第二十八節

 十二月二十五日、キリスト降誕祭。

 カトリック教会にとっての降誕祭は、イエス・キリストイェズス・クリストゥスがナザレに生誕したことを思い起こす日だ。聖書に生誕の日付は記されておらず、従って彼が生まれた日は判然としない。


 エメスは、フェデリコらと共に、前夜二十四日の晩祷に参加した。キリストの降誕を祝う前夜祭と位置づけられるもので、夜の祈祷を経て、深夜〇時には改めて聖餐式ミサを執り行い、羊飼いが天使から降誕の御告げを授かったことを祝する。

 教会の鐘が打ち鳴らされる。

 パレルモの聖ジョヴァンニ・エレミティ聖堂は真赤な美しいドームを備えた、ノルマンとアラビアの文化が融合した聖堂で、そこで執り行われたミサには深夜にもかかわらず大勢の市民が参加した。


 もちろん、降誕祭はまだ終わりではない。

 一旦眠ったのち、陽が昇って二十五日の午前にはモンテアーレ大聖堂ドゥオーモへ移動し、降誕を祝う聖餐式ミサの本番が執り行われる。

 モンテアーレ大聖堂はパレルモの首都大司教管区を担っている。高い城壁と十二の塔に囲まれ、内部には修道院と陽の差し込む回廊を備え、ビザンチン様式の意匠と繊細なガラスモザイクに彩られた美しい大聖堂だ。

 フェデリコは王として全ての式に通しで出席しなければならず、市民を代表して司教の言葉を受けたり、あるいは逆に王として市民に語り掛けたりと忙しく過ごさねばならない。

 司教らの説法もよくよく長い。ベラルドゥスがいれば皮肉や冗談交じりに親しみやすい説法をしてくれただろうが、カプアにある身ではそうもいかなかった。

 一連の儀式にはカナに連れられたエンリカや、ビーチェ、アルフレードなど皆も参加しているが、サーリフたち十数人の姿は無い。


 彼らムスリムにとってもイエスイーサーは重要な預言者の一人だったが、降誕祭を祝う習慣はなかった。

 ただ隣人の祝祭に水を差すものでもないから、彼らは別途礼拝堂マスジドに集まり、隣人の幸せなるをささやかに祈念した。偶然にもこの一二一五年の二十五日は金曜日で、彼らには金曜の合同礼拝アル・ジュムアもあって、ドゥオーモの聖餐式ミサの鐘に続いて、マスジドからは呼び掛け人ムアッジンによる礼拝サラート呼び掛けアザーンも唱えられることになった。

 また、コンスタンティノープルやギリシアなどに出自を持つ正教徒オルトドクサイエスイイススの降誕祭を祝うが、彼らもまた別の席を設けている。

 もっともこちらは同じキリスト教徒だから、個人レベルでは行き来も多かった。現にアルフレードなどは両方に顔を出している。



 エメスは、洗礼は受けていなかった。

 以前、一度だけ洗礼を受けるべきか相談したことがある。

 帝冠を求めてドイツに辿り着いてから一年ほどした、ある冬のことだった。ドイツの地はパレルモのように諸宗教入り乱れる環境でなく、そこにはカトリックの他には誰もいなかったし、東方の彩が濃い外見が目立ったのもあってか、エメスには陰口が絶えなかった。

 エメスはなにも、洗礼を受けていないと公言して回った訳ではなかった。

 ただ、何かの会話の折に洗礼名を問われて、まだだと正直に答えてしまったために、それが噂になってしまった。

 そうして暫くが経った時だ。

 暖炉の前で談笑するフェデリコとベラルドゥスの前へ現れて、エメスは言った。


「私、洗礼を受けたいんです」


 エメスは、まるで子供が何かをねだるような様子で、指を弄びながら遠慮がちに切り出した。

 その言葉に、二人は最初ぽかんとして互いに顔を見合わせた。

 ベラルドゥスは、望むなら私が請け負っても構いませんがとフェデリコへ水を向けるが、その意図するところは明白だった。エメスを椅子に座らせたフェデリコは事情を話すようエメスに促し、理由を一通り聞き終えると静かに首を振った。


「受ける必要ない」

「ご命令なら、諦めますけれど……」

「もちろん命令なんかじゃない。本当に望んでるなら、私は反対しない。けどエメスが望んでいるのは、そういう話ではないだろ」

「それは……けど私……」


 ベラルドゥスは黙って二人のやり取りを見守った。本来ならば聖職にある彼こそが助言して然るべきところだが、彼はエメスの事情も理解していたからか、あえて黙っていたのだろう。

 口ごもるエメスに、フェデリコははっきりと言ってのける。


「疎外感を紛らわすためになんて、あまりにも悲しいじゃないか」


 諭すような言葉にエメスは俯いた。

 そんな彼女を前にして、フェデリコはすっと立ち上がった。


「エメス、ちょっと外に出よう」

「風邪をひかれます」

「私のことはいいんだ!」


 頬をを膨らませたフェデリコは、エメスの手を引いてずんずんと歩き出していく。ベラルドゥスも遅れて後を追い、廊下ですれ違った人たちも何事かと振り返る中、フェデリコはまっすぐエメスを中庭へ連れ出した。

 一晩雪が降り積もった中庭には、美しい銀世界が広がっていた。

 フェデリコは様子を見に来ていて侍従に木剣を取って来させると、それをエメスへと放った。木剣を掴み、ぽかんとするエメスへ剣の切先を向ける。


「勝負だ。一本先取、加減は無し!」

「フェデリコ様、それはどういう……」

「いくぞ!」


 言うが早いか、フェデリコはローブを脱ぎ捨て、木剣を振りかざして駆け出した。エメスは反射的に木剣を構えると、フェデリコの剣をかわして後ずさる。


「何でですか!?」

「はあああ!」


 エメスの問いに耳を貸さず、フェデリコは木剣を繰り出した。

 何事だと騒ぐ野次馬たちがドアを飛び出し、窓から見下ろす。諸侯らの宿舎として宛がわれていた建物には大勢の騎士や侯がいた。

 ドイツの諸侯や騎士らが武勇を尊ぶことは他国の群を抜いている。彼らもそう自認していて、その彼らが推戴した王が、護衛の騎士に突然の稽古を付け始めたと見えて、誰もが興奮を隠せない様子だった。


「どうした! 動きが鈍いぞ!」


 空を切る鋭い突きが、エメスの頬を掠めていった。エメスの瞳を彩る金環が木剣を追い、にわかに輝きを増す。

 フェデリコは攻めの姿勢を崩さず、エメスは防戦一方の感があった。

 ひと際鋭い斬撃を打ち払い、エメスは一歩を引き下がる。

 足場の雪を舞い上がらせながら、彼女は利き足を踏みしめる。

 なおも打撃を加えんと剣を振るうフェデリコだが、エメスの木剣はその重たい一撃を受け止めた。木剣同士が打ち合わされる激しい音。鍔迫り合いが木剣を軋ませたその直後、フェデリコの木剣がかちあげられた。

 一瞬、空気が凍り付いた。

 木剣ががらんと地面に転がって、フェデリコが胴をしたたかに打ち据えられ雪の中にひっくり返る。

 歓声を上げていた諸侯も騎士らも、皆ぎょっとして視線を注ぐ。


「ぁ……」


 我に返ったエメスが、木剣を放り出してフェデリコに駆け寄る。


「フェデリコ様、お怪我は!?」

「つぅ……」


 胴体に一撃を喰らって、フェデリコはぜえぜえと喘ぎながら上体を起こした。

 おろおろと伸ばされたエメスの手を払い、フェデリコは膝を揺らしながら立ち上がると、周囲をぐるりと見回す。


「どうした! この武勇の士に賛辞を贈らぬか!」


 ベラルドゥスが片眉を持ち上げ、気の無い拍手を送る。それにつられるようにして、一人、また一人と拍手が上がったかと思うと、中庭は歓声と喝采に包まれた。人々がフェデリコに駆け寄って肩を貸す中、ぽかんとするエメスにも数名のドイツ人騎士らが駆け寄り、次は自分だと木剣を拾い上げて手合わせを申し入れる。

 フェデリコの怪我が気になって仕方ないエメスは気もそぞろだが、侍従らに肩を借りて館へ戻っていくフェデリコは、ちらりとエメスを見やると悪戯っぽくウィンクしてみせた。


「パラメデス!」


 誰かがエメスをそう呼んだ。

 エメスを取り囲んでいた騎士らがそちらを振り返り、そうだとばかりに口々にパラメデスの名を呼ぶ。

 近年流行りの詩に登場する、騎士トリスタンの好敵手たるサラセンムスリム騎士の名だ。エメスはカトリックでなければムスリムでも無い。それでも彼らにとって、エメスとパラメデスはただカトリックではないという点で等しかるのであり、彼らはただ勇猛な異教徒の戦士、その代名詞としてパラメデスの名を借りたに過ぎなかった。

 高貴で勇敢なる異教徒の騎士――それは異世界に対する幻想と思い込みに彩られた、一面的な視点がもたらす反転した称賛でしかない。

 けれどもエメスには、それだけで十分だった。




 降誕祭のミサが終わると、人々は皆帰路に着いた。

 大切な時を家族と共に静かに過ごす――というのは建前で、何かと理由を付けて騒ぎ立てるのが人の倣いだ。人々はそれぞれの家庭で、あるいは互いの家を訪ねて小さな祝宴を設け、共に酒と料理を楽しむ。

 フェデリコらも同様だ。建前としては身内の祝宴ということになっているが、宮殿の門戸は開かれ、多くの人々が挨拶に訪ねてくるから、名実は乖離している。


「そういえば、エメスはどうした」


 その祝宴もひと段落したころ、フェデリコはふと気付いて周囲を見回した。

 陽が沈んで暫くすると門も閉じられて、ようやく身内でのんびりできる時間帯だ。サーリフらも合流し、家族や気心の知れた城の者たちと気楽に飲食できる頃合いだというのにどこへ行ったのか。

 何人かが退席するのを見ただけで、誰もエメスの所在を知らなかった。



 空はとうに暗くなり、星々だけが楽しげに瞬いている。

 軽い足取り、小走りに駆けるエメスの口元から白い吐息があふれる。

 人々は皆家に帰った後だったし、何より夜も更けて人影は殆ど見られなかった。大きく坂を下った先で露店市の通りへと入っていくと、広場に連なる階段の影から、ひょっこりハフサが顔を出す。

 ハフサは目立たない、その辺の町娘といった格好をしていた。


「エメス、こっちこっち」


 声を落としてくすくすと笑うハフサ。別に普通の声量で喋っても良い筈なのに、人のいない通りに二人だけ話していると、なんだかいたずらをしたりしているようで、自然と声を落としてしまう。

 ぽおんと放られたデーツをキャッチして、二人で歩き始めた。

 けれどその途中、ハフサは商館へ向かう最短ルートから外れた道へと足を進める。エメスが立ち止まって道を見回すと、ハフサが振り返って道を指さす。


「少し散歩していきましょ。夜は長いんだもの」

「……そうですね。行きましょうか」


 ハフサが手を伸ばす。その手のひらに触れると、ハフサの細指がエメスの指をきゅっと包んだ。

 ハフサが先導するでもなく、ほとんど肩を並べて歩いていく。普段賑わう大通りも猫がうろつく路地の影も、どこもかしこも二人だけのもの。そんな気分にさせてくれる。

 会話は心地よい退屈さを伴っていた。

 司教の説法が退屈だったとか、この間見かけた犬がおかしかっただの、そんな事ばかり。ハフサは商人だから、商売の話ならもっとたくさん話題もあっただろうけれど、彼女はエメス相手にそういった話はあまりしなかった。

 エメス自身がちんぷんかんぷんといった感じだったからだろうか。だから他愛のない、エメスに一週間あったことを聞くようなやりとりが多かった。エメスはもっぱら、皆の話をして、中でもフェデリコの話題には事欠かなかった。


「エメスはほんとにフェデリコ様のことが好きなのね」


 そう言われると、エメスはなんだか何も言えなくって恥ずかし気に俯いてしまう。そんなことないって否定するのは変だったし、そのとおりだと肯定のも何だか違うような気がした。

 エメスの頬が赤らんだのは、冬の寒さばかりではなかった筈だ。


「妬けちゃうよ、ほんと」


 ハフサが首を傾げてエメスを覗き込み、白い吐息が唇から漏れる。切れ長の目がエメスを見つめると、その瞳には満天の星空が映しだされ、エメスはその美しさに思わず見とれた。

 そっと頬へ伸ばされる、ハフサの指。

 ほのかに漂う、柑橘のようなかんきつの香りがエメスの鼻腔をくすぐる。伸ばされる指がぴたりと頬に触れた瞬間、エメスは声をあげた。


「ひゃあ!」


 顔をますます真赤にさせて、飛び上がらんばかりに身を震わせたのは、そのあまりの冷たさ故にだ。

 ハフサの指は、冬の風にさらされてすっかり冷たくなっていた。


「そりゃそうよね。この寒さだもん」


 ハフサが悪戯っぽい笑みを浮かべながら、手をエメスの首や額に次々と繰り出す。逃れようにも手を繋がれたままで避けきれず、エメスは冷たさに身をよじらせながら抗議するしかなかった。


「もうそろそろ商館行きましょうよ!」

「あはは、わかったってば。あっちの路地を通りましょ。近道だから」


 ハフサに手を引かれて路地を曲がる。星が隠れるほどに屋根の迫る道を、二人は変わらずじゃれ合いながら進んでいった。

 路地に転がっていた小石がサンダルに当たり、こんこんと転がっていく。その小石が、何かに当たって動きを止めた。誰か背の高い男が小石を踏みつけ、路地の出口に立っている。

 先ほどまで笑い合っていたエメスの口から笑みが消えていく。

 ハフサもその気配に気付き、ぴたりと足を止める。後ろからもざくりと砂利を踏む足音がして、エメスは、ハフサを庇い立てるようにして前方の男を睨みつけた。


「通して、くださいますか」

「……ここはさ、通行料を取るんだよな」


 フードで顔を隠したまま男が答える。

 彼は外套をまとった程度の軽装だったが、その後ろ腰のあたりに長い膨らみがある。そちらの方へと手を伸ばすと、金属をこすり合わせる微かな音がかりかりと路地裏に反響する。

 エメスは後ろをちらりと見やった。後ろの男もじりじりとにじり寄るように近付いてくるのを見て、エメスは覚悟を決めた。


「……走ります。右手の後ろに路地がありますから、そちらへ」


 声を落とし、アラビア語で語り掛ける。

 男がいよいよ鞘から剣を抜いた瞬間、二人は揃って駆け出した。エメスが言った通りすぐ後ろの路地へと駆け込み、エメスが後ろにつく。男二人も同時に駆けだしてきた。


「行き止まりよ!」

「構いません!」


 ハフサの声に、エメスは鋭く答える。

 かくしてハフサの言う通り、その路地裏は少し進んだだけで行き止まりに達する。そこは水路が流れる少し開けた空間だったが、周囲を宅地に囲まれた行き止まりだった。


「どうする気なの?」


 怯えた様子で後ずさるハフサ。

 エメスは息を落ち着かせながら一歩前に出る。


「大丈夫、相手は二人だけです。大丈夫……!」


 アスタルテがあれば。思わず漏らしそうになった愚痴をぐっと呑みこむ。あんな威圧的な、いかにも武装然とした得物をぶら下げて歩く趣味はエメスには無かった。ましてや今夜は、ハフサと降誕祭を過ごすつもりだったのだから。

 腰には普段使いの短剣ダガー短針剣スティレットだけ。

 彼女は両手にそれぞれを構え、追ってくる敵を待ち構えた。

 足音が近付いて、男たちが剣を構える。リーチは明らかにエメスが不利だ。けれどここなら、前後から挟み撃ちにされずに済み、何よりハフサを狙われる心配が無かった。


「どういうつもりですか!」


 男たちは声も無しに剣を振り上げ、襲い掛かって来た。


(聞くだけ無駄だった……!)


 怯えるハフサを壁際まで下がらせて、エメスもまた敵へ向かって駆け出した。こちらは元々リーチが短い。相手の攻撃を待ち構えていれば、いずれ壁に追い込まれるだけだ。自ら間合いに持ち込まなければならない。

 先頭の男が剣を振り上げた瞬間、エメスは素早くステップを踏んで横へ飛びのいた。男の剣が空を切り地を穿つ。がら空きになった男の首目掛け、エメスは躊躇なくダガーを振り下ろした。

 金属同士がぶつかりあう衝撃。

 残る敵が剣を振るい、エメスのダガーを弾き返していた。今度はエメスが大きく隙を晒した。敵はダガーを弾いた剣の勢いそのままにエメスを押し込めようとする。


「くっ!」


 エメスはスティレットの鍔を刃にぶつけて、辛うじてこれを逸らした。スティレットを握っていた手の人差し指に刃が掠め、だらりと血が滲む。

 敵二人とエメスは互いに距離を取って、じりと間合いを窺う。

 二人目――おそらく幾らか手練れと思しきそちらの男がちらりとハフサを見やり、エメスに歪んだ口元を向ける。


「おいアンタ。どうだ、その女を俺らに引き渡して、互いに見なかったことにするってのは」

「そちらこそ、今すぐ剣を引けば追いません!」

「状況をさ……解ってんのか!?」


 男たちは目配せすると、左右へ同時に跳んだ。一人が右、手練れが左だ。

 だがエメスは冷静だった。彼女は一瞬視線を走らせると、躊躇なく右の男へと飛びかかった。

 右へ飛んだ男が慌てて剣を返そうとする。

 だが遅い。エメスのダガーが闇夜に鈍い光沢をきらめかせる。

 敵の肩口から血があふれた。男が悲鳴を上げて姿勢を崩す。エメスはとどめを刺さず、ダガーからも手を放した。それどころか、男がどうなったかを確かめることすらせずに軸足で石畳を蹴った。

 鋭く空気を貫く音。

 一筋の血が尾を引く。手練れの敵は剣を構えたまま上体を反らして、ようやくにスティレットの切先をかわしていた。


「小娘ぇ!」


 咄嗟に姿勢を立て直した男が、剣を水平に構えなおし、そうして、ぴたりと動きを止めた。

 男の頬を冷や汗が伝う。


「ぐ、う……」


 剣を構えたまま男は身体を動かすことができず、ただ唸るように呻く。彼の眼下では、がその眼をぎょろりと開き、そこに金環を輝かせている。

 エメスは何も言わなかった。

 男の喉仏にじわりと血が滲む。

 エメスは男を睨みつけたまま、ぐいとスティレットを押し込む。男は一歩後ずさると、構えた剣から手を放した。がらんと音を立てて剣が転がるが早いか、彼は飛びのいてわき目もふらずに駆け出した。

 エメスの背後で剣を手にしたまま肩を抱えていた敵も、足をもつれさせながら後を追う。

 同時に二方向へ飛んで隙を誘うなどはありふれている。戦い慣れた戦士に通用するような手段ではなく、それが通じると考えたのは、有体に言ってしまえば彼らはエメスのことを舐めていた。


「ふー……」


 空間に残された緊張と静寂が、エメスの細い溜息と共に緩んでいく。彼女は息を吐き切るとすっと胸を膨らませ、スティレットを腰の革鞘へ戻した。

 と同時に、どしんとぶつかる衝撃がある。


「きゃあ!」

「すごいわエメス!」


 ハフサだ。彼女はエメスに飛びつき、興奮気味でまくしたてた。


「騎士をやってるとは聞いたけど! こんなに強いんだなんて思わなかった! いったいどこで覚えてきたの!?」

「じ、実戦です! 実戦!」


 ハフサに驚き、手足をばたつかせながらエメスは照れくさそうに喚いた。ハフサはそうして暫くエメスをもみくちゃにしていたが、ややして、敵の去っていった方角へと目を向けた。


「ねえエメス。今の奴ら、明らかに私を狙ってたわよね」

「……そう思います」

「やっぱり、護衛とか雇わないといけないかなぁ……」


 ハフサは一応は変装していたが、元々目を付けられていたりしたなら、隠し通せるものではないとエメスは思った。強盗か身代金か。待ち伏せていたことなどを考えると襲撃は計画的だろう。


「ハフサ、思うんですけど、外で会う時は――」


 外で落ち合うのではなく私が直接訪ねた方が良い。それを伝えようと口を開いたエメスは、目の前のハフサの表情が強張っているのに気が付いた。


「……どうしたんですか」

「あ、あれ……!」


 やっとの思いで声を絞り出すハフサ。

 彼女は微かに唇を震わせ、その視線は路地へ釘付けになっている。そのただならぬ様子に、エメスもまた緊張と共に背後を振り返った。

 その出入り口、路地の闇からのそりと現れる影がある。

 その異様な姿に、エメスは我が目を疑った。


 男はローブをまとっていた。

 だがその下には、中背ながらに筋骨隆々の肉体がみなぎり、ほとんど半裸の姿で佇んでいる。

 荒い息が夜空にうっすらと響く。その反響はただ吐息が荒いのではない。彼の頭は顔全体を首まで覆う魚形兜うおなりかぶとに包まれており、目元に入った網目状のスリットからは、こちらを睨む視線を感じた。

 その姿はまるで――


剣闘士グラディアトル

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