第二十五節

 柔らかな彼女の指が、私の輪郭をなぞる。

 赤髪せきはつが流れ、肌に絡んだ。私は腰を弓なりに反らせるが、その背は私を包む胸に抱き留められてしまう。四肢の緊張を逃すには、熱い吐息にか細い声を漏らす他なく、思わずその腕で自らの表情を隠した。

 頬はとうに朱に染まり、額や首筋に髪が貼り付くほどの汗を滲ませながら、私の身体はこの意志とは無関係に反応する。

 脚がぴんと張り詰めて、シーツに皺を作り出す。胸の僅かな丘を彼女の腕が撫で降ろし、下腹部を押し下げるように掌が這って、その指が私を見つける。

 身体が震える。先ほどとは真逆に、赤子のように背を丸め、この身を撫でる腕を押し退けようと手を伸ばす。けれど私の手は彼女の腕に絡めとられて、曖昧に空を掻くばかり。

 長さも腕力も私がずっと上の筈なのに、彼女の腕がまるで意のままにならない。所在無く行き場を求めた手を、背後の首に回した。頭を掻き抱くようにして、後ろ首を撫ぜるようにして、ただそこに力を掛けて緊張を逃そうとした。

 彼女はその動きに促されてか、その唇を私の首筋へ埋める。

 甘く添えられた歯にくっと力が込められた瞬間、私の身体はびくりと跳ね返り、再び弓なりに反らされる。彼女の鼻先が首筋を撫で、歯が立てられ、舌と唇が肌を濡らす度、私は視界を失ってただ息を荒くする。

 身体と感覚が乖離して、精神がどちらに残されているのかも解らなくなる。

 幾度めかの緊張に身を悶えさせながら、背に伝わる熱にその存在を感じ、内を撫でる指が彼女のものであることをようやくに想う。

 二十歳だ。もうすぐ、またひとつ歳をとる。以前と今とでは十六歳の年齢差が持つ意味も違い、髪も背も私のほうがずっと長い。それでもここでは、私は今なお妹に変わりなく、姉になされるがまま緩急を繰り返すしかない。

 やがて幾度か四肢を張り詰めさせた末、全ての神経にじわりとした痺れを感じ、身体の芯は緊張を失って脈動を始める。全身の倦怠感をようやくに自覚して、あれほどに乱れていた血流もゆっくりと元の鼓動を取り戻し、熱い吐息だけを残して、腕も脚も力を失って崩れ落ちていく。

 私は表情を片腕に隠しながら天井を仰ぎ、全てを赴くままに任せる。身体にはぐったりと弛緩が広がっていき、意識もまた絡めとられるようにしてぼんやりとほどけていく。


 心地よい倦怠感。

 優しく腰を抱かれ、その腕に身を委ねていた。


「フェデ」


 甘く囁きかける声に、ほどけていた意識が集束し、取り戻される。

 フェデリコの艶やかな赤髪が、カナの肌に広がっていた。

 彼女は言葉なく、ぼんやりとした表情のままカナに頬を寄せる。カナは自分よりずっと広くなった肩をくっと抱き寄せようとして、大きくなった身体に抱き寄せることができず、自ら身体を寄せた。

 胸に顔を寄せたフェデリコが眼を閉じ、細く息を吐き出して呟く。


「暖かい」


 ぽつりと漏れる言葉。


「カナはカナだった。五年くらい、何てことは無いんだな」


 子供のようにまどろむフェデリコを見て、カナはようやく安堵をおぼえた。

 五年だ。人が変わるには十分すぎる時間が経っていた。すらりと伸びた脚で颯爽と歩くさま、たなびく焔のごとき赤髪には改めて鼓動が早まりさえした。けれどフェデリコの蒼い瞳は、何よりそのしなやかな精神はかつてのままそこに在った。

 カナは様相を崩して、フェデリコの髪に口付ける。


「そういう口説き方をして、何人くらい側においたのかしら」

「……三人だ」


 ぎゅっと身体を抱き締め、胸に顔を埋めながらフェデリコは言い、カナは囁き返す。


「また会わせてくださいね」


 身体ばかり大きくなった子供をあやすようにして、その髪をそっと漉く。

 フェデリコに愛人を持てと勧めたのはカナ自身だった。フェデリコの決死のドイツ行が成功に終わり、数多くの諸侯にローマ王として認められたとの報せを受け取ったころだ。

 周囲に女の影が無いのでは怪しまれる。そうした現実的な理由はもちろんあった。けれどカナは、なによりフェデリコに恋をしてほしかった。

 姉妹から始まった関係は、パレルモを発つ前には女と女の関係に至っていたが、カナはそれでもなお家族として数えられていた。それが不快なのではない。ただ、フェデリコの想像する人間関係はあまりにもアンバランスだった。

 フェデリコは敵が一様に敵ではないことも、味方が常に味方ではないことも知っていて、人それぞれに主観と事情、感情の濃淡があり、合従連衡を繰り返すことも理解していた。にもかかわらず、家族から先の関係性には何の区別も段階も持ち合わせていなかった。


『身分は気にせずとも構いません。愛人を作られますように』


 フェデリコがどんな顔をしてその手紙を読んだだろうかと想像すると、なんだか気分が昂ぶる。

 敵か味方かでもない、好きか嫌いかでもない、もっと複雑でままならない人の感情というものを感じて欲しかった。そうやって、失恋すればいいとちょっとだけ期待したり、にもチャンスがあればいいと思ったのだ。たとえ、本人に自覚が無かろうと。


「エメスには手を付けなかったのね」


 カナが含み笑いを浮かべて額に口づけると、フェデリコは抗弁しようと首をもたげる。


「まさか。エメスはエメスだ。そういう関係じゃないし、気分にもならない」

「他の娘を愛人に置いてみても、変わらずに?」

「変わらない」

「私とはしたくなるのに」


 反論しかけたフェデリコの唇をキスで静めて、頬を寄せて耳に囁く。なら、他の三人のこと、聞かせて――フェデリコが微かに首を縮めたのを、カナは愛おしく感じた。首筋に鼻をうずめ、その赤髪を嗅ぎ、吐息を漏らすフェデリコの、揺れる語りに耳を傾ける。

 そうしてカナは、告げなかった。


 はたぶん、あなたを愛してるのにね――




 デーツナツメヤシ・タムルをかじりながら、市場をひとり散策する。

 フェデリコやカナは政治向きのことで何かと忙しくしていたが、その手の話になるとエメスには出番がなく、却って無聊ぶりょうをかこつのはいつものことだった。

 パレルモの街は、以前にも増して活気に満ちていた。


「このチュニスからのチーズを見てくれ! 秘伝の製法で――」

「さあビザンチンで流行りの当世のブローチが――」


 市場に露店を出した商人たちが、輸入品を掲げて声を張り上げる。美しい織物や工芸品といった高級品から、海外からの香料や草薬などの消耗品、中には見たこともないような模様の装飾品なども売られていて、それらを眺めているだけでも飽きることがなかった。

 そうして軒先を眺めながら市場を回っていると、肉が焼ける芳ばしい香りにふと足を止めた。

 匂いのする辺りを見やれば、ぱちぱちと音を立てる炭の上で、羊の串肉が小気味よいリズムと共に手早く回されていく。それを見ているとついお腹が鳴ってしまう。焼き上がったばかりのそれは、今この市場にあって最も価値ある商品に思えた。

 デーツの種をその場に放り捨てると、我先にとばかりにカバーブを注文した。いい匂いを無遠慮に振りまきながら歩く。通行人の垂涎を感じつつかじりつくエメスの足取りは少し自慢げだった。

 市場も大通りに差し掛かると、露店から店舗の通りへと差し掛かる。

 そこになると露店が出ていても本体は真後ろの建物、という感じになってきて、取り扱われる商品も大型のものやまとめ売りが増えてくる。

 売られている商品も毛皮などの原材料や、珍しいものでは海外作物の苗や種といったものから、美しく装飾された武具、更には遠くペルシャからもたらされたと思しき豪華な絨毯などまで売られていた。

 思わず軒先の絨毯を覗き込み、エメスは感嘆の声を漏らす。


「わああ、すごい綺麗……」

「こらこら触るんじゃない!」


 指をそっと伸ばしたところで店主に叱られ、慌てて引っ込める。

 声を掛けてきた店主は腕を組んでふんぞり返り、野暮ったいエメスを胡散臭そうに見やっていた。


「悪いが、汚されたら困るんでね。お嬢ちゃんみたいなのに買える値段じゃないんだ。欲しけりゃいい男でも掴まえて……嬢ちゃんじゃそれも無理か」


 エメスをじろじろと値踏みし、追い払う店主。

 失礼なことを言われているのは、何となく解っている。だけどこういう時のエメスはうまい返しが思いつかず、反論もできずにまごついてしまって、自分が黙っていれば済む話だからとやり過ごしてしまう。

 いつもと同じく、そうして店から離れようとしたその時だった。


「あら、気にすることないわ。その絨毯にそんな価値無いわよ」


 後ろから女性の声がした。

 声の主を探して振り返ると、少し肌の濃い、上品な身なりの女性が立っていた。彼女はにこにこと人懐っこい笑みを浮かべながらエメスをちらりと見やると、ぎょっとした店主へつかつかと歩み寄った。

 はっとした店主が、肩を怒らせ食って掛かる。


「これに価値がないだって? ペルシャからの純正品だぞ! 仕入れ値だって幾らしたと思ってるんだ!」

「あらそう? ならあなた大損こいてるわよ」


 かっとして声を荒げようとした男の指先に、女性はさっと小袋を差し出した。怪訝な表情を見せる店主が受け取ると、ずしりと重みを感じる。もしやと中を覗き込む店主が、生唾を飲み込んだ。


「ちょっと預かっててちょうだい」


 女性は答えも聞かずに絨毯を手に取ると、やっぱりねと呆れたように眉を持ち上げる。


「ほら、御覧なさい。ここの返しが甘いわ。表は綺麗だけれど裏の作り込みが雑なのよ。こういうところに出るのよね」

「なんだって?」


 慌てて覗き込む店主が顔を青くさせる。

 言われてみれば、絨毯の端の折り返し部分の織り込みが甘く、ほつれている箇所があるように見受けられる。

 唖然とする店主に彼女は続ける。


ホラズム朝ペルシアは取引する絨毯の品質も関税も厳格に管理してるの。こんなもの、ウトラメール十字軍諸国辺りで作らせた模造品ね。まあ、実際に機織りに関わってきた職人ではあるでしょうけれど、悪くない出来ではあっても、それまでね。いいところ十分の一ってところよ」


 真青な顔をした店主からぱっと小袋を取り返すと、彼女は顎に手をやって店主を見やり、少しばかり気の毒そうに眉を持ち上げた。


「まあ、二割くらいなら出してもいいわよ。普段使いなら、これくらいの方が気安いから」

「二割!?」


 店主の声が裏返る。エメスもぎょっとした、が彼女がぎょっとしたのは、たとえそれが二割の値段だろうが何だろうが、そんなものを使に気安いと言ってのける女性に対してであった。

 店主はなおもおろおろと狼狽え、せめて四割、三割と声を震わせていたが、女性に小さな金貨を見せられ、遂に二割で手を打った。


「それと、そのう……」


 金貨を握りしめた店主がおずおずと申し出る。


「まだ何か?」

「ここから買ったとは、どうか口外は……」

「……良いわよ。私もこれを、本物だって自慢したいから。お互いさまだもの」


 女性がひそひそと声を落とすと、店主がほっと胸をなでおろす。

 彼女はにこりとしてエメスへ振り返ると、今しがた買い入れた絨毯を指さして首を傾げる。


「これ、持ってくれるかしら?」

「え、でも私は……」


 ぽかんとやりとりを見つめていたエメスは、その言葉にたじろんだ。


「いいじゃないの。家まで運んでくれたらお礼もするわよ?」


 その女性は悪戯っぽい笑顔を浮かべ、にんまりしてエメスを見つめる。

 ふいに、エメスは違和感を覚えた。その眼差しと面影にどことなく見覚えがある。けれど知り合いにこんな交渉人はいない筈だったし、どれだけ思い出そうとしても全く名前が出てこない。

 エメスは眉を寄せて、じっと相手の顔を見つめ返す。

 女性は金貨の入った小袋を弄びながら、首をすくめた。


「ふふ、さすがに解んないか」


 私は知ってるよ――言外にそう言って、女性は顔を寄せた。

 驚き顎を引くエメスに、彼女は小さな声で囁きかける。


「海へ行く約束、まだ覚えてる?」


 問い掛けて、彼女は懐かしそうに微笑んだ。

 その瞬間、時を越えてあの日の面影が重なった。エメスは言葉を失って呆然と彼女の顔を覗き込んだ。たった一日だけの記憶。それでもエメスは、確かに彼女を覚えている。


「ハフサ……?」

「エメス。自分の名前が分かったんだってね」


 呼び掛けられて、エメスは人目も憚らず抱き着いた。

 絨毯屋も行き交う人々も、皆ぽかんとして様子を眺める。


「ハフサ! ハフサあ!」


 フェデリコと出会ったあの夜に死んだハフサが、生きている。

 信じられない思いで、確かめるように抱き締める。

 今までどこにいたんですか。どうしてここにいるんですか。なぜ、どうして――取り留めもない問いが連なって渦を巻きながらも、それらを押し退けてなお留めようもなく涙があふれてくる。

 頬を伝う涙は顔を寄せる度に、ハフサの肌に消えていく。

 夢じゃない。幽霊ジンニーヤでもない。確かにここに存在している。九年の時を経て、同じ時間を共有していた――抱き締めた腕の中、その暖かさを感じたくて、幾度となく力を込めた。

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