第二十二節

 そこはかつて、世界そのものだった。

 街には目もくらむ巨大建造物が立ち並び、その栄光は永遠に続くと信じられていた。今、時の中に埋もれたそれらを顧みる者はなく、石造りの遺跡は草に覆われて牧童が羊を追い、羊たちはただ地面を舐め草を探して日々を生きている。

 かつて人口百万を数えた巨大都市は、世界を統べる巨大帝国無くして存在しえないものだった。

 この地上にかつての巨大帝国は存在しない。

 その残骸だけが生きながらえている。

 人々は皆、姿を消してしまった。


 ローマ。彼らが憎悪した悪徳と退廃の都。海より現れたる黙示録のテリオン

 彼らがその地に本拠地を構えたのは、魔獣の七つ首を押さえつけることで悪徳と退廃を制しようとした為か――だが、彼らは考えなかったのだろうか。自分たちもまた、七つ首の獣に魅入られてはいまいかと。

 今この地には、いにしえからの大聖堂や墳墓が連なって創世と終末を司り、歴代教皇が住まうラテラノ宮殿の眼前にそびえ立つ巨大なオベリスクだけが、往時の繁栄をひっそりと讃えている。

 その宮殿の一角に設けられた寝室で、一人の男が椅子に腰かけて、蝋燭の仄かな灯りの下で聖書を読んでいる。

 この地上にあって神に最も近いとされるこの男――イノケンティウスの日々の終わりは、その絶大なる権威に比べれば遥かに慎ましやかなものだった。

 蝋燭のゆらめきに、彼はゆっくりと聖書を閉じた。

 そうして彼は、部屋の隅の暗がりへ向けて問い掛ける。

 格調高い、厳かなラテン語だった。


「いかがしましたか」

「お休みのところ、ご容赦ください」


 彼の言葉に、暗がりから声が返ってきた。その声は、静かで落ち着いた女性の声をしていた。


「先日、オットーが戦死しました。帝位争いは早晩決着が付こうかと思います」

「そうですか。早く決着が付きましたね」


 イノケンティウスが瞑目する。


「よろしい。ならば十字軍を誓約させることもできましょう」


 イノケンティウスは、かつてドイツに向かうフェデリコを出迎えた時の事を思い起こしていた。

 後見の身にありながらも、イノケンティウスがフェデリコと出会ったのはその一度きりだった。だがそのうら若き王に対する豊かで複雑な印象は、今も彼の中に残されている。

 フェデリコは、僅かな供だけを引き連れ、貧しく粗末な装いでローマに現れた。とてもこれからローマ王位を戴かんとする者の出で立ちとは思えなかった。

 だがそれこそが却ってローマ市民の同情と声援を集め、市民らはフェデリコを『教皇の遣わすダヴィデ』と呼んだ。

 教皇に対する誓約を更新したフェデリコは、市民から贈られた新たな装いと路銀を手にローマを旅立っていった。

 ローマ入城から出立まで、フェデリコはあくまで教皇の臣下として振る舞った。だがイノケンティウスは気付いていた。その魂が心のうちに秘めたるもの――従順な子羊の毛皮に隠された蒼い瞳。そこに輪郭を表しつつあった、自らを焼き尽くすほどの激しい渇望を。


(この者は、いずれ教会に仇なす者となる)


 それは確信めいた直感だった。

 あるいはそれと知っていながらも、それでも彼は、祝福と共にフェデリコを送り出した。それが、教会にとって――ひいては世界にとって必要な事であると知っていたからだ。

 そして今や、あの時ぼろをまとって現れた王は、自らの手に帝冠を掴もうとしつつある。イノケンティウスはそこに運命の導きとその過酷を感じずにはおれなかった。

 それでも彼は、感傷に流される男ではなかった。彼は自らのなすべきことを知っており、それを自らに課すことに躊躇しなかった。


「皇帝の戴冠式は、十字軍の誓いと引き換えとさせます。私の命が続く間に、それは必ず誓わせましょう」


 彼は続けて、影へ向けて問いかけた。


「あなたはこれからどうなさるのです」

「……私もかの地へ」

「いいでしょう。必要な身分はこちらで用意させます」

「感謝します」


 イノケンティウスは顔を上げ、窓の外へと視線をやる。


「あの者には、何としても十字軍を率いさせねばなりません」


 夜の空に月が浮かび、それは広がる無数の星々に囲まれている。

 教皇は、世界をあまねく照らす太陽であらねばならなかった。人々は彼を畏れ敬い、その輝きにひれ伏した。だが人は、太陽の眩しさと力強さについ忘れてしまう。あれほどに輝ける太陽が、その実孤独であることを。


「世界の永久とわなるため、聖地イェルサレムは、血と剣によって解放されねばならない――」


 冷徹の体現たる灰色の瞳は、何を見つめていたのか。

 この翌年、イノケンティウスはかねてより宣言されていた公会議をラテラノ大聖堂にて開催した。

 教皇は太陽、皇帝は月――厳かにそう告げた彼自身が、どれほどにそれを信じていただろうか。その理想と正統が常に権力の腐臭と不可分たる、呪われしであると識っているのは、祝福と聖句に包まれる大聖堂において彼ただ独りであった。

 公会議より一年もせぬうちに、第一七六代教皇イノケンティウス三世は眠るように息を引き取った。その葬儀は壮麗を極め、教皇権の絶世と共に、一時代の終わりもまた感じさせるものであった。

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