第三十九節

 扉を開くと、むせ返るような臭気が立ち昇って来た。

 男が蝋燭を手に階段を下りはじめ、ハフサはその後に続いた。


「何か話した?」

「申し訳ございません。未だ貝のように口を噤んだままです」


 元獄吏のその男は、まるで感情の籠らぬ声をしていた。連日にわたってエメスに拷問を加え続けてきた男だった。

 男が蝋燭を掲げた先で、エメスがぐったりと俯いていた。鎖を掛けられた手足は壁に繋がれ、横になることもできぬままでいる。

 彼女は布切れ一枚身に着けておらず、その濃く健康的な色をしていた肌には、厳しい縛めの後が散々に残され、背や腹にはみみず腫れと青あざが浮かび、数え切れぬほどの生傷から滲む血は、肌に、あるいはその胸の刻印にじっとりと染み込んでいる。


「……髪は?」


 少し長かったはずのエメスの髪が散り散りになっているのに気づき、ハフサは思わず聞いた。


「切りました。いけませんでしたか。お約束には差し支えないとは思いましたが」


 男は言ってから、ハフサの様子を伺った。

 ハフサはじっとエメスを見下ろして首を振る。


「……まあ、少しね」

「それは失礼を致しました。ご容赦ください」


 彼は帽子を取って静かに首をたれると、部屋の一角にしつらえられた棚へと手を伸ばし、木の椀を手に取った。


「それと、ご留守がちでしたのでこちらも保管しておきましたが、いかが致しますか」

「何かしら」

「爪です」


 ハフサが眉を寄せる、男は疑問に答えるように付け加えた。


「持ち帰りやすい部位をに欲しがるお客様もいらっしゃいますもので。先ほどの髪も、束ねて保管してございますがいかがしましょうか」

「……いらないわ」


 彼女が呆れたように首を振ると、男は「そうですか」とだけ返して、特に気に留める様子もなく、それらを部屋の隅に堆積する屑山へと捨てた。

 彼には全くどうでもいい事らしかった。彼にとって拷問とは己の技術を発揮する場であって、そこにはある種の職人的自尊心すら感じさせた。事実男の手際は鮮やかであった。著しい苦痛が心身を蝕む一方で、エメスの生命は今なお健在なのだから。


「それにしてもひどい臭い……」


 ハフサは少し水で洗うよう言い、階上の男には荷物を持って降りるよう命じた。

 水桶を持った男が、エメス目掛けて乱暴に水をぶちまける。エメスの身体にまとわりついていた泥と血が洗われ、床に広がっていく。呻き、唇を濡らす水にその口が曖昧に開かれる。彼女が意識を取り戻すと、ちょうどハフサの部下たちが荷物を持って降りて来たところだった。

 ハフサがエメスの方角を指さすと、部下がずっしりとした大きな香炉を傍らに置いた。糞尿の臭い漂うの中に、甘ったるい花の香りが混ざる。エメスにとっては、久しく感じていなかった、心落ち着かせる五感への刺激だった。


「ハフサ……」


 俯いたまま、エメスの口が名を呟く。


「気付いたのね」


 この場にいる全員に部屋を出るよう命じると、部下も拷問官も全てが去っていき、背後に重々しく扉が閉じられる。ほのかな蝋燭の灯りだけが部屋をぼうっと照らす。

 ハフサは何かの布を抱えてエメスへと向き直った。

 エメスの顔にばさりと布が被せられる。エメスは恐れから悲鳴交じりに頭を振るい、ぐったりとしていた四肢であがいた。頭から布が滑り落ち、自分の膝の上へと広がる。そこにあるのは美しい刺繍に彩られた、エメスが着たこともないような絹のドレスだった。

 唖然として、エメスは顔をあげる。

 その髪は乱雑に切り払われ、そこには額と瞳があらわとなっていた。けれど全身がゆっくりと破壊され続けているにも拘わらず、その顔にだけ傷が無く、その瞳には変わらず金環が浮かんでいる。

 ハフサは彼女の瞳を覗き込んで、口元を微かに緩ませる。


「ねえエメス。あなたが話す気になれば、今すぐ一緒にここを出られるわ。また、あのサボンで身体を洗いましょう。その服を着て、身なりもきちんと整えて……髪はね、少し残念だけれど、ヴェールをしてもいいし、あるいは衣装や化粧をこそ髪に合わせて整えてもいいのだから」


 どこか諭すようでもあり、あるいは冗談のようでもあり、いずれにしてもハフサの声には嘲りや敵意は感じられない。

 けれどそれだけに、この異様な状況下に不釣り合いな薄ら寒さもまた感じさせる。


「あなただって、そうやって大切にされながら過ごすべきよ。寝るなんかじゃなく、本当に心の底から安心して、ぐっすりと眠るべきだわ、は」


 その言葉が孕む微かな違和感に、エメスは気付かなかった。彼女は疲労困憊に沈む意識を覚ますだけで精一杯だった。


「そんなの、いりません……私をフェデリコ様のところへ、帰してください……」

「まだ解らないの? 私と彼はとっくに敵同士なのよ」


 ハフサは少し離れた場所に椅子を引き、手で掃ってから腰かけた。

 弱々しく息を漏らし、エメスはぐらつく頭を持ち上げる。


「あなただって、フェデリコ様とは……友達だったじゃないですか……」

「私とフェデリコは、友達であって友達じゃなかったわ」


 ハフサの静かな声が、エメスの問いを明白に否定する。


「フェデリコは友達のつもりだったかもしれない。けどそれは、高みにいる者が下に声を掛ける振る舞いに過ぎなかったのよ……今でも覚えてるわ。あの日ね、エメスがフェデリコと食事するところを見て、少しだけ心が痛んだの」


 その理由を問い掛けるように視線を投げ掛けて、ハフサは数拍置いて答えを告げる。


「私は友達なのに、どうして隣に座らせてもらえないの。どうしてあなただけその席にいるのって……思えば両親は、私が食事を共にするのを決して許さなかった。そうした些細な一線は無数に引かれていた。それでも私が彼を友達だと思えていたのは、単に私たちが子供だったからよ」

「もしそうなら……フェデリコ様は、今だって子供のままです……」


 ハフサは鼻で笑わずにおれなかった。


「はっ! 彼が子供でいられたのはどうして? 私は子供ではおれなかったわよ」

「それ、は……」


 フェデリコが蟲毒の底で生きて来たことを、エメスは知っている。フェデリコの子供らしさは、誰かが無条件に与え護ってくれたものではなく、その中でもなお失われなかったものだった。

 けれどエメスは、それがどこから来るものなのか語る言葉を持たず、ハフサもまた答えを待ってはくれなかった。


「言ったじゃない。私は銀貨三十枚で売られたのよ? たった十歳やそこらの子供が売られて、何をさせられると思うの?」


 自嘲的な笑みが浮かび、ハフサは自らの胸元に手をやる。


の相手よ」


 十歳だった。銀貨三十枚に命を救われて、三年を娼館で過ごした。


「来る日も来る日も、とっかえひっかえ客の相手。私は村での思い出だけを心の拠りどころにしてた。けどね、娼館の関心は、私が潰れるまでにいかに稼ぐかだけ。の掛かってない私は、同じ娼館でも一等惨めな生活よ」


 高額な借金のかたに売られた者など、高値で買われた娼婦は、元手を取らねばならぬために却って大切に扱われた。ハフサのように安く買いたたかれてきた者は、それだけに扱いは過酷を極めた。

 娼婦同士にさえ一線を引かれる現実をまざまざと見せつけられるうち、思い出にあった、見えない一線が浮かび現れてくる。


「私たちの間にはそこかしこに線が引かれていた。王族と平民。カトリックとムスリム。男と女。本当は、何もかもが隔たれていたのよ」


 彼女は自分の胸元、すっと斜めに線を引く。


「エメスも知ってるでしょ、私の身体は傷物よ」


 鎖骨から反対の脇腹の辺りへかけて、骨の表面に肉を削いだ刃が残した、大きな傷痕。蝋燭の灯りひとつない夜にもはっきりと感じられる、僅かに歪んだ一列の肌。

 目にするたび胸を締め付けられるエメスが、それでも決して目を逸らさずにきたもの。


「だからも大勢いたわ。想像できる? 泣き喚いて許しを乞う子供をいたぶる男の、喜びに満ちた顔」


 想像ができるようで、できる筈もない。

 エメスとて、蔑みの視線、心無い陰口は無数に受けてきた。けれどそんな時は、必ず誰かが間に割って入ってくれた。戦場でのそれも、闘争心と殺し合いの中に見られるもっと渇きと餓えに満ちたものだ。

 人が他者に対し、あるいは同じく人であるからこそ見出す、歪んだ支配欲の発露と、それが満たされた歓喜。

 そんなものがエメスには想像できなかった。


「彼ら、なんて言うと思う? これは罰だと言うのよ、口を揃えて。こうやっていたぶられるのは、私が悪いんだって。穢れていて、賎しくて、能力も意志もないから、こんな場所にいるんだ、だから自分は罰を代執行してるとでも言うのよ。ほんと、笑っちゃう……」


 そう呟くハフサの目も口も、ぴくりとも笑わない。

 は人だが、そう扱っていい――それは人が長じるまでに、繰り返し刷り込まれてきたものだ。このような場所で自らに暴力を振るわれているとしても、それはこのような場所に流れてきたこの少女に責があるのだから、と。


「だから彼らは、最後に優しくするのよ。私の罪を許して下さるというわけ。彼らにしてみればそうよね、彼らは私を……在るべきところから逸脱した愚かな娘を然るべく扱っているに過ぎないんだもの」

「そんなの、おかしいじゃありませんか……」

「そうよ、おかしいのよ。何もかも」


 ハフサがようやくに微笑みを見せるが、エメスはちっとも嬉しくは感じられなかった。今の自分が置かれている状況故ではない。ただハフサのその笑みが、ひどく自罰的なものに思えたからだ。

 当事者であり、それ故にその欺瞞をはっきりと理解している筈のハフサ自身が、それを内面化してしまっている。そうでなければ、自嘲でさえないその笑みは何だと言うのか。まさにその身に刻まれた世界観によって自らを罰しようとしている、そうとしか思われなかった。

 ハフサはなおも、その笑みとともに話を続ける。


「そうなれば、人間は二種類になるわ。その偽りの優しさに縋ろうと愛想と媚を振りまくか、あるいは全てを諦めて無感動になるか。私は後者だった」


 そうしてただ時をやり過ごすだけの日々が続いたある日、その男は現れた。


「この間話したわよね、アルトゥールって。彼が私を買ったの。金貨十枚……ずいぶんな大盤振る舞いよ」


 娼館に来た彼が金貨十枚でひとり買うと告げると、娼館主は上機嫌で注文通りの女を並ばせた。

 条件は十代前半以下、勤続数年以上。彼は品定めをするように順番に自己紹介をさせた。誰もが自らを買ってもらおうと必死だった。愛想よく笑い、いかに自分が奉仕できるかを競い合った。


「私はもう何もする気にならなかった。彼の顔を見もせず、ぼそぼそと名前を呟いてそれっきり……それでも、買われたのは私だった」


 何が理由だったのかは、未だ尋ねられずにいる。

 あるいはそれが何であっても関係無かった。


「そこでの暮らしは、娼館よりずっと良かった。けど疑問を口にした瞬間、その全てが幻になるんではないかという気がしたわ」


 人々は皆厳しく、作法から言葉の使い方まで全てを躾け直され、かわりに豊かな生活を与えられた。柔らかなベッド、暖かい食事、絹の服、サボンの香り。


「良い暮らしだったわ。まるで安息の地マアワーだと思った。遠い記憶に残ってた、大切な思い出の暮らしまで、豚に等しかった感じがした」

「やめてください、そんな言い方……私はあの日、たった一日だけでも、それが豚のようだったなんて感じてません……」


 思わず割って入ったエメスに、ハフサは慈しむように話し続ける。


「ありがと、そう言ってくれて……でもねエメス、彼に拾われた私が、かつての自分をそう感じてしまった事は偽りようのない事実なのよ。人間が本当に尊厳を捨てるのは、そういう時なの。感謝してしまうのよ、自らの境遇に……」


 旦那さまアルトゥールのお相手をする。

 そうすれば、私は豚でなく人になれる。


「豚どころではないわ。それを喜んでた私は豚以下よ」


 その相手をする度、心の底から感謝をささげた。ありがとうございます。私を人間にしてくださって。私はしあわせです――磨き上げられた鏡に、わたしが写っていた。

 吐き気がした。

 けれど、何も出てこなかった。


 ハフサの話にエメスは思わず目を逸らした。

 そのエメスの反応が、ハフサには愛おしかった。彼女は少し表情を和らげて、逸らされた目元を追うようにして話し続ける。


「ある日ね、彼に仕える使用人の一人が、病気の妹を抱えてることを私に話したの」


 重い病気なの? ハフサの問いに、その彼は重々しく頷いた。彼は高名な錬金術師から薬を買っていることをふいに口走り、ハフサは何気なく聞いた。本当に、特に意図もなく聞いたのだ。

 薬代はどうしてるの。

 その使用人は、青い顔を見てぎょっとしてハフサを見返していた。


「ああ、盗んでるんだって……そう直感した」


 取り繕う使用人を信じたふりをして、アルトゥールとの次の夜を待った。


「告発したんですか……」


 エメスの問いに、ハフサは小さく首を振る。


「その時も私は、大切な旦那さまに褒めていただこうって、ただそれだけだった。けどね、寝室で訪問を待ちながらふと気付いたの。帳簿だって」


 その使用人が金を誤魔化せるのは、彼が帳簿係で、アルトゥールが直接に帳簿を付ける訳ではないからだ。商館では膨大な取引がやりとりされていて、支配人はその全てに目を通せるものでもない。

 ならば、計算上の辻褄があってさえいれば、不正に気付くことは困難だ。

 ハフサはその晩、アルトゥールに横領を告げなかった。


「私が何でそうしたのかは今でも解らないわ。いつだったかの夜に、鏡を見て吐き気がしたからかもしれない。自分が何なのか気付いてしまったから、人間になりたいかったのよ、きっと……」


 あくる日、彼女は帳簿係に話しかけると、妹さんにと言って、自分に与えられた菓子をヴェールに包んで差し出した。それからハフサは彼と親しくなり、アルトゥールがいない時は、薄暗い部屋でひとり帳簿をつけている彼と話をしにいった。

 そうしてハフサは、彼から帳簿の読み書きを教わった。


「あとは、帳簿の矛盾を示すだけでよかった」


 怪訝そうな視線を向けるエメスに、ハフサは微笑む。


「帳簿係に聞いた話を耳打ちしたところで、私の世界は何も変わらないわ。主人に尽くすのまま。だから私は彼の名前は出さなかった。帳簿がおかしいと告げたのよ」


 旦那さま。私、帳簿を覗いてて、変なことに気付いたの――自分を見るアルトゥールの目付きが、少女を弄ぶ男でなく、冷徹な商人のそれに変わった瞬間だった。

 その眼差しに、吐き気はしなかった。


「数日して帳簿係は姿を消したわ。妹さんがどうなったのかは知らない」


 事も無げに告げて、ハフサは首をもたげる。


「アルトゥールは私に金貨を一枚与えて言ったわ。使いなさいって……だから私は、使った。一枚だった金貨を二枚にした。二枚を四枚にして、四枚を十枚にした」


 金貨が十枚に達した時、アルトゥールはハフサの耳元に囁きかけた。


「買わないのかって、そう聞かれた。けどね、その頃にはもう気付いてたのよ」


 かつて誰のモノでもなかった自分。

 巻き添えで全てを失って少女は銀貨三十枚で売られ、手元には一銭も入らぬうちに、いつのまにか金貨十枚で買わなければ自由すら手に入らなくなっている。どうして、唯々諾々と金貨十枚を支払わなくてはならないと?

 ハフサはこれをおかしな話だと思い、かつその構造を理解しもした。


「彼から買う自由って何だと思う? 私が自由ですって誰かが保証してくれるというの? そんなもの、誰も守ってはくれないわ。あの夜、誰かが私を守ってくれた?」


 俯き、目を逸らすエメスに、ハフサは構わず話し続ける。


「解るでしょ、私の才覚と力だけがこの自由を保証してくれる。私が金貨十枚を集められたから……力を示したから自由に手が届いたのよ」


 そこで自由を買い戻すことは、自由を誰かが保証し与えてくれると捉え、それを他者に再び委ねてしまうのと同じことだった。そうして奪われるままの側でい続けるのか。そのことを自らに問うた時、道は決した。


「銀貨三十枚なら買うわ」

「仕入れ値以下では売らんよ」


 アルトゥールはそう言って苦笑し、それっきり二度と話題に上げることは無かった。

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