに走り、エメスと男はもつれあうように転がっていく。

 一瞬意識を手放しかけた男は、気を奮い立たせてエメスを見上げた。

 その瞬間の恐怖が、彼の感じたものの最後だ。

 血と泥にまみれ、糞尿の臭気をまとわせたまま荒れ狂う手負いの獣、その瞳に輝く、凶暴な金環。死が、襲い来る。


「があぁぁぁぁ!」


 その絶叫はエメスのものだった。彼女は、痩せ衰えたその両腕を振り上げた。武器はない。拳も握れない。けれどその手首には、頑丈な鉄で覆われた手枷がはめ込まれたままだ。

 弓なりに背をしならせ、全身をばねにし、腕を振り回して遠心力で叩き付ける。

 鈍い音がした。

 男の鼻が潰れて歯が砕け、血が跳ねた。エメスは獣のように叫び続けたまま、腕を振り上げ、もがく男の頭部目掛けて再び振り下ろす。二度、三度、振り下ろす度に鈍い衝撃が腕に伝わり、それが敵の死を感じさせてくれた。


 ひと際激しい一撃が脳漿を飛び散らせた瞬間、男の腕がぐらりと崩れ落ちる。

 エメスは男の鞘から剣を奪った。柄を握る手に激痛が走り、それでも握りしめた。どこの骨が折れていて、どれにちゃんと力が入っているのか。それすらも分からない。それでもだ。それでもエメスは剣を握った。それだけが残された道だからだ。

 エメスは振り返る。まだ一人。まだ、敵が残っている。殺す、奴を殺すんだ。そうすれば。ハフサは。私たちはきっと――振り返った先に、ハフサがいた。両手を広げ、全身で抱き付くようにして、エメスのもとに飛び込んできていた。


 その彼女の背から、真赤な翼が広がった。


 エメス――声になったかもわからないような呟きに、その名を呼ばれた気がした。けれどそれは声にならず、ただ彼女の暖かな血だけが頬にかかる。


「ぅ……あぁぁぁぁぁ!」


 その叫びが求めるもの、嘆くものが、もはやエメスにも解らなかった。

 エメスは走った。膝から崩れ落ちるハフサをかわして、残るひとり目掛けて一直線に剣を向けた。男は剣を振るおうとするも、ハフサに食い込んだ刃は容易に抜き去れず、唯一の武器を手放すことへの恐れが判断を遅らせた。

 どんという衝撃と共にエメスの刃が敵を捉えた。

 喉を深々と貫く刃。血があふれ出て、剣を放して退いた。

 空をかく男の腕。男は首にぶら下がった剣を支えることもできず、その重みに引きずられるようにして倒れ、それっきりぴくりとも動かなくなった。


 一瞬、地下鉄に静寂が帰る。

 足を滑らせ、膝を折って倒れ伏すエメス。全身を襲う激しい疲労に意識を朦朧とさせながら、それでもなお腕を突いて上体を起こし、彼女を呼んだ。


「ハフサ!」


 その名の主を探し求め、床を這いつくばった。

 真赤な流れが石畳の隙間に染み渡っていく。ハフサはぼんやりとして、血だまりに横たわっていた。

 エメスは縋りつき、半身を起こして壁にもたれ掛かると、ハフサの身体を引き寄せた。手枷に繋がれたままのエメスは、ハフサを抱き締めることもできず、ただ彼女に身を寄せるしかなかった。必死にその名が繰り返される中、ハフサはゆっくりとエメスを見上げた。


「馬鹿みたい、私……」


 唇に浮かぶ自嘲的な笑みを前に、エメスは首を振った。


「そんなことありません! 馬鹿みたいだなんて……!」


 ハフサは生きてきたのだ。どういう形であれ生きてきた。それがどんな結果に至ろうと、エメスはそれを馬鹿だとは言いたくなかった。たとえハフサ自身がそう感じたとしてもだ。

 自分にはフェデリコがいた。カナや、同僚の仲間たちや、多くの人が近くにいた。だけどハフサには、ハフサ自身しかいなかったのだ。その孤独を想う時、エメスは、ハフサのようには生きられない気がした。


「これからだってまだ――」

「港にある……洋上の小鳥号を、拿捕なさい……私からの、お詫び……」

「お詫びなんていりません」


 声が震えていた。エメスにも、もう終わりだと解っている。

 思わず語気を強め、それでも無理に笑顔を創り出す。


「ですから一緒に、三人で、また……」


 努めて明るさを振りまくエメスに、ハフサは力なく首を振った。


「ごめんねエメス。あなたのことは好きだけど、私、やっぱり彼のことは……」


 その頑なな心がまとう拒絶を、エメスは知っている。

 かつて友人だと思っていた者との間にあった深い断絶と、自らに掛されていた理不尽な枷。それはハフサにとって裏切りだった。たとえそれが、フェデリコのせいではなく、世界が予め私たちに与えていた断絶と枷であったとしても。

 この世界に抗うハフサは、フェデリコに世界を擬したのだ。それを受け容れられよう筈がなかった。


「ハフサ。フェデリコ様は……」


 エメスは唇を結んだ。

 頭の奥が疼く。激しい頭痛が意識をかき乱して混乱させる。エメスはそれを、自らに誓った禁を犯そうとしているからだと感じた。自らにも知覚しえぬエゴが、それを許さないのだとしても、エメスはそれを振り切り、告げた。


「フェデリコ様は、女性です」


 エメスは、初めて人に話した。

 ハフサの瞳が驚愕に揺れる。


「たった、それだけ……」


 けれどその事が、あまりにも重い。

 不義密通の子でもあればいいと思っていた。

 そうすれば言ってやれたのだ。何が王だ。王とて人の子だ。私たちと同じじゃないかと笑ってやれたのだ。けれど現実は、そんな想像より遥かに愚かで、下らなかった。

 》のことだ。

 けれどそれ故にフェデリコは、自らを偽って生きている――ハフサにはそれが解った。他ならぬハフサ自身がそうだったからだ。

 あんなにも遠く感じた古い友人は、途を違えた先で同じように世界に抗っていた。

 壁を一枚隔てたすぐ向こうで、光を浴びて生きていると思っていた。けれどそのも、光の下になどいなかった。抗うべき世界を擬した相手に感じていた陽の光は、そのずっと向こうで輝いていて、ただ彼女がそれを背後に立っていただけだった。

 その半身を影の中においたまま、光はここにあると叫んでいた。


 かつて幼かった私たちにとって、お互いは何者でもなかった。そんなものは関係がなかった。

 けれどそれはただ子供であったからでなく、天の与えた姿を偽って生きねばならないフェデリコにとっは、所与のものだった。あるいはそうした彼女が、身分も、宗教も、のあらゆる隔絶を越えようとする時、ただ手を差し出して待っていただけだとどうして言えるのか。

 彼女は自ら跳んでいたのだ。全速力で駆け、跳んで、届かずに転がり落ちて、それでも跳び続けていた。

 ただ私が、手を伸ばさなかっただけだった


「ふ、ふふ……あはははは……」


 おかしくなって、ハフサは笑った。笑って、喉を焼く血の熱さにむせ返った。


「ハフサ!」


 名を呼ぶエメスを、じっと見つめる。


(そうね、あなたは言ってたわね。手を取ったんだって。ただあなたには、それを自覚することも、うまく表現することもできないだけだったのよね――)


 ハフサはずっと忘れていた妹のことを思い出して、その頬に指を添えた。


「あなたは残酷ね」


 エメスの瞳が揺れる。


「知らなければ、彼女のこと……嫌いなままでいられたのに……」


 ハフサの言葉に、エメスは今にも泣きそうな表情で俯いた。

 その頬を、指で微かに拭った。やっぱり、こう言うのは意地悪だったろうか。でも良いかと思った。最期にちょっとくらい、意地悪をしたって。


「またね……」


 背を折ってその胸に額を押し付け、エメスは哭いた。

 その慟哭が胸を伝わってくる度、ハフサは自らの鼓動と共に身体から零れ落ちていくものを感じた。痛みが薄れてきて、意識が次第に透き通っていく。永い苦しみが終わろうとしている。

 ふと顔をあげると、そこは浜辺だった。

 蒼い地中海が陽を乱反射する、その眩しさに思わず目を細める。

 海に、幼いエメスが水しぶきをあげている。もうひとり、誰か少女がいた。こちらへ振り返った少女が、ハフサに手を振った。よく見知っている、けれど全てを脱ぎ捨てた、知らない姿の友人。

 約束の海を思い出し、私は手を振り返す。

 服を浜辺に脱ぎ散らかし、浜辺を蹴って駆けるうち、その姿はかつての自分を取り戻していく。

 エメスが水をふりまきながら顔をあげ、私の名を呼んだ。

 腕を拡げたあなたに抱き付き、水しぶきをあげる。


 海はどこまでも広がっている。

 だから私も、どこまでも泳いでいける――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る