第二十七節
王宮の書庫、多くの書類に囲まれる人影がある。
フェデリコだ。彼女は留守中の記録に次々と目を通していた。
ドイツ滞在中にも折に触れて送らせてはいたが、ふと気になった問題をその場で確認できるとできないとでは全く話が違う。
周囲で忙しそうにする書記たちの中には、フェデリコをはじめて見た者もいただろう。彼らはそのあまりの慌ただしさにすっかり目を回していた。
「ご機嫌はいかが」
侍女にハーブティーを持たせ、カナが顔を見せた。
もうそんな時間かとフェデリコが顔をあげ、少し休むと告げると、書記たちは青い顔を揺らしながら中庭の方へと出ていった。
彼らの背を見送り、カナが首を傾げる。
「かわいそうに。もう少し加減なさったら?」
「私は加減してるつもりだぞ」
「全然そんなふうに見えませんわ」
「そうかな」
頭上を仰ぐ視線。フェデリコは参ったなと顎を掻いた。
注がれた湯がハーブの柔らかい香りを立ち昇らせる。フェデリコはその香りをかぎながら、椅子にゆったりと腰掛けた。
「貿易は順調らしいな。市場にも品があふれている」
「陛下の狙い通り、というところかしら」
現在、シチリア王国ではここパレルモが関税の免除される自由港とされていた。シチリア王国のその他の港では入港と荷揚げに一定の関税がかかるため、自然と商品が流れ込むようになっている。
フェデリコたちは未だシチリア王国を完全に掌握できていないが、それぞれの街を領する諸侯はそのフェデリコが認めている関税や入港税を代理として徴収するため、結果としては同じことだった。
商人らはそれ以外にも理由を付けては手数料を徴収する諸侯らの港を避け、王国との取引をパレルモに限るようになっていったのである。
その目的の第一は地中海交易における将来的な富の流通と集積を見据えてのものだが、そちらはまだ先の話だ。何より当面は、有力諸侯らの港で流出している富をパレルモに奪い返すことをを狙いとしており、それは一定の成果を収めていた。
「問題はジェノヴァですわね」
「彼らの反発は仕方ない。織り込み済みだ」
元々シチリア王国ではジェノヴァとピサの商人が独占的に自由航行権や免税、更にはそれぞれの港に特区を持つなどの特権を与えられていた。彼らはその独占的な特権によって南イタリアを経由する地中海交易を大いに席捲していたのである。
両者は常にライバル関係にあった。
その対立関係は激しく、ピサ市が帝位に就いたオットーを支持すると、ジェノヴァは対抗してフェデリコを支持するといった具合で、彼らはシチリア東部の重要な貿易港であるシラクーザを巡って海戦まで繰り広げ、勝利したジェノヴァは市長を送り込んでピサ派を追放もした。
やがてオットーが戦場で斃れ、フェデリコの勝利が確定的になると、ジェノヴァの海上覇権はもはや揺るぎないものとなったように思われた。
ところが彼らの覇権は、それによってこそ揺らぎ始める。
フェデリコはジェノヴァの支持には感謝していたが、それによってシチリア王国の権利と利益を売り渡すつもりはなかった。端的に言えば一勢力に王国の貿易を独占させる気は一切無かったのだ。
フェデリコは、ジェノヴァとピサの特権を等しく廃止した。
ピサから大きな反発は無かった。彼らは元々、オットー支持とジェノヴァへの敗北によって不利な立場にあり、特権を失ってもジェノヴァが同じ立場になることで状況をゼロに戻すことができた。
となれば当然のことながら、対するジェノヴァからの反発は相当の激しさを伴うものになった。
フェデリコのドイツからの帰還時、北イタリアからカプアへ入る船をピサで仕立てたのにはそうした事情もあってのことだったのだ。
「大変だったのよ。連日のように使者が抗議に訪れるから」
「言うな、私も一緒だ。ドイツにもうんざりするくらい長い手紙が何通も届いた」
フェデリコが両手をめいっぱい広げてみせておどけて見せる。
だがフェデリコは、ジェノヴァの敵意を覚悟してでも複数の海上勢力による競合状態を望んだのである。
関税が廃止され、独占的な特権商人が引きずり降ろされた結果、パレルモ貿易は空前の活気に沸いていた。大商人は投資の機と乗り込み、中小商人は今こそ勇躍の時と資金をかき集めた。
そうしてパレルモでは商人らの異様な熱気が渦を巻き、空前の活況がもたらされていたのである。
「商館も随分増えたわ。去年だけでもヴェネツィアのジャコモ商会や、ユトレヒトのドム商会、マルセイユのココ商会。アイユーブ朝からも貿易商が流入してる」
「まずは見込んだ通りの結果が得られたと言えそうだな」
「油断してると足元を掬われるわよ。彼らは抜け目が無いから……」
「……肝に銘じておく」
街並みの向こう、遠くに海が広がっている。
フェデリコがやろうとしている事は、必然的に敵を生み出していく。昨日の味方であったジェノヴァは、今や敵にまわろうとしている。はたして将来も、彼らのうちどれほどがフェデリコの側に立つだろうか。
その事を考えると、カナも釘を刺さずにはおれなかった。
それからも、エメスとハフサはもちょくちょく顔を合わせていた。
とはいえ会う場所はたいがい市場か安食堂だった。商館でもてなされるのはあまりにも落ち着かなかったし、気が引けた。
エメスが商館の裏口を訪れると、気を利かした使用人がハフサを呼びに行き、彼女がこっそりと出てくる。ハフサは少し小奇麗な町娘といったくらいの、ほどほどに地味な装いを好んだ。商館の女主人として街をぶらつくには何かと不都合だし、この方が気楽で息抜きにもなるらしかった。
その日も二人は市場を軽く散策し、何かを煎った芳ばしい香りの漂っていた店先で、何やら真黒に泡立った湯をすすっていた。
一口ずずと飲んで見て、エメスはべえとしかめ面を見せる。
「なんですかこれ! すごく苦いです……!」
「そう? 私は好きだけど」
ハフサはそれをじっくりと吟味するように味わっている。
とはいえその彼女にしても、その眼差しは純粋な好奇心というのでなく、新商品を品定めする商人のそれだった。店長にどこから仕入れた商品か聞きに経つハフサ。
残されたエメスは飲み慣れないそれをぺろぺろと舐めながら、ぼんやりと市場を眺めた。
その時だ。視界の隅で、誰かがいきり立って声を荒げた。アラビア語で何かをまくし立てる男に、店主らしき男がシチリアなまりのアラビア語でやり返す。彼が傍らの肉切り包丁を手にした瞬間、エメスは反射的に駆けだしていた。
「ま、待って! それはいけませんってば!」
慌てて二人の間に割って入るが、二人とも収まりが付かないのか声の限りに罵りあっている。店の奥からハフサが戻って来たころには、エメスは二人の間でもみくちゃになっていた。
「あらら……」
気の毒そうに、遠巻きに眺めるハフサ。そのうちに野次馬たちが加勢をはじめて当事者たちを引き離してくれ、エメスはほうほうの体で逃げ出してきた。
「お疲れさま。あんなの放っておけばいいのに」
「でも、怪我人とか出ちゃったら嫌じゃないですか」
「人が良いのね」
ハフサは呆れたように微笑み、先ほどの謎の飲み物に代わってホットワインを頼んでくれた。
彼女は席につくと、溜息交じりに頬杖をつく。
「最近ね、少しギスギスしてるのよ」
「何かあったんですか?」
運ばれてきたホットワインを受け取り、エメスが身を乗り出す。ハフサは少し迷った様子を見せたが、杯で手を温めながら話し始めた。
「数ヵ月前……今年春頃かな」
去年は折からの天候不順で、シチリア島は不作だった。
中でも痛手を被ったのは換金作物で、それらは山岳部に点在する零細農家や荘園農奴たちには大きな打撃となっていた。
彼らの多くはムスリムや出稼ぎギリシア人であったが、その山岳部には、長く続いた内乱に追われるようにして、平野部での戦禍を逃れた貧民も流入していた。
ムスリムらは自らだけでなく、流入した同胞らの生活を支える必要性から、当面の現金や農具、種籾などを借入によって賄っていた。換金作物の不作は、その返済期日に直撃したのである。
やむなく彼らは、金融商の下へ返済期日の延期や利子の棒引きを嘆願しに行った。
「運が悪かったのはね、債権者が変わってしまってたのよ」
「どういうことですか?」
「元々借りた相手が亡くなってたの。元々金を貸していたのは、地元の事情にも通じた老商人だったみたいなんだけど、残された親族は故人の財産を同業者に売却してしまったの。つまり、債権も他の人の手に渡っていたのね」
その結果、嘆願に訪れた彼らを出迎えたのは、気心の通じたかつての老商でなく、それを買い取った強硬な取立人だった。
彼は長い商売をするつもりはなかったらしく、僅かばかりの蓄えまで根こそぎ持ち去り、それでも足りなければ債務者やその家族を奴隷として売り飛ばす過酷な回収に着手した。
表情を曇らせるエメスを見て、ハフサは言い添える。
「もちろん取立人の行いは全て契約書にある通りだし、全く合法なのよ。けど、だからって取り立てられる側が納得なんてできる訳ないじゃない?」
シチリア島のカトリックとムスリムの関係は、常に平穏だったとは言い難い。その対立と差別感情は時代の節目で間欠泉のように噴き出してきた。これもまたそうした事件の一つだったのだろう。
激怒した住民らは暴徒化し、取立人の店に襲い掛かった。彼らは家族を救出して金蔵を略奪すると、商人を人質として連れ去ったのだ。
この叛乱寸前にまで達した暴動は、カナの介入で沈静化した。
山岳地に暮らすムスリムらに商人と略奪した金を解放させると、当の商人には債権を間引いて手放させ、債権は市内の商館に分散して引き受けさせた。これによって、住民らは額面こそ減らなかったがひとまずは返済期限が延長され、代わりに首謀者を引き渡す命令を受け容れたのである。
「ハフサには、何とかできなかったんですか?」
ぽつりと漏れたエメスの問いに、彼女は声を落として俯いた。
「うちでも少しは債権を引き受けはしたけれど、それ以上はどうしようもないわ……。彼らには担保になる財産が無いもの。力も運も無いのなら……結末は同じよ」
悲し気な物言いに、エメスはふと寂しさを感じた。その様子に気付いてか、ハフサは笑顔を作ると、さっとエメスの手を取った。
「やめましょう、こんな話。暗くなっちゃうわ」
彼女は話題を切り替えようと、努めて明るく話しかける。
「ねえエメス、また商館に来てよ」
「商館にですか? ちょっと緊張しちゃって……」
「大丈夫よ。夜がいいかな、皆も帰った後。それならのんびりできるわ。もう少し落ち着いて話がしたいの。そうだ。よければ今度の降誕祭を一緒に祝いましょ」
降誕祭――十二月二十五日、イエスの降誕を家族と共に思い起こす日。
けれど、にこにこと話すハフサに、エメスは目を伏せる。
(
これまで、ほぼ毎年そうだった。降誕祭は家族と過ごす日、一年の善きことを感謝する日、そう教わってきたから。それを欠かすことはその関係を崩すもののように感じて、心のどこかに抵抗があった。
断ろう。そう思った。
意を固めて顔をあげた時、エメスがそこに見たのは、期待に眼を細めるハフサの表情だった。
エメスは、何も言えなくなってしまった。そんなハフサを前にすると、どうしても言葉を飲み込んでしまう。
そんなエメスの戸惑いを知ってか知らずか、ハフサはエメスと繋いだ手をきゅっと閉じ、祈るようにエメスの指を慈しむ。
「いつも一人だったの。あの日から、誰かと一緒にナターレの夜を過ごしたことは無かった……今はね、使用人たちだっているわ。けれど皆もそれぞれに家族があるから、どうしても最後は一人。だからね、エメスが一緒に過ごしてくれるなら、すごく嬉しい」
村の光景が脳裏に思い浮かび、エメスは思わず唇を結んだ。
あの日、エメスはフェデリコという家族を得た。けれどハフサはその日に家族を失った。失って、それっきりだった。共に祝う者もなく過ごしてきたであろうハフサを想うといたたまれなくなる。今この時にあって、彼女と共に降誕祭を祝えるのは、自分だけなのだから。
エメスはもう一度、意を決した。
今度は先ほどと違う結論を胸に定めて、ハフサに頷く。
「……ええ、一緒にお祝いしましょう。きっとです」
心の中、フェデリコへの謝罪を口にする。けれど今回は、今年だけは我がままを許してほしいと願った。代わりに翌日の誕生日をうんと祝おう。二日続くその祝福される日々を、半分だけハフサに分けてあげてほしい。フェデリコならきっと、それを怒るようなことは無いと思った。
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