第二十九節
いつか壁画や、読み聞かされた歴史書でしか知らないような古代の剣闘士。戦いを見世物とし命そのものを売り払い、
だがそんなものは、ずっと昔、何百年も昔に存在しなくなったはずだ。
なにかが異常だ。
物盗りに追われたこの路地裏に、なぜ剣闘士などが姿を現すのか。
「ハフサ、下がって」
エメスはハフサに告げて、すり足で石畳を踏みしめた。
自らの直感が警鐘を鳴らしている。彼は敵だ。エメスは剣闘士から視線をそらさず、剣の所在を意識する。先ほどの物盗りが取り落した剣だ。
エメスの背後、ぶるりと肩を震わせるハフサ。
「何なのこれ――」
「さがって!」
「おおおおおおお!」
エメスが叫ぶと同時に、咆哮が上がった。
剣闘士が盾の裏へ手をやる。エメスはぱっと身を翻し、剣を掴み地を転がる。起き上がったエメスの眼前に、剣を振り上げる剣闘士の影があった。
ばっと身を捻り、再度地を転がる。今までエメスがいた空間を剣が切り裂き、小石が跳ね上がる。ハフサは足をもつれさせながら背を向け、壁際にすがりつく。剣を構えなおした剣闘士は、ハフサをちらりと見たあと、エメスの方へと突進していった。
エメスは今度こそ立ち上がり、唸る剣闘士を迎え撃つ。
突き出される盾。剣闘士はその背後で剣をぐっと腰まで下げている。エメスは盾の掲げられた左側面へとステップを踏んだ。
「はぁっ!」
牽制に剣を振るい、その脛を狙う。その刃は盾にあえなく防がれるが、剣闘士はその為に盾の位置を落とし、右手の剣を繰り出す機会を失わせた。エメスは返す刃でその顔に狙いを定める。
剣闘士が胸を反らし、刃はその兜の鍔に軌道を逸らされた。
エメスを打ち据えようと盾が振るわれる。空気を巻き込む鈍い音と共にごうと風が巻き起こる。エメスはそれをかわして突進を試みるが、そこに剣闘士の突きが繰り出されてきた。
紙一重、エメスの肩のあたりをさっと掠めて刃が走った。
大きく飛びのいたエメスは、敵の動きをじっと窺う。
(動きが早い……力もある)
剣を利き手に構えたまま、ゆっくり腰に手を伸ばすエメス。対する剣闘士は、腰を低く落として再び同じ構えを取った。
猛然と突き掛かる剣闘士を前に、エメスはその場を動かなかった。片腕で剣を振るって繰り出される突きを二度、三度と切り払い、剣闘士の動きを、流れの中に捉えようとする。
金属同士が荒々しくこすりあわされる音が響き、剣闘士の突きが逸らされる。身体を支えようと剣闘士が利き足を地に叩き付けた時、エメスは足裏が地から離れるか離れないかといったほどの、極わずかなステップを刻む。
来る。それが解る。
エメスは脚に体重が掛かった瞬間、矢のように地を跳ねた。
振り上げられる剣闘士の腕と同じくして、エメスの身体が懐へ入り込む。腰の手を逆手に上体を捻り、飛び込んだ勢いそのままに遠心力を掛けて一気に振り回す。
音もなく走るスティレットが、剣闘士の脇に深々と突き立てられた。
「ぐおあぁぁ!」
剣闘士のくぐもった声。
獲った。しかし手応えをおぼえた彼女の視界が衝撃に揺れる。
剣闘士の盾だ。その盾の縁がエメスの顔を殴りつけ、弾き飛ばしていた。二歩ほど後ずさるエメス目掛け、振り上げられていた剣が追撃とばかりに振り下ろされる。
エメスは刃を返した。スティレットから離れた手で柄を支え、斬撃に対して咄嗟に掲げる。激しい金属音が辺りに響いた。宙に刃が舞う。
エメスの剣は剣闘士の一撃を確かに捉えていた。だがその剣は脆く、彼女が構えたその中ほどか無残に撥ね折れていた。
殺し切れなかった敵の斬撃に、鎖骨から肩にかけてを切り裂かれる。
「くっ……はあっ!」
それでも、エメスは怯まなかった。
脚が身体を支え、腕は刃を返し、全身をしならせて横薙ぎに叩き込んだ。首まですっぽりと覆う魚形兜のきわ、その首の付け根に折れた剣が食い込む。
鈍くとも、確かな一撃。刃の断面は敵の首元を食い破り、骨を砕きながら胸までを一気に引き裂いた。返り血がエメスの頬を濡らし、地にまで飛び散る。
剣を振り下ろしたままの姿勢でつんのめった剣闘士が、一歩、二歩と進む。
「ぐるる……」
「ひっ」
ハフサから漏れる渇いた悲鳴。
壁際のハフサまであと数歩というところに、剣闘士の姿がある。エメスははっとして身を翻した。
「ハフサぁ!」
声を荒げるエメス。
剣闘士がぎょろりとエメスを振り返ったところ目掛け、力の限り剣を振り下ろした。金属音と共に火花が弾ける。剣が兜を貫通することはなくとも、剣闘士の首はその衝撃にがくりと揺らぐ。
エメスはそのまま刃を振り上げると、間髪入れず肩を切り付ける。盾を支える腕がぐらりと力を失い、剣闘士はその重みに引きずられるようにしてバランスを崩した。
剣闘士の膝が地を突く。だが彼はそれでもなお剣を杖に地へ突き立て、その肉体を立ち上がらせようとする。生半可な負傷では戦意はかけらも失われないというのか。執着と怨念。そうとしか言いようのない闘志を剥き出しにして、剣闘士は膝を立て、剣を振り上げる。
「ぐがあああああ!」
「おぉぉぉっ!」
狼としての咆哮が、怨霊の如き唸りを切り裂く。
エメスは手元でくるりと剣を逆手に構えると、足蹴にしながら剣闘士に飛びかかった。力の限り突き下ろした刃は、エメスの体躯と跳躍の勢いそのままに胸を穿つ。敵は背から転倒し、盾ががあんと大きな音を立てる。
震える剣闘士の腕。エメスは突き立てた剣の鍔に手をかけ、そのまま強引に捻り返した。
肉を強引に断裂させた、確かな手応え。
ばっと弾け飛ぶ鮮血。ぐらりと傾く剣闘士の腕が萎えて剣が滑り落ち、やがて、その腕もまた血の池に崩れた。
「……はっ、はっ!」
張り詰めていた緊張がほどけ、エメスが肩を揺らす。彼女はばっと顔をあげ、返り血を浴びた上体をそらして、あえぐように空気を取り込む。
壁にへばりついて恐怖に顔を強張らせていたハフサが、恐るおそる声を掛ける。
「エメス……大丈夫? 怪我は……?」
「大丈夫、平気です……」
揺らめくように立ち上がるエメスが、剣闘士の脇に刺さったままだったスティレットをずるりと引き抜く。彼女は自分の口元を手の甲で拭い、ハフサへ駆け寄る。
スティレットを掴んだまま、手を差し出すエメス。
ハフサはきゅっとまぶたを閉じて怯え、肩をびくりと強張らせた。
「ハフサ」
その声に、顔をあげた。
飾り気のない、控えめな声色。そこにいたエメスは、いつものエメスだった。全身に返り血を浴びたその姿、乱れた髪の合間に覗く恐ろしげな金環も、その朗らかな笑顔を打ち消すことはない。
ハフサがぽかんとして見上げていると、エメスは自らの掌に、あっと間の抜けた声を出し、服の裾で血を拭った。
「まだ新手がいるかもしれません。はやく離れましょう」
まだ血に汚れたままの掌。ハフサは、そんな彼女の手を取る。
互いに頷きあい、二人は急いでその場を離れた。
ハフサの商館まではそう遠くはなかった。
幸い降誕祭の夜とあって誰もが既に家の中におり、血まみれで走り回るエメスを直接に見た者はいない。ハフサが急ぎながら鍵を開けると、二人はすぐに中へ駆け込んだ。
「はあぁぁ……ああもう、なんなのよ……」
ドアを閉じ鍵を回した途端、ハフサは深い溜息と共に、手近な椅子にへろへろと座り込んだ。両手で顔を覆い、ぶつぶつと愚痴をこぼすハフサに、エメスは遠慮がちに声を掛ける。
「あの……水や、何か拭くものをいただけませんか」
「あ、そうか、そうよね……ごめん」
疲れた様子のハフサがようやくに立ち上がり、付いてきてと商館の奥へ進む。
商館の勝手口に進むと、そこは洗い場だろうか、幾つもの水瓶と洗濯物を積み上げたタライや籐の篭が並んでいた。
「ごめんね汚くて。今日は使用人たちに休みをあげちゃったから」
「いえ、そんな!」
首をぶんぶんと振るエメス。
ハフサは屋内に干されたままの手拭いを幾つかエメスへ渡すと、壁に取り付けられている、直系二〇センチほどの木材に手を伸ばした。その端に取り付けられた縄を引くと木材が外れ、そこに現れた壁の穴から、水がとくとくと流れ出してきた。
よほど贅沢な造りだ。街に張り巡らされた水路の一角を経由させてあるらしく、床には排水溝まで設けられていて、生活用水程度なら館から出ずとも賄える構造になっていた。
「さあ、どうぞ。ほら、服も脱いで脱いで!」
パンパンと手を叩いて急かされ、エメスは服をぐいと脱いだ。
ローブもシャツもどこもかしこも血だらけだ。彼女はそうして服を掴むと、傷だらけの痩身を露にした。流れ込む水に手桶をかざし、十分に水が溜まるのを待ってから、そろりと頭を流し始める。
全身に刻まれた無数の傷痕をなぞって、水が流れ落ちていく。
「うぅー……!」
エメスはぶるると身を震わした。冬の水が身に染みて、思わず犬のように身を振るいたくなる。
「やっぱり冷たいなぁ……!」
「悪いけど我慢してね。使用人がいたら湯を沸かさせたんだけど、私ひとりじゃさすがにちょっとね」
ハフサの言葉にぶんぶんと首を振るエメス。
歯を鳴らしながら、彼女は手拭いで身体の血を拭い始めた。ふと気が付いて、ハフサが立ち上がる。ちょっと待っててと言い残して、彼女はそこを離れた。数分ほどして戻ってきた彼女は背後に手をやって何かを隠しており、からかうように眼を細める。
「なんだと思う?」
「今それどころじゃないです!」
「あはは、ごめんごめん」
じたばたと身体をゆするエメスの前に、乾燥した葉の包みが差し出される。
「開けてみて」
包みからの微かな香りに誘われて、止め紐を解いた。そこにあったのは黄土色をした生乾きの粘土のような塊だった。香草やオリーブでも練り込んだようにさわやかな香りが立ち昇り、エメスの鼻腔をくすぐる。
エメスは最初、ぽかんとしてそれを見下ろした。いったい何だと言うのだろう。
外見だけは石鹸に似ていなくもないが、形はずっと綺麗に整えられているし、何より動物樹脂のすえた臭いがしない。エメスはそれを指でつまんでじっと見つめたが、やがて、自分の思考を辿ってあっと声をあげた。
「これ、石鹸ですか!? 香りのするやつ!」
声をあげるエメスに、ハフサは自慢げに頷く。
「なあんだ知ってたの。ええ、それがサボン石鹸よ。いい香りでしょう?」
「お話に聞いてただけで、実物は初めてです……」
いつだったかフェデリコと交わした会話。あの時にはにわかに信じ難かったそれが、今目の前にある。始めて見るサボン石鹸にエメスは思わず見とれてしまった。
「気に入ってくれたみたいね。使ってよ。泡立ちもすごくいいんだから。気持ちいわよ?」
「……いえ、ダメです。だって高いんじゃないですか?」
「いいの。だって命の恩人じゃない」
「本当にいいんですか……わああ……」
エメスは目を輝かせ、その石鹸を手拭いにこすりつけた。それを手で擦ると小さな泡が生まれ、それらが弾けるたびにますますいい香りが立ち昇ってくる。
そうして手の平を泡だらけにしながら、エメスは意見を窺うようにハフサを見やった。ハフサがどうぞと促すジャスチャーをしてみせて、エメスは思い切ってそれを肌にすりつけた。
遠慮がちに手拭いで泡をこすりつけると、なんだかそれだけで綺麗になった気がしてしまう。ハフサが仕方ないなと言わんばかりに腕まくりをし、エメスの手から石鹸を取り上げた。
「ほーら、もっと勢いよくやらなきゃ」
彼女が手拭いでごしごしと石鹸をこすり上げ、泡立たせるやエメスの身体をごしごしとこする。エメスは香り立つサボンの匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、なされるがままに溜息をついた。
ハフサが遠慮なく石鹸をこすりながら、エメスの背中をぐいと拭う。
「こうしてると思い出すさない?」
ふと漏れ出た言葉は、消え入るように小さかった。
エメスも少し俯き、こくりと頷く。
「……忘れられるわけありません」
「そっか……それにしても、また、こうやってエメスのこと洗ってあげる日が来るなんてね」
感慨深く呟くハフサの手拭いがエメスの首筋を洗い、肩へと差し掛かる。そこをこすった時、エメスがびくりと肩を跳ねさせた。
「どうしたの?」
覗き込むハフサ。エメスは自分の肩を顔に寄せ、痛みの原因を思い出した。先ほど切り付けられてい肩の傷口だ。深手ではなさそうだったが、そこにはぱっくりと傷口が開き、泡の中に赤い血を滲ませていた。
「そっか、ごめんなさい。ちょっと染みるわよね」
ハフサはエメスが我慢してるうちにと手早く肩口を洗ってしまい、手桶の水をざぶざぶと掛ける。この頃には冷たい水にも大分慣れていたが、それでもエメスは肩を震わせた。
泡の中から傷口が姿を現す。
傷口はまだしっかりと塞がっていないのだろう、微かな血が浮き上がっては、水に溶けて流れていく。
その様子をじっと見つめて、ハフサはふいに手を止めた。
「私を守ってくれた傷、なのよね……」
「……そんな立派なものじゃありません」
「確かよ。今日は、私のこと救ってくれた」
どこか渇きを覚える言葉。その言葉が意味してしまうことを、二人は理解している。けれどハフサが口にしたその言葉は、あるいはエメスにこそ必要だったのかもかもしれなかった。
「ごめんなさい」
自らの呟きににじむ涙。
ハフサは何も言わなかった。ただその指をそっとエメスの傷口をなぞらせた。
「痛む?」
問い掛けに、エメスは首を振る。
柔らかな感触と、少しざらりとした感触が傷口を這う。がり、と何かが当たってびくりと身を震わせた。
痛かった。舌が押し広げた傷に、犬歯が立てられている。
繰り返し傷を掻く歯。絶え間ない微痛と甘い痺れ。罪がその姿を失っていく。こんな罰では決して贖われようも無い筈なのに。
やがてハフサが離れ、流れ落ちる水の音に紛れて布のこすれる気配がする。ふわりと現れた腕が、エメスの肩に触れて振り向かせる。
胸元をはだけた半裸のハフサが、自らの胸に指を添える。そこに浮かび上がるのは、斜めに走る歪んだ傷痕。
その傷が何であるかを語る意味はなかった。エメスは呆然とそれを見つめ、ハフサは微笑んでそっと歩み寄る。少し背伸びをしたハフサの腕が、エメスの肩を包む。ぴたりと触れあう肌。冬の水に冷え切ったエメスの身体にその熱が伝えられる。
「聞こえる?」
問い。リズムを刻む小さな調べ。
心臓の鼓動に感じられる、確かな生。それを傷痕越しに感じられた。
「私は生きてきた」
ハフサの告げられて、腕に力を込めた。
エメスが全身に刻まれた無数の傷痕には、いずれ消えるものもあるかもしれない。けれどハフサに刻まれたそれは一生消えないだろう。ハフサが失ったものとその後に続いた煉獄は、決して無かったことになりはしないのだから。
失われたものは取り戻せない。
それでも、その全てが過ちだったなんて思いたくない。たとえ今からでも取り戻せるのなら。少しでも刻み込まれた痕を癒せるのなら。
言葉にならない想いが、胸に満ちていく。
ふいに、ハフサが首を振った。
「私はもう、痛くないよ」
笑みなくエメスを見つめる瞳。少し背の低いハフサが顔をくっと上げる。
鼻をかわして、顔を近付けた。うっすらと、ためらいがちに開いた唇を互いに重ね合う。舌から伝わる熱をじっと身体の芯に感じて、エメスは眼を閉じた。
意識が蕩けあう、幻想的な感覚。
思考が沈み込んでいく最中に、エメスは祈った。
あの夜別たれた途往きと歩みが、もう一度重なろうとしているのなら、私たちの往き先が暖かなものであることを、どうか。
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