第四十節
ハフサは自由の承認を買うことはなかった。勝手に自由になることを選んだ。それを元手に彼に投資を持ち掛けて結果を示し、アルトゥールの女でいることを辞め、ハフサの名を捨ててガブリエラの洗礼名を得て、そうしてここまで来た。
「私は女を蔑んだのよ、商才を認められて、足かせになるものは全て捨ててきた。私の才能を認めてもらうためにね。それでようやく、自由になれたのよ」
自由は結果だ。全ては後からついてきたのだから。
「ねえエメス、あなたはどうなの? あなたは……自由でいられてるの?」
「そんなこと……考えたことなんかありません。考えなくても、私は今のままで満足です……」
「そんなものは欺瞞よ」
ハフサが首を振る。
「あなたはかつての私と同じよ」
彼女は少しためらいながらも、溜息交じりに言い切った。
僅かな怒りをまとう刃は、かつての自分にもまた向けられる。かつてのハフサも、無邪気に、お互いを友達だと思っていた。そうした過去の自らをこそ、彼女は蔑まずにはおれなかった。
「私のご主人さまはいいご主人さまだ、私に優しくして下さるからって、自分には何も無いと思い込んでいるから、与えらえること自体が過ぎたるものだと喜んでいる……けどそれは、そのご主人さまが私たちに首枷を掛けなければ、自分で手に入れられたかもしれないのよ」
「違います……私はフェデリコ様の奴隷じゃない。フェデリコ様からは、何も奪われてない……!」
あえぐように、息を切らせて否定した。
「だったらどうしてよ。どうして、あんな男の傍にいるの? あいつと私たちは、最初から世界が違う。彼は王よ。尽くしたところで、何かが報われるものですらないというのに」
「報われなくたっていいんです、私は、約束して……それで……」
「無私のものとでもいうの?」
苦しげに頷くエメスを、ハフサは正面から見つめる。
「そんなものは、心が無いのと同じよ。そうやって剣を取るというのなら、あなたは誰かの命令で何も考えず人を殺すだけの、持ち主が思うがままに振り回す剣そのものじゃないの?」
ハフサの指摘に、エメスは愕然として言葉も出なかった。
「だけどあなたは剣じゃない。人の形であるだけに却って残酷だわ……まるで
約束をした。そう言い返したかった。
けれどできなかった。その答えは、それこそハフサの指摘を肯定することになりそうな気がした。
「そこにエメス自身がいないのでは、とても対等な関係とは呼べないわ。想像してみて。王でなくなった彼と、今の関係が維持できる?」
問われて、エメスは初めて、わずかに笑みをこぼす。
ようやく、ハフサの問いにまともに答えられるものが見つかった。そう思って、必死に笑顔を作り出す。
「……もし、王でなくなったら、東へ行こうって言ってくれました」
「東へ?」
「旅をするんだって。私も一緒にって、誘ってくれたんです。想像できます、考えられますよ、きっと……」
ハフサが苦虫を噛みつぶしたように奥歯を噛み締める。
「そう……それで私の誘いを断ったってこと。そんな話を、真に受けたの……」
「違います。ただ私は、ハフサも一緒に……」
「想像してと言ったのは、願望を語れって話ではないのよ!」
ハフサの強い否定が、エメスを突き刺す。
彼女は悲しげな表情で唇を閉じ、うなだれる。ハフサは椅子から立ち上がり、エメスのもとへゆっくりと歩いていく。
「生まれながらの王が、本当に地位も名誉も、何もかもを自ら捨てられると思っているの? エメスは本当に、そんな時が訪れると思ってる?」
否定のしようがなかった。フェデリコがそう言ってくれているのは、エメスの中では真実だ。けれど現実に彼女が置かれた状況と彼女が望むことを考えた時、夢はすぐに朧げな幻と知れてしまう。
仮にそれが訪れるとすれば、それはフェデリコが自らを偽らずに生きられる世界を迎えた時に他ならない。
そしてそれを手に入れようとすれば、フェデリコは否応なしに至高の権力者であり続けねばならない筈だった。それはとても遠い途往きで、その半ばで流れる血は今までの比ではない。
呪縛から解放されるために、あらゆるものを呪い、呪われる。
そうして絡み付いた呪いが結果として自らをまた自由から遠のける。そのことを解っていながら、なお歩みを止められない。それこそが呪いなのではないか。
呪われている。何もかも。
うなだれたまま黙るエメスの視界に、ハフサの脚が現れる。
ハフサは黙ったままのエメスを見下ろすと、肘を抱いたまま問い掛ける。
「フェデリコを愛してるの?」
エメスは肩をびくりと震わせながら、静かに首を振った。
あの時彼女の手を取った事に、フェデリコへの好意が結びついている筈が無かった。あれは全ての始まりではあっても、心と感情は時を経て育まれるものだからだ。
けれど、それでもなお彼女を否定できない、拒絶できないのだと感じてしまう。
「違う……違います。フェデリコ様は好きです。だけど私のは、そういうのじゃないんです……」
そう呟くエメスを、ハフサはじっと見つめた。
好きなのだろうと感じる。ハフサから見たエメスは、自分の中にある感情をそうとしか説明できないのだろうと思われた。ただそれが、身体的な愛や精神的な恋に連なるものではなかっただけで。
それはハフサ自身が、かつてアルトゥールに抱いた感情が、自発的な隷属の証でしかなかったことの裏返しだった。それほど多義的に無数の感情を包括しうる好きという言葉を前に、説明しきれない感情を誤魔化して押し込んできたのだ。
エメスは自分の感情も、自分の感じていることもうまく説明できない。
エメスと過ごすうち、ハフサにはそれが解ってきた。
ただ時々思いもするのだ。あるいはそれは、私たちが曖昧な感情に名前と定義を簡単に与えすぎているだけではないかとも。
けれど、それでも私たちは、割り切れない感情に名前を与えることで辛うじて生きてきている。自らの感情や想いに惑い続ければ、前へと進むことすらかなわないのだから。
だからそこにきっかけを与えることが、いけないことだとは思われなかった。
「エメス」
膝をつくハフサがその名を呼んだ。
ふと顔をあげたエメスの顎をとり、唇を重ね、深く、深く潜っていく。
エメスは鎖に繋がれたまま、抵抗するでもなくただ目を閉じた。全身の痛みも、その時だけは舌先の甘い痺れの中に掻き消えていく。
ぼんやりと、思考が鈍る。
離れる唇と共に、ハフサはふと視線を落とす。
「……フェデリコと、こうしたい?」
その問いが、答えなのだろうか。
エメスは無言のまま、力無く首を振った。
「ハフサ、私にとってはあなたが――」
口ごもる唇が塞がれる。
息苦しくなって、顔をよじると舌が糸を引き、ハフサは首筋に口付ける。
「だけど、私とはしたくなる。こんな状況になって、こうも私に痛めつけられたにも関わらず――なら、それが答えよ」
縄の痕を指がなぞり、真赤な傷に舌が這う。
その舌が肩から腕、腕から手へと進んで、剥き出しになった指を食む。
その鋭い痛みに身をよじる。歯を食いしばって痛みを訴えても、けれどそのハフサの蕩けるような愛撫に愛おしさをおぼえる。存在そのものを認め求められていると感じられる。
痛みを覚える毎に、エメスの意識は深く黒い泥に囚われていく。
「フェデリコは奪い、支配する側。私たちとは何もかも違う……あなたは報われるでもない、愛しているのでもない。けれどたった一度の約束に全てを委ねて、自ら奴隷の首枷を掛ける、自らをただ振るわれるだけの剣に貶める……どうして? それがあなたの望みだというの?」
頬を寄せて囁くハフサの声が、神経を痺れさせる。
そうだ。なぜ、私は――酩酊に似た感覚と中、答えなき思考が反響する。
「私とあなたは、お互いを望んでいる。愛しあえている」
屈みこむ影と共に、誰かの視線を感じた。
エメスを見つめる瞳。それが誰のものかもわからぬまま、エメスはじっと見つめ返す。寄せられる唇が重なり、口腔に甘露が滴る。
私は光ひとつ差さぬ地下堂にいて、人の言葉も解らず獣のまま生き永らえている。その地下を封じる戸が開かれて、光を背に彼女が現れる。それが自分と同じ
それが何を暗示しているのかが私には解らなかった。
十年前のあの日を示しているようでもあるが、もっと遥か昔の出来事のような気もしてしまう。
人の姿をした神が、手を取って地下堂から私を連れ出す。
いざなわれるままその後ろを歩いてきた。行き先はいつも彼女が示してくれた。
私は彼女の剣。私は敵に剣を振るい、肉を裂き、血を浴びる。それが私の使命。私に唯一できること。
戦が終わると、フェデリコは無邪気に笑う。
戦場を背にして笑う。笑って、抱きとめてくれる。無事だったか。強かったな。
その腕が腰にあった。その指が、私の前髪を梳いていた。唇が、額に口付けてくれた。鎧の戒めがほどけて、がらんと音を立てる。首筋に腕がまわって、肩が露になる。返り血を浴びたこの身を抱きしめられる。
そうじゃない。そんなこと、求めてない、求められてもない。やめて――否定は閃光となって弾け、拒絶は燃え上がって炎の渦となる。あの夜、あの村の風景が重なってぼやける。
けれど、違う。
ならどこだというのだろうか。パレルモか。ローマか。
解らない。そのいずれとも違うようでもあり、その全てでもあるように感じる。
全てが死に支配されている。炎が全てを舐めつくす。灰が降り積もり、死も何もかもを覆い隠していく。私は柔らかなベッドに組み敷かれ、神とも人ともつかぬ彼女を見上げる。
世界を包む死と灰に恍惚とする、私の知らない表情。愛する全てを敵に回してなにもかも破壊し尽す者の、激情と狂気。
「やだ……」
思わず声を漏らした。
けれど私は知っている。抵抗しても彼女はやめてくれない。思う存分、彼女は望むがままに私を扱って顧みることがない。そうしてまた私の手を取り、次の敵を殺せと命じる。
「こわい……いやだ……」
けれど今、それは彼女ではなかった。
「そう……ごめんね、エメス」
ハフサは焦点のあわぬ瞳で泣きじゃくるエメスから離れ、息を止めて香炉に顔を近付けると、ふっと炎を吹き消した。最後に立ち昇った煙を手で払う。
なおも怯えて泣くエメスを前にして、ハフサは、その傷だらけの身体をそっと抱いた。
筋張ったこの身体に眠る心は、輪郭が曖昧で、ひどく脆い。それをこそ、愛おしいと思う。
けれどエメスは、ただの剣であることに自らの存在を肯定し、自らに故なく誰かを殺し続ける――それが地獄でなくてなんだと言うのか。
数多の人を殺し、その度に傷つけられてきた肉体には、拷問の遥か以前から無数の傷が刻まれていた。それでも剣を手にし続けるのは、彼女の強さではなく、自らに惑うその弱さ故だと感じた。
フェデリコを裏切るより他に、その地獄から抜け出す術は無い。
早く吐いてしまえばいい。心の底からそう願った。
「私は違うわ。私にはただ、あなたにいて欲しい」
聞こえているのかも解らぬエメスに、そう告げる。
私は剣としてのあなたでなく、ただのエメスとしてあなたにいてほしい。隣にいて、ハフサとしての私を知ってくれていれば、それだけでいい。エメスもまた自分を、ガブリエラではなく、ただのハフサとして愛してくれている。
あなたが、ただあなたであるだけで存在を肯定されること。私たちはお互いを抱きしめ合える。
「ガブリエラは全てを手に入れたけど、ハフサにはあなたしかいないのよ」
私と一緒に来て。
私を求めて。互いを確かめ合わせて。私は全てを失ってなんかないって、そう囁いて。私がハフサであったことを覚えていて。ハフサって人間がここに存在することを、お願い、認めて。
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