一二一五年 帰還 -min Jahannam-
第二十三節
かつて粗末な身なりで北上した道を、華やかな隊列が南下する。
オットーとの帝位争いに勝利したフェデリコはイノケンティウスからの内旨を受け、数ヵ月後の戴冠式を控える身となっていた。
彼女はドイツ滞在の間に、改めてローマ王の戴冠式を執り行った。カール大帝の玉座が鎮座させられている、ドイツ西部に位置するアーヘン大聖堂に聖遺物を揃えての戴冠式だ。
大司教によって厳粛に執り行われた式も終わりに差し掛かったころ、聖別と王冠を授けられたフェデリコは、突然に立ち上がるとおもむろに十字架を背に振り返った。
「帝冠の神聖なる尊厳は、
ドイツや同盟者であるフランスの諸侯らがざわめく。
彼らにとっても馴染み深い皇帝らの名を耳にして、にわかにフェデリコへ注意が注がれる。
「然るにそれは、古のオクタウィアヌス・アウグストゥス、ひいてはガイウス・ユリウス・カエサルより始まり、千二百年の時の中に継承されてきたるもののはずだ。だが、今やその千二百年の時は千々となり、帝国は名ばかりのものになり果てようとしている」
陽が差し込む大聖堂に響き渡る、フェデリコの鋭い声。
「
フェデリコの宣言に呼号して、盛大な拍手が巻き起こった。
だがその宣言は、市井にひとつの論争を巻き起こすことにもなる。
フェデリコの言う『
ならばと人は問う。然るに『神のもの』とは何か。
少なくとも世評におけるフェデリコ像は、教皇が遣わしたダヴィデのあだ名に表されるように、教皇に薫陶を授けられた忠実なる王といったものであった。彼女が名を挙げたカール大帝も、世を聖なる家に建てること――すなわちキリストの国を築くことを自らの務めと公言していた。
それ故に彼女が言う神のものとは、教会への奉仕を示すものと捉える者もいたが、それではあまりにも漠然とし過ぎていた。
そうして人々が目を向けたのが、歴代皇帝の神聖なる責務と称されるものだった。それはこれまで、一世紀以上の長きに渡って十字軍のことに他ならず、人々は神のものでありながら神の手から失われたままの存在に思い至り、にわかに沸き立った。
教皇の遣わした
人々はその物語に喝采を叫んだ。
「奇妙なものだ。私の知らぬところで私の物語ができあがっていく」
吟遊詩人の唄を耳にしたフェデリコは、頬杖をついてぼやいた。その話を仕入れてきた当のベラルドゥスはといえば、彼女のぼやきに満足した面持ちでにやにやと口を歪めている。
「お諦めになることです。教皇庁からは、どうせ帝位就任にあたって十字軍の宣誓をせよと求められているのですから。それに、これで市井の反応もよくお分かりになったんじゃありませんか?」
「気楽に言ってくれる。誓約……十字軍か……」
フェデリコは不満げだった。
というのも彼女の真意は、名を挙げられた古の皇帝らにこそ向けられていたからである。
今、ローマ皇帝の正統性は、神の代理人たる教皇によって裏付けられている。だが始まりの
その答えは他の誰でもない、彼ら自身だ。世界の混沌を母胎に、民の声が王を呼ばわる――ただ市民の推戴のみが皇帝を皇帝たらしめるのであり、最後の一歩を踏み出すのは、運命を自らのものとする己の力に他ならない。
それ故にフェデリコは唱えたのだ。
「確かに教皇庁の手前、迂遠な言い方をしたが、こうも全く抜け落とされてしまうと納得がいかん」
「陛下は自分が賢いものだから、他人を賢く見積もり過ぎるのですよ」
「そういう言い方、私は好かないな」
ベラルドゥスがくっくと喉を鳴らすと、彼女はむっと唇を尖らせたが、ややして溜息まじりに椅子にもたれ掛かった。
「……誰もが、現世の苦しみから自らを解き放つ術はないと思い込んでいる。人が見る十字軍の夢は、その懊悩がもたらすもがきだ……時代は、その先があるのを忘れている」
ぼんやりと天井を見上げながら、その瞳は、時代の所以を見つめていた。
彼女たちはその後暫くドイツに滞在し、一二一五年の晩秋までをその仕置にあてた。ブーヴィーヌの戦いからおよそ一年、フェデリコはもっぱら残されたオットー派諸侯の切り崩しと抵抗の排除、遺領の分配といったその戦後処理に集中し、諸侯には積極的に介入しなかった。
それはフェデリコが、現代のローマ皇帝がドイツ諸侯の統制と自らの王権強化にその活力を損耗してきたと見ていたからだ。
父ハインリヒは恐怖によって、祖父バルバロッサはその魅力によって諸侯を付き従わせることに成功したが、いずれもその根本的な制度を一新するには至っておらず、同じ轍を踏むことは無いように思われたのだ。
彼女は諸侯の特権を既に承認していたが、鋳造権の他は重ねてこれを承認することで、改めて諸侯の支持を取り付けた。
鋳造権――つまり貨幣発行は皇帝の専権事項としたものの、鋳幣所は諸侯合弁で設立され、その運用にも諸侯の同意が必要と定められたので、実質的には帝国内での貨幣統一だけが目的だった。
また叙任権問題に代表される聖界の権利や世襲権についても基本的にこれを認め、先の鋳造権をはじめとして要塞建設の権利や通行権など、王国の一体性に関わる部分のみを保留事項とした。
いわばこれも、皇帝と神それぞれへあるべきものを返すという宣言の実践と言えたかもしれない。
それらの対応がひと段落したころ、フェデリコはドイツ諸侯と別れて北イタリアの都市ミラノに入城する。
宿舎に宛がわれたカプアの館で、フェデリコたちは懐かしい顔に再会した。
「カナ!」
摂政としてシチリア王国の留守を預かっていたカナや、護衛に残っていたアルフレードたちだった。
フェデリコとカナは強い抱擁を交わした。約四年半ぶりの再会だ。
かつてつま先を立てなければならなかったフェデリコは、今や屈みこむようにしてカナと唇を重ねられる。けれどもその姿は、二人の関係を知る人々にとっては今なお姉妹としてのそれだった。
「長らく留守にして……よくシチリア王国を守ってくれた」
「えぇ、本当に。全部私に押し付けていってしまうんですもの」
呆れたような様子でカナは微笑み、屈みこむフェデリコの髪を漉く。
ひとしきり抱き合ったフェデリコは、視界の隅、スカートに隠れた人影を目ざとく見つけると、彼女は勢いよく屈みこんで覗き込んだ。
「もしかして、エンリカか?」
「……ん」
恥ずかしがってはにかむ子供の手を取って、カナは微笑んだ。
フェデリコが子供を抱きかかえ、子犬でも可愛がるようにもみくちゃにする。今や七歳となった、二人の娘だった。あの時駆け出した二人で見つけた捨て子は、二人の娘として育てられていた。
「すごいな。もうこんなに大きくなったのか」
フェデリコがふと手を緩めると、エンリカは恥ずかしがって再びカナの背後に隠れてしまった。フェデリコはきょとんとして手をひっこめる。
「逃げることないじゃないか」
「仕方ないわフェデ。五年ぶりなのよ。これだけ大きくなる間、あなたのことは手紙でしか知らないのだから」
「そうか。そうだな……」
頭をかるく掻くフェデリコが、何かを思い出して懐へ手をやった。
エンリカもカナも、皆がその手元へ意識を向ける中、フェデリコが取り出したのは一枚の貨幣だった。だが小遣いでも渡すのか思いきや、その貨幣をよく見れば、意匠が一般的なものと全く違うことに気付く。
「これは何だと思う?」
フェデリコが問い掛けるが、エンリカは貨幣らしきものをじっと見つめるばかりで答えられない。その様子に、フェデリコは少し悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「これはな、大昔の銀の装飾品だ。コインのような形をしているが、見た事のない文字が掘られているだろ?」
焦らすようにそれを差し出すと、エンリカがじっと見入る。
フェデリコは持ってみるかとばかりにその先端をエンリカへ向けた。おそるおそる受け取るエンリカに、改めて語り掛ける。
「これはな、ヴァイキングという者たちのペンダントだ。ドイツが、イタリアよりずっと北にあるのは知ってるか?」
「うん……」
「彼らはな、そのドイツより北、もっとうんと北から来たんだ。その文字を見てみろ、それはルーンと言う文字で、文字ひとつひとつに意味があるという。これはアサ、彼らが信じていた最北の神々だそうだ」
「アサ……それが神様たちの名前なの?」
「ああ! 雷を操る神が王だそうだぞ」
「雷の神様……!」
エンリカが瞳を輝かせるのを見て、フェデリコはわざとらしく声を落としす。
「どうだ、その話、こっそり話してやろうか」
「知ってるの!?」
「会ったら話してやるつもりで、手紙には書かなかったんだ。あ……皆にもまだ秘密だから、私の次はおまえが最初だぞ」
「聞きたい! あたしも聞く!」
エンリカがフェデリコに飛びついた。
彼女は立ち上がると、皆に目配せして隣の部屋へと去っていく。カナはその背を見送って、残る面々へと向きなおった。
「皆も、よくフェデのことを守ってくれました。それにエメス、あなたも随分大きくなって……ただ……」
ふと、その笑みが消えていく。
「ずいぶんと、傷が増えたのね」
カナが表情を曇らせたのは、エメスの全身に刻まれた傷だった。オットーとの戦いだけではない。五年の間にエメスは幾度となく手傷を負い、傷はひとつ、またひとつとその肌に痕を残していた。
エメスは先日オットーにやられた腕の傷を見下ろすと、あっと声をあげ、慌てふためいて腕を隠した。
「そんな風におっしゃらないでください。これだけが私の務めです」
おろおろと狼狽えるエメスを見て、カナは首を振る
「そんな風に言っては駄目よ。傷のことだけじゃないわ。これしかないなんて、自分を追い込むのもやめなさい」
「コンスタンサ様……」
カナは明るい表情を取り戻すと、さてと呟いて皆を見回した。
「お腹も減ったでしょ。フェデはエンリカに取られちゃったから、ドイツの話は皆が聞かせてちょうだい」
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