第二十四節
再開を果たした彼女たちだったが、ゆったりと過ごす暇は無かった。
カプアではシチリア王国の諸侯を招集しての諸侯会議が予定されていたからだ。
かつてオットーが帝位に就いた時、シチリア諸侯の一部がオットーの下を訪ねた。彼らは
だがその王国の混乱の原因はといえば、つまるところ王権の弱まりを前にした自力救済の横行、すなわち小さくは犯罪と報復、大きくは正に当の諸侯同士の争いにあるのだから、これほど身勝手な話も無かった。
これが単なる建前であるのは誰の目にも明らかだった。
実際のところ彼らは、元々意のままにならぬフェデリコが成人に達し、いよいよ傀儡として不適当になったと見てドイツの新皇帝を迎え入れ、あわよくばこれに乗じて近隣の対立諸侯の権益を侵そうと試みたに過ぎなかった。
ハインリヒが封じたドイツ派の諸侯が中心となってオットーに与すると、フェデリコ不利と見た諸侯が次々と彼の陣営に馳せ参じ、残る諸侯の大半もオットーを怖れて我関せずを決め込み、フェデリコのために軍を率いたのは僅かに数名という有様だった。
ところがそのフェデリコがオットーを討死させ、今や皇帝の座を目前にシチリアへ帰還するとあって、彼らはある種の恐慌に陥ったのである。
「無様ですこと」
くすくすと笑ったのはカナだ。
彼女が笑ったのは、仮の執務卓にうず高く積み上げられた、かつて敵対した諸侯らから差し出された赦免を願う親書であった。
その乱雑に積まれた親書の山を前にすると、さすがにフェデリコもうんざりとした顔で舌を出した。
「こんな大勢から裏切られたのだと思うと、改めて腹が立つな」
「フェデは読まずとも結構よ。誰をどう扱うべきか、おおよそ検討はつけてあるもの」
「なんだ。私は今度はカナの傀儡か?」
「あら、フェデったら排泄物でも覗く趣味があるの?」
いかにも汚らしいものを払うようなカナの仕草に、フェデリコは「それは」と身を乗り出す。
「牛馬の糞便がどれほど有用か知らんのか? あれは――」
そう長々と語り始めたところで、彼女は椅子にすとんと腰を戻した。目の前のカナが呆れた様子でこちらをまじまじと見つめていたからだ。
「うん、よそう。そういう話ではないな……」
面白いのだぞ。おが屑と混ぜると発酵で熱を持って、燃料にも肥料にもなって――湧き上がる衝動をぐっとこらえて、彼女は話を戻した。
フェデリコがカプアへ到着した時――というよりもその遥か以前から、諸侯への対処についてはカナが万事対処を心得ていた。彼女はフェデリコが絶体絶命の危機に瀕した時期を通じ、各諸侯らの人間性を見極めていた。
カナは王権集中を試みる多くの王がそうしたように、小貴族を味方に引き込んだ。大貴族は王国に対してのみならず、周辺の中小諸侯にとっても圧力を加える存在であったからだ。だがその基本路線は同じでも、彼女の場合はその手法が徹底していた。彼女は彼らの対立関係をつぶさに把握し、二の味方を得て一の敵を討つを常とし、柔らかな物腰で決して本心をさとらせなかった。
そうして彼らの中に味方を見つけ出して一種の共犯関係を築き上げ、味方とすべき者、使うべき者、叩き潰すべき敵とをより別けていったのである。
「それで、彼らはどう遇すべきと見ているんだ」
フェデリコが問い掛けると、カナの薄い唇がきゅっと笑みを漏らす。
「使い捨てればよろしいですわ」
そのあまりにもな物言いに、フェデリコは思わず吹き出しそうになってしまう。だがそれだけに、カナの意図するところは明白だった。
「信頼に足る味方は慌てふためかん、敵すると心に決めた者も今さらじたばたせん。となれば、この書状の送り主は大半が付和雷同の輩ということか」
「えぇ。目立つ非のある貴族を名指しで糾弾すれば、彼らは忠誠心を示すために我先に同調するでしょう。そうして使い走りをさせ、十分と疲れさせてからじっくり処分なさればいいわ。その過程で、残しても良い者と排除すべき者も自ずと見えて来ましょうから」
はたして諸侯会議はカナの言う通りになった。
フェデリコが一部の有力諸侯に対してオットーを招き入れた裏切りを指弾すると、参集者のほぼ全員、その非を鳴らして大合唱となった。
「アクイラ伯は我が領土を侵し、同地に城塞を建て――」
「王権を侵害し、我が封土の正式な権利を――」
次から次へと挙がる非難の声。だが当の彼らとて、大半はオットーに与するか当時風見鶏を決め込んでいた者たちなのであるから、その倒錯は誰の目にも明らかだったろう。
とはいえ彼らの同調で、会議は概ね企図した通りに進行した。
赦免を期待して参集していた幾人かの貴族は直ちに捕えられ、会議に姿を現さなかった敵については、その所領没収と権利の廃止が通告された。
また諸侯が認められた所領とその特権について、父ハインリヒの死から現在に至るまでに認められたものを全て白紙に戻すと宣言し、正当に認められたものは証拠となる文書を提出するよう命じた。それらの中には、フェデリコを傀儡としていた時の宰相や将軍が勝手に発した証書や免状が多数含まれていたからである。
会議がひと段落して、二人はようやく肩の力を抜いた。
のんびり海でも眺めようというのではない。ただ衆目がなくなって肩の力を抜けたというだけで、処理すべき案件は山積みだった。
「よくここまで整理しておいてくれた」
「暇だったのよ。それに、敵味方をより分けるなら、結局触れずにもおけないもの」
フェデリコが出す勅令は、もちろんフェデリコの発案あってのものだったが、その詳細と下準備は先んじてカナが済ませていた。その途上でカナが最も力を入れたのは、「
「配置はどうだった、抵抗されたんじゃないのか」
「えぇ、それはもちろん。だからこれまでは、臣従が確かな諸侯の下で不文律で運用するしかなかったわ」
カナにとって幸運だったのは、制度そのものは以前から存在していたことだ。
この制度はシチリア王国の建国期に一旦は普及したが、その後、王国の混乱と弱体化に伴い、諸侯自らがこれを兼ねたり世襲化される名誉職と化すなど、形骸化が進んでいた。
これを建て直すとなれば、抵抗にはあっても、建前として既存制度の遵守を求める形を取れるため、まだしも説得がしやすかった。
「一度機能してみると、案外受け入れられるものよ。地方の小領主や代官は、領地や権限が細切れになってるから、治安維持と訴訟処理は負担だったのね」
「それはそうだ。数百人しかおらぬ領地に法と訴訟に通じた人間など常駐させられるものか。領主自身が代行するにしても、専門知識が無ければ本人の才覚と人徳で治めるより他無いのだからな」
犯罪者の逮捕や処罰とその実施に必要な裁判権を有し、民事訴訟も裁くことができる。最も重要なことは、この行政官は王国から直接任命されるものとされていて、犯罪者を自ら起訴する権限を有していることだ。たとえ被害者の訴えがなくとも、国王の名の下に犯罪者を捕え、起訴できるのである。
従って彼らは、治安と法制度の普及に際して、在地領主との人間関係や距離感といった複雑性を可能な限り排除することができ、王の発布する法律を国の隅々まで行きわたらせる要とることが期待された。
今回の会議ではこの司法官の存在が改めて明文化されることになり、既に配置されていた司法官らは、先にあげた諸侯の権利を認めたとされる証拠を諸侯らから預かり、それぞれの任地において予備審査を行うことが宣言された。
あとは、司法官の手に余る案件と上告の処理に集中すれば良いのだ。
こうして諸侯会議を終えたフェデリコは、カプアの留守をベラルドゥスに預け、新たにボローニャ大学より引き抜いた法学教授のロフレドゥスを上告の審理のために残すと、再びパレルモへ向けて出港した。
カプアでの諸侯会議は諸侯から様々な反応を引き出した。
もはや抵抗を諦めて自ら出頭する者、自棄となって城塞に立て籠もる者、あるいは未練がましく今なお教皇に仲介を泣き付く者。そうした諸侯らの中でも最も強大な権力を誇る男は、不気味な沈黙を守っていた。
「アプーリアの小僧め!」
夕陽が差し込む部屋の中、細身で精悍な風采の男が声を荒げた。
モリーゼ伯チェラーノのトンマーゾ。イタリア半島に広大な所領を抱え、単独で一五〇〇人もの軍勢を動員できる、シチリア王国屈指の大貴族だ。
トンマーゾはオットーに与する以前、フェデリコと数回面会に及んでいたために、フェデリコの激しく果断な性格について先行きの不穏を感じ取っていた。彼は会議に先立って長々とした釈明と謝罪の親書をもたらしたものの、自らは参列せず、息子と筆頭家臣を代理として差し向けるに留まった。
「自力救済は古のサリカ法が認めるところではないか! 我々の行いは王権の庇護を受けられぬ状況でのやむを得ぬ仕儀であって……」
「我がシチリア王国はサリカ法典を頂くつもりはない!」
熱弁を揮う家臣の弁明を、フェデリコは一刀両断に退けた。
その言葉に静まり返る議堂。
家臣は雲行きの怪しさに感づいた。参集していた諸侯の視線が、自分たちの権利の擁護者に対する期待の眼差しから、次第に犠牲の羊を求める群れのそれに変わりはじめたとみるや、全権代理たるトンマーゾの息子が悪病と称し、彼を連れて早々に逃げ帰ってきていた。
「旗色が悪いことは覚悟しておりましたが、会議が始まるや否や我等を非難する声は後を絶たず……」
頭を垂れる家臣に、トンマーゾは呻いた。
「よい。やむを得ぬ……やはり会議は罠だったか」
「しかしまさか、ドイツにいた王がここまでの準備を済ませていたとは」
「それだ。奴にそんな暇があったとは思えん。とすれば……」
彼は一瞬、フェデリコの留守を守る女宰相を頭に思い浮かべたが、すぐさまそれを押しのけた。
「いや、とにかくまずは今後のことだ。まだ力の残されておる諸侯を糾合する他あるまい。そうすれば浮草のような木端貴族どもは、雪崩を打って我らの陣営に駆け込んでこよう」
「ならば、今は何にましても時間が必要です。諸侯が国王に取り込まれてしまう前に何か手を打ちませんと」
「解っている。だがな……」
問題は、その準備が整うまでの時間稼ぎだった。
教皇に仲介を頼んでみてはいたが、さしあたりフェデリコと教皇庁の間は良好で、戴冠式を控えた今味方に引き込むのは困難と思われた。誰か諸侯に反乱を起こさせるにしても、それが「準備が整うまで矢面に立て」では応じる訳がない。
妙案が無いままに陽が沈み始めたころ、可愛らしい小姓が恐れながらと顔を出した。
「殿に面会のお申し入れがございます」
「今はそれどころではない、引き取ってもらえ」
「しかしその、ジェノヴァの大商人でして……」
「どこの商会だ」
トンマーゾが指で招くと、小姓が駆け寄ってその名を耳打ちする。トンマーゾはその名を聞いて眉を持ち上げた。彼がちらりと小姓を見据えると、小姓は顔を赤くして背を正し、緊張の面持ちで言葉を続けた。
「何でも、殿が必要とされる商品をお持ちしたと申されています」
その物言いに奇妙なものを感じたか、トンマーゾは会おうと言って席を立った。
風が吹き、船が揺れる。
大きな三角帆と多少の櫂口を備えた商用船が、波を切って進む。
一人の少年がマストにもたれて座り込んでいた。十六歳ほどの少年は赤い頬を青くさせながら、船が揺れる度に頭をぐらぐら揺らしている。その少年をフェデリコが覗き込む。
「まだ慣れないのか?」
「だめです陛下。私はこれまでです……」
ドイツより付き従ってきた、テューリンゲン方伯ルートヴィヒは弱音を吐いてぐったりとした顔をあげる。
「しゃきっとろ。ヘルマンを見習え。
彼女が指さした先では、豊かな髭を蓄えた壮年の男が船のへりから海を眺めていた。ザルツァのヘルマン――ドイツ騎士団総長を務める、歴戦の勇士だった。彼はその厳つい顔つきには似つかわしくないほど穏やかな声で笑った。
「私は慣れておりますからな」
チュートン騎士らを擁する
ヘルマンとフェデリコは、彼女がローマ帝位に就くために教皇と交渉を始めたころに出会った。彼はフェデリコとは親子ほども歳が離れていたにも関わらず、何度か話す内にすっかり意気投合し、今では側近の一人として数えられるようになっている。
もっとも、ベラルドゥスとは対照的に、後にフェデリコが女性と聞かされた時にはさすがに面食らっていたが、それでも彼の忠誠心と友誼は変わらなかった。
「ヘルマン殿と比べられたら――」
「あっ、見えました!」
ルートヴィヒの嘆きを遮って、頭上からエメスの喜びに満ちた声が響く。
彼女はマストに張られたロープを掴んで身を乗り出し、遠く水平線を指さす。
「パレルモです! パレルモの街ですよ!」
この街を発って五年。
そこにはかつてと変わらぬ白い街並みが陽に輝いている。
彼女たちは、ようやく我が家へ帰宅したのだ。
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