第三十八節
男がゆったりと椅子に座る。エメスの様子を見に来たあの男だった。
彼はここでも変わらず顔を隠しているが、余裕の笑みを浮かべているのが布越しにも解った。彼の目の前にはハフサが腰かけており、こちらもくつろいだ様子で頬杖を突いている。
辺りには潮の香りが満ちており、部屋そのものが揺れている。二人がいるのは船室だった。パレルモの埠頭に接岸された商船だろう。
ハフサが首を傾げ、口を開く。
「叛乱軍は山に籠って守りを固めました。私が見たところ、士気は十分と言えるでしょうか……」
ハフサは主たる交渉人の従者のふりをして、叛乱軍との交渉の場に紛れていた。その彼女の眼から見て、叛乱軍は士気旺盛なだけでなく、首領の統率が行き届いており、また彼らには確かな戦略的判断も伴っていると感じられた。
それらが欠けていれば、補給を都合したところでどうにかなるものでもない。
場合によっては、一面的な協力関係に限ることも考慮に入れていたが、その点ではまず信頼に足る同盟者と言えそうだった。
「こちらからは武器と食料を与えましたから、当面の補給も心配いらないはずです。モリーゼ伯の動きは順調なのですか」
エメスの前では黙っていた男も、今はその上品な声を披露して、
「滞りがあれば、このような所でのんびりなどしておれんよ」
「……確かに、申し訳ございません」
くすくすとハフサが笑うと、男もつられて笑みを漏らす。
「伯の下に集まった諸侯の数は二十を超えた。彼は近く兵を挙げるだろう」
モリーゼ伯が秘かに盟を呼び掛けると、まずは取り潰しを恐れた数名の諸侯がこれに応じた。核となる戦力が揃うと、風見鶏を決め込んでいた諸侯が旗色有利と見て加わり始め、盟は急速に膨らみ始めた。
モリーゼ伯は元々、騎士を含む一五〇〇人もの軍勢を単独で動員できる。ここに集まった諸侯の兵を合わせれば、軍勢は六千人を数えるだろう。部下の報告では、彼らは二千の兵をカプアに差し向けて抑え込み、途上で更に諸侯を味方に組み込みつつ、一路パレルモを目指す作戦だという。
男がふむと声を漏らし、顎に手をやる。
「問題は……秘密の件か」
彼らにとって残る懸念は、フェデリコとの協力関係にある教皇のことだった。
フェデリコの皇帝就任はもはや公然のものとして世間から見なされており、モリーゼ伯の公然たる決起も、ともすれば教皇に刃を向けるものとも受け止められかねない。
だがフェデリコの抱える秘密というものが、帝位を揺るがせかねないものだとすれば、その廃位に大義名分を得られる。
男がハフサへと視線を転ずると、彼女はしかと頷いた。
「あれだけ抵抗してるんですもの。シチリア王の致命傷になる筈です」
ハフサはフェデリコの名を呼びもしなかった。
男は足を組みなおし、こめかみに指をやる。
「あるいは……それ以上の利益を、我々にもたらしてくれるかもしれない。新たなローマ皇帝にまつわる風聞が真実となれば、それは彼らにとって致命傷たりえる。場合によっては教皇自身にとっても」
「ええ、その為にも、あの子には真実を吐いてもらいます」
微笑んだまま言葉を返すハフサ。
男は少しばかり呆れたように首を振る。
「友人ではなかったのか?」
「一日だけのことですよ」
「恐ろしい女だ」
「そう教育なさったのはどなた?」
ハフサの挑発的な物言いに、男は皮肉っぽく口元を歪める。
「忘れていたよ。あまりに立派に育ったのでね」
彼はその名をアルトゥールと言った。ジェノヴァ市の商組合に加盟するコラボラシオ商会の代表を務めていた。彼の商会は規模で言えば中堅どころといったところだったが、それは表向きの話だ。
アルトゥールは慎重な男だった。
彼はひとつの商会で複数の組織と取引するよりも、表向きは独立した商会に分担させることでそのリスクを分散させるのを良しとしてきた。
ハフサが経営を任されるココ商会も、いわばそうした組織の一角だ。このアルトゥールは、モリーゼ伯とすら顔を合わせていない。そちらへ送り込んだのも、ハフサのような子飼いの部下だった。
そうして彼は、勝敗が決した末に、その勝者へ祝祭の葡萄酒を
「護衛ひとり捕えるのに随分念入りのようだったね?」
彼が視線を向けたのは、ハフサの背後に立つ護衛の男だった。その護衛はフードを被っているが、エメスが見れば一目で誰か知れただろう。降誕祭の夜、エメスとハフサを襲った手練れの物盗りだ。
ハフサはちらりと背後の護衛へ視線を向ける。
「あの子を生かしたまま捉えるとして、どれくらいの戦力が要るかしら」
「……俺と同じ腕前なら、少なくとも六人。素人じゃあ、十、二十集めたところで取り逃がすのがオチですかね」
ハフサがにこりと男に向き直る。
「ということです。ご納得いただけました?」
「なるほど、よい買い物をしたわけだ」
「確実性もありませんしね。それに……あの
ふと、傍らの護衛が眉を寄せる。
「
「そうではないの? 私にはそう見えたけれど」
「そんな恰好でしたかね……それに奴は、そんな大した腕前じゃなかった筈ですが」
「……? まあいいわ。気にしないでちょうだい」
ハフサも少し違和感をおぼえたようだが、それも過ぎたことだ。
死んだなら支払いも浮いたことであろうから、特に気に留めるべき理由は無かった。二人のやり取りを眺めていた男が、そろそろ時間とばかりに立ち上がる。
「あの娘の始末と、叛乱軍への対応は引き続き任せますよ」
「えぇ。お任せください」
笑って、ハフサも席を立った。
船を去るアルトゥールを見送り、護衛も下がらせて一人船室に戻った。
船室に固定されたベッドに身を横たえ、眼を閉じる。一晩めは、まんじりともせずに悲鳴に耳を傾けた。エメスの悲鳴が弱まって休憩が始まったころに、彼女は廃墟を後にした。
それから五日が経っている。
眠気に身を委ねるとエメスの悲鳴が耳に残響となって現れ、愛らしい笑顔が瞼の裏に浮かぶ。ぞわりと背筋が総毛立つ感覚をおぼえ、ハフサは自嘲的に頬を歪める。
(恐ろしい女、ね)
敢えて否定しようという気にはならなかった。
翌日、ハフサは何食わぬ顔で商館へと戻った。
商館では留守のうちに決裁を待つ取引が幾つか溜まっていた。ハフサはさっそくそれらの決済に取りかかったが、一枚目の契約書に眼を通したところで、使用人が遠慮がちに来客を告げた。
「お仕事中のところ申し訳ございません。ガブリエラ様に会いたいとご来客がございます」
「誰かしら。下で応対できないの?」
「それが……王宮の騎士さまのようで、人探しをしておられるとか」
視線を上げ、ハフサは頷いた。
「解ったわ。通してちょうだい」
それから数分後、応接間に現れたのはサーリフだった。
互いに挨拶を済ませて、彼は正面から切り出した。
「ご協力感謝します。人探しをしてまして、陛下の護衛を努めていた騎士が一人行方をくらましてるんです」
「まあ、こんな大変な時期に……お名前はなんという方ですか」
「エメスと言うのですが、ご存じありませんか?」
サーリフがちらりとハフサの顔を見やる。
彼女は心底驚いた様子で、サーリフへ問い返す。
「エメス……彼女がですか?」
「ご存じなんですね」
「ええ、市場で困っていたところを助けていただいて、それから親しく……何度かここへお招きしたこともあります。いったいどうされたんですか?」
眉を寄せ、心配そうに声を曇らせる。サーリフは暫くハフサの顔を見やっていたが、やがて言葉なく小さく首を振る。
「解りません。仰るように何度かあなたとご一緒だったというのを市場で聞いたもので、何かご存じかと思ったんですが」
「どう、だったかしら……最後にお招きしたのは、確か十日ほど前だったかしら。その時は何もおかしな様子はなかったけれど……」
ハフサはすらすらと述べる。
九日前にエメスがここを訪ねているのは事実だった。
叛乱の発生が五日前。サーリフはいつから行方知れずだとは伝えていないが、ハフサはそんなことまるで知らぬ様子で振舞ってみせる。
昼間に正面口を通って二階へ招き入れたから、使用人も客も彼女の姿を見ているはずだ。その上でこれを十日ほどと言ったのは、あまりに記憶が正確ではかえって不審だろうとの計算が働いていた。
「ごめんなさい。あまりお役に立てそうになくて……使用人たちにも、何か聞いてみましょうか」
「邪魔でなければ、彼らと話をして構いませんか」
サーリフの問いにハフサはこくりと頷く。
「ええ、もちろんです。家政に案内させましょう」
立ち上がり、ドアを開いて人を呼ぶハフサ。
サーリフも退出しようとその隣を通り抜けた時、ふいに何かが香った。彼は足を止めて少し考えた様子で振り返る。
「何か香水を使っておられますか」
「香水……ああ、サボンかしら。北イタリアから取り寄せたの」
そう言われて、それがエメスと同じ香りであることに気が付いた。
「それは――」
「彼女にお譲りした時も、すごく喜んでいたのだけれど……」
彼が何かを問うより先に、ハフサはそう呟いて視線を落とした。
「お願いします。彼女のこと、必ず見つけてあげてね」
それっきりサーリフは何も聞けなかった。彼は商館を巡って何人かの使用人にエメスのことを訪ねて回ったが、めぼしい情報は何もなかった。
ハフサは、使用人たちに何ひとつ裏の顔を見せていなかった。
唯一家政のみが、幾ばくかの事情を伝えられているに過ぎず、その家政は今、サーリフを案内人たちの下へ案内する役を命ぜられ、使用人たちの言動に問題が無いかをきちんと監督している。
秘密を守るには、秘密を知る者は少なければ少ないほど良い。
ハフサは叛乱軍との交渉に同席するために数日商館を留守にしていたが、あくまで商談があると告げて商館を空けており、またその日程もエメスが失踪した翌々日からの事だった。
使用人らはハフサの留守を正直に告げ、また一方ではエメスが遊びに来ていたのも口を揃えて昼だけであると答えた。
サーリフはエメスに好いている人がいると気付いている。
ただエメスが口を滑らしたその名はハフサという、いかにもムスリム然とした名であって、ガブリエラなどではなかった。
対する使用人らは、ハフサの元々の名前さえ知らない。
彼らにとってのハフサはやり手で気前が良いココ商会の女主人、ささやかな秘密を抱えるガブリエラ以外の何者でもなかった。あの人が行方知らずと知らされて、ご主人さまもたいそう気を揉んでおられるだろう――彼らにあったのはそうした同情心だけであって、それが彼らの言動を柔らかく真摯なものへと変え、サーリフに疑いを抱かせなかった。
家政に礼を言い、商館を後にするサーリフ。
(関係あると思ったけど、見込み違いか……)
彼は去り際にもう一度商館を見上げた。
僅かな違和感はあるが、証拠も決定打も何も無い。ココ商会のガブリエラはただの親しい友人であると結論付けるより他無かった。
やはり、ハフサだ。
エメスがその関係をおおっぴらにできなかったとしても、サーリフにはそれが痛いほどよく解る。それでも、仮に糸が繋がっているとすればそこしかない。
彼はそう思い直すと、数名の衛兵を引き連れて市内の雑踏に戻っていった。
ハフサは少しずらされた窓の戸板からそっと階下を窺っていたが、訪問者が去ったことを確認して少なからず緊張を解いた。
(エメスの身柄までは辿り着けないとは思うけれど)
商館からはひっきりなしに商品が出入りする。エメスは眠らせたまま商品の樽に詰められ、昼間に堂々と運び出されていた。
そうして商取引を装って部下に引き取らせ、それから地下に運ばせているのだから、家政と共に樽を運び出した使用人が知っているのは倉庫で商品の引き渡しを済ませたまでで、中にひとが詰め込まれているなど露ほどにも思わなかっただろう。
とはいえ、エメスが
(もっとも、サボンの話をされた時は肝が冷えたけど)
彼女は執務机に腰を下ろす。
そうして引き続き決済に取り掛かろうとしながら、ふと手を止めた。彼女は応接間を出ると人を呼び、沈んだ顔を見せながら力無く告げる。
「今日は休みます。部屋に何か暖かいものを……」
「……かしこまりました」
使用人が気の毒そうな顔をして台所へと飛んで行く。
ハフサはそうして着の身着のままでベッドへ潜り込んだ。
今の自分は、大切な友人の失踪を知らされたのだ。商決裁などとてもではないができる状態ではない――そういう事だ。
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