第二十六節

 先ほどの通りから少し離れた広場の階段。

 二人は近くの石段に腰かけると、ハフサは、エメスが落ち着くまで背をさすって待ってくれた。傍らには絨毯がどんと立てかけられている。

 そうやってずっと背をさすられるうち、エメスはようやく落ち着きを取り戻した。


「どう。落ち着いた?」


 こくりと頷くエメス。

 その様子に頬杖を突いてハフサが笑う。

 均整の取れた身体つきにゆったりとした服をまとい、その顔は明るく朗らかだ。

 年齢的にはフェデリコより少し年下なのでエメスとも同じくらいの筈だが、成長したハフサはエメスよりずっと大人びて見えた。


「突然泣き付くんだもの。私、そっちの方がびっくりしちゃった」


 ハフサの言葉にまた涙を堪えられなくなりそうになる。エメスは涙を必死に抑えながら、ハフサに顔を向けた。


「本当に良かった……あの時は、私てっきり……」

「そんなの、私もよ。自分でも生きてるのが不思議なくらい」


 やれやれといった感じで首を振るハフサ。


「今までどうしてたんですか? 今はどこに――」


 矢継ぎ早に質問を投げ掛けるエメス。けれどハフサはそれに答える代わりに、ハフサに絨毯を押し付けた。石段から腰を上げ、ちらりとエメスを見やる。


「ついてきて。きっと驚くわ」


 それは市場からすぐそこだった。市場に続いてパレルモの大通り沿いに幾らか進んだ、高級な店が棚を並べる通り。その一角に立派な建物が姿を現した。どこか大きな商会の商館のようで、看板にはココ商会の名が刻まれていた。


「ここで働いてるんですか?」

「んー、まあね」


 エメスの問い掛けに、悪戯っぽい表情で振り返るハフサ。

 裏口から入らないと叱られるんじゃないか――そう懸念するエメスをよそにハフサは躊躇なく入っていくので、エメスも慌てて後に続いた。ハフサが姿を現すと、広間にいた商人や使用人の視線が注がれ、絹の服を着た使用人長らしき男性が近付いてきた。

 やはり怒られるかなと思っていると、男性は恭しい態度でハフサに頭を垂れた。


「お帰りなさいませ。ガブリエラ様」


 エメスがきょとんとその様子を見つめるが、ハフサはそれが当然とばかりに頷いた。


「部屋に葡萄酒を用意してちょうだい。それから何か食事を」

「ご希望はございますか」

「そうね……子牛肉が良いかしら。煮込みがいいわ」

「かしこまりました」


 男性は柔らかな物腰で答えると、ハフサの後ろについてきたエメスへ目を向けた。いつもの動きやすい男物の服を着て絨毯を抱えたエメスを見て、彼は自らの袖口に手をやった。


「荷物持ちご苦労さま。今駄賃を……」

「ちょっと。彼女は私の友人よ」

「これは……まことに申し訳ございません!」


 ハフサが告げると、彼はびっくりして一歩下がり、恐縮して謝罪を述べた。もちろんエメスにもだ。ハフサはぽかんと口を開けるエメスの絨毯を指さすと、彼にそれを持っていくよう命じた。


「ホラズムの絨毯よ。値段は任せるわ」


 彼が絨毯を受け取って店の奥へ去っていく。

 きょとんとするエメスの手を、ハフサが引いた。


「さ、行きましょ」

「え、でも今の絨毯……」

「ああ、あれ?」


 問われて、ハフサはぷっと噴き出し、いいからと手を引いた。

 歩くハフサを誰もが振り返り、商人たちもみな笑顔で挨拶をかける。使用人たちは皆ハフサを敬い、通りかかれば誰もが頭を下げた。彼女はその都度笑顔でこれにこたえ、気にせず続けなさいと仕事を促して通り過ぎていく。

 二階に上がった先、ハフサに通された部屋を見てエメスは息を呑んだ。

 小さいながらも美しい調度品に飾られた部屋。奥には格調高い机が鎮座し、その机には銀の筆記具が並んでいる。奥へと歩いていくハフサに続くエメスは、足を踏み入れようとして、そこに市場で見たものよりもっと巨大な絨毯が敷かれているのを見て息を呑んだ。


「これって……」

「どうしたの? ドアを閉めて」


 後ろ手にドアを閉じると、ハフサがおかしそうに笑う。


「さっき買った絨毯ね、本物よ!」

「えっ!?」


 思わず声を挙げたエメスに、しいっと指を押し当てる。


「だってあいつ、エメスに随分ひどいこと抜かしたんだもの」


 その言葉に、エメスは俯いてしまった。


「私は、別にあれくらいのことは……」

「いいの! 私が気に入らなかったんだから! それに、私は偽物売りつけた訳じゃないわ。まともな商人なら、自分の商品をちゃんと理解してなくちゃ。あんなハッタリに狼狽えて手放すようじゃ、悪いのは彼のほう!」


 けらけらと笑って、唖然とするエメスに座ってよと促す。

 どうしようか躊躇していたエメスは、ハフサに促されて意を決して絨毯を踏んだ。ふわりとサンダルが沈み込み、その感触に思わず慄く。座った椅子も布張りに羽毛が詰め込まれているらしく、お尻がふわふわしてまことに落ち着かなかった。


「くつろいでちょうだい」


 そう言われても気が気でない。いまだに状況が呑み込めぬエメスが目を白黒させていると、時を置かずワインが運ばれてきて、ハフサはそれを机に残して使用人を帰らせた。


「いったいどういう事なんですか?」


 エメスが問うと、ハフサは自慢げに椅子にもたれ掛かった。


「私はこの商会の女主人よ。どう? 驚いた?」


 ハフサは腕を広げてみせた。軽やかな足取りでワインを陶器のカップに注ぐと、エメスに差し出した。エメスは受け取ったワインをぺろりと舐め、ぐっと呑んで気持ちを落ち着かせようとした。


「驚きました。本当に……まさかこんな……」


 ハフサは自らのカップにもワインを注ぎ、首を傾げた。


「まだ信じられない? それも当然ね。あの場を逃れた私が、今ではこんな暮らしをしているんだもの。でも、私が幸運に恵まれたっていうのは本当よ」

「いったい何があったんですか?」


 エメスの問いに、ハフサはちょっと困ったような顔をした。


「あの夜……暫くして気が付いた私は、無我夢中であの村から逃げたわ。まだ誰かに襲われるんじゃないかと怯えてて、必死だった……刃は骨で止まっていたけど、酷い傷でね。数日すると傷口が膿みはじめて、もうダメかなって思った」


 両手で包み込んだカップを弄ぶハフサ。

 その言葉と様子に、エメスは胸が痛んだ。


「でもね、ある商人に拾われたの」


 気が付くとハフサは、馬車で揺られていた。

 商人は親身に世話してくれた訳ではない。使用人に傷口を洗って当て布をさせ、あとは馬車に寝かせて、少し飯を分けてやっただけだ。多分、馬車に余裕があったか何か、単なるついでだったのだろう。


「つまりね、私はとして拾われたの。だから回復した後で、きっちり売り飛ばされたわ。小さな銀貨三十枚。今でも覚えてる。それが私の値段」

「そんなのってありません!」


 椅子を蹴ってエメスが立ち上がる。

 けれどハフサは、少し悲しそうに笑ってエメスを制した。


「怒らないで。その銀貨三十枚の価値が、私を救ってくれたのだから」


 名前も知らないその商人が、行き倒れたハフサを金になるかもしれないと思い拾った。人によっては、手当てをしたが無駄になるのを疎んだかもしれない。商品で荷車がいっぱいだったら、拾わなかったかもしれない。

 そのか細い糸を繋いだ、命の渡し賃。


「その後も色々あったわ。本当に、色々と……」


 視線を逸らすハフサ。けれど彼女は明るい表情を取り戻し、立ったままのエメスに向き直る。


「暫くしてね、ある人に買われたの。今の私の、師匠みたいな人。その人が私を引き上げてくれて、今ではこうして、商会をひとつ任せてくれてる。だから今の私は、ココ商会のガブリエラ」

「ガブリエラ……?」


 その名前が意味するところに気付いて、エメスは口を結んだ。


「えぇ、大袈裟よね」


 口元を隠しながら小さくほころばせる。エメスの狼狽を前に、ハフサは何ら気に病む様子がなかった。彼女は立ち上がってエメスに近寄ると、胸元から十字架の首飾りを取り出してみせる。


「若いムスリムの娘じゃ誰も相手にしないから……商売って案外、そういう世界なのよ。この応接間だって見たでしょう? 全部数えたら大した値段よ。でも、効果てきめん。たいていの商人は一歩足を踏み入れただけで圧倒される。あとの交渉がぐっと楽になる」


 それはエメスにもよく理解できた。現にこの部屋に気おされて落ち着かない気分でいたのは当のエメス自身だからだ。けれどそれですべてが納得できるほどには、エメスは割り切れなかった。

 ハフサは十字架をしまいこみ、隣にそのまま腰かける。


「どうかしら……これが今の私。そうして、あなたと再会できた」


 一通り話し終え、ハフサは大きく息をついた。美しい服と装飾品に飾られた、当代きっての商人ガブリエラ。それが今のハフサだった。


「ハフサ……」


 エメスは堪えきれなくなって、彼女の服をきゅっと掴み。肩に額を重ねた。


「いえ、ごめんなさい。今はガブリエラなんですよね……」

「いいの。あなたにはハフサのまま呼んでほしい」


 エメスの黒髪を細い指がゆっくりと撫でる。

 かつて獣だったエメスを小川で洗ってくれたその指は、今や隅々まで美しく手入れされ、しもやけやあかぎれにかじかむこともない。けれどその優しい指には、幼き日の悪夢と、そこから続く苦難を乗り越えてきたハフサ自身が確かに息づいていた。

 部屋の扉がノックされ、エメスは扉に背を向けて目元を拭った。

 ハフサはその背を軽くあやしておいてから、ドアを開けるよう促した。

 使用人が準備が整ったことを告げ、料理が運び込まれてくる。それらが一通り並べられると、ハフサは先ほどと同じように給仕を下がらせて席についた。


「さ、食べましょ。柔らかい子牛の肉よ。古い牛脂なんかじゃないんだから」


 ハフサが笑い、杯を掲げた。肉はしっかりと火が通っていて柔らかく、口の中でとろけるように崩れていく。話題は自然と、フェデリコとエメスのことに移っていった。


「あなたたちの事は聞いてたわ。フェデリコ様はローマ皇帝になられるんですってね。パレルモにも帰ってくるって聞いて、あなたと会えるのを楽しみにしてたの」

「知ってたんですか?」

「当たり前じゃない。商人は耳が早いのよ」


 当然とばかりにハフサは言った。船が到着してからは、市場に毎日人をやり、姿を見かけたら教えるように命じてあったのだという。そしてとうとう今日、市場でエメスらしき人を見かけたと聞いたのだ。


「それで、少し驚かしちゃおうかなって」


 ぺろりと舌を見せるハフサ。


「けれど私だってびっくりしたのよ? だってエメスったら、随分感情表現が豊かになってたんだもの。昔はもっとぼーっとしてたじゃない」

「それはあの夜……」


 言い掛けて、エメスは首を振った。

 あの夜の事は、あまり話すべきではないと思ったからだ。フェデリコが女性であることをハフサは知らない筈だったし、何より、あの夜はハフサにとっても辛い思い出の筈だからだ。それに、結局は自分が今笑っていられるのはフェデリコや、多くの人たちが自分と一緒にいてくれているからだとも感じられた。


「フェデリコ様や皆さんのおかげです。私と仲良くしてくれて、そこから感情を学んでいったような気がします」


 事実かは解らない。けれどそれはエメス自身の偽らざる気持ちでもあった。


「フェデリコ様かあ……」


 呟くハフサの言葉で、エメスは何かを思いつき勢い余って机を揺らした。


「そうだ! これから宮殿に行きましょうよ。フェデリコ様もきっと喜ばれます!」


 エメスが期待の眼差しでハフサを見やる。けれどハフサは、そんなエメスを前にちょっと困った様子で頬を掻いた。


「それが実はね……」

「忙しいんですか?」

「忙しいは忙しいんだけど、そうではなくって……」


 言いにくそうにしていたハフサだが、ややして仕方ないかといった感じで白状を始めた。


「私がパレルモの商館を任されたのは、あなたたちと知り合いなのもあって……ありていに言えば、交渉役を期待されてるのね。所属してる組合を代表して祝賀に伺って、関税の交渉もしなくちゃいけない。それを飛ばして先に遊びになんか行ったら、組合の顰蹙を買ってしまうわ」

「そうですか……」


 残念そうに眉をさげるエメス。その様子にハフサは、顎に手をやってわざとらしく考える仕草をしてから、にやりと口端を持ち上げた。


「それに、商人が挨拶に伺いましたって会見して、そこで私を見た方が驚くと思わない?」

「……あっ」


 ハフサの子供じみた提案に、エメスもまた子供のように目を輝かせた。


「だからね、それまでは秘密」


 そうやってハフサは、しいっと口元を鳴らす。

 そこに表された転がるような表情は、まぎれもないハフサのものだった。

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