第二十一節

 誰かの微かな息遣いに、エメスはそっと目を開いた。

 ふと傍らを見るとそこには椅子に腰かけたフェデリコがおり、彼女は腕組みをしたまま、うとうとと船をこいでいた。

 エメスは少し迷ったが、結局声を掛けることにした。どうせ眠るなら、自分の見舞いなどいいからゆっくりと休んで欲しかった。


「フェデリコ様、起きてください」

「ん……あぁ。寝ていたか」

「風邪をひきますよ。お戻りになってください」


 エメスは上体を起こした。

 その胸と左腕には添え木がされていて、布できつく締められている。腕や頬にはペースト状にすり潰された薬草が塗りたくられていたが、それらも今は乾いて粉になりつつあった。


「痛むか?」

「いえ……頑丈さが取り柄ですから」

「そうか。何か欲しいものはあるか? 今なら私手ずから取ってきてやるぞ。何せおまえは我が軍の戦功第一だからな」

「ふふ。いいんです、本当に」


 冗談めかしたもの言いに、エメスは小さく笑った。


「私が言ってるのは冗談ではないぞ。おまえがオットーを討ってくれたから、この内乱は数年は早く片付くさ」

「そんなにですか?」


 驚きに思わず声を弾ませると、フェデリコは少しばかり上機嫌ぎみに顔を寄せた。


「もちろんだ。幾ら戦で勝ったとはいえ、奴は生きていれば抵抗を諦めまい。風見鶏どもの様子見ももう暫く続いた筈だ。だが奴が死んで、ドイツには私の対抗馬になりうる者はいない。残りはこちらが風を吹かせればすぐになびく」

「そっか、そうなんですね……」


 身体から力が抜けた様子で、エメスはぽかんと空を見上げた。天幕の支柱に開けられている穴から、僅かばかりの星がちらついて見える。


「終わってみると、呆気ないものですね……数年前までは、勢力を誇っていたのは彼の方でしたのに」


 今からおよそ六年前。

 十四歳で成人を宣言したフェデリコは、カナとの結婚後、シチリア王国の統一に取り掛かっていた。

 それと同時期、ここドイツではシュヴァーベン公オットーがドイツ王国における内乱を制し、遂にローマ皇帝へと就任した。ドイツ諸侯が長びく内戦に倦んでいたこともあったが、何より大きな影響を及ぼしたのは教皇庁の意向だった。

 フェデリコに言わせれば、教皇庁の基本外交は、強大な統一王権の樹立を阻止することにある。彼らはローマ皇帝位を望むオットーの戴冠を許し、彼を帝位に就けた。

 ところがこのオットーがとんだ曲者だった。

 帝位に就くなり半年もせぬうち、たちまち教皇に反旗を翻したのである。

 彼は教皇に立てた誓約を破るにとどまらず、自ら軍を率いてイタリアに進軍し、シチリア王国にまで攻め込んできた。

 オットーの勢力は極めて強大で、対するフェデリコはシチリア島すら完全に掌握はできていなかった。そもそもオットーのシチリア王国への侵攻自体、彼女に臣従している筈の諸侯らが謀って招き入れたのだ。

 パレルモ以外の殆どを敵に回した彼女には、万が一にも勝ち目は無かった。


「あのままだと、死体となって転がっていたのは私の方だったろうな」

「そんな言い方しないで下さい。たとえどんな戦いになったって、陛下は絶対に私が守ってみせました」


 エメスが少し不満げな様子で言葉を返した。


「あはは、そうだな。悪かった」


 だが結局のところ、オットーはシチリア島には攻め込んでこなかった。教皇イノケンティウスがオットーを見限ったからだ。ドイツとイタリアの統一を阻む為に帝位に就けたオットーが、それを狙って野心をむき出しにするのでは、全くの本末転倒だったのかもしれない。

 彼はオットーに破門を宣告してドイツ諸侯の叛乱を扇動し、フェデリコを新たなローマ王として推戴させた。

 そこからの両者の行動は対照的だった。

 オットーはそのまま進軍して対立皇帝フェデリコを捕らえてしまえばどうとでも始末できた筈だった。それなのに彼が示した反応は、獣の脊髄反射に近いものであった。

 彼は怒り狂い、根拠地ドイツの叛乱を鎮圧するため、シチリアを目前に引き返し、ドイツへの帰路を北上したのである。


「結局奴は、戦場の勇士であっても、それまでの男だった。カエサルにはなれない男だったな」

「カエサル……皇帝にですか?」

「いいや、文字通りのカエサルだ。奴はルビコールビコン川を渡れなかったのさ」


 フェデリコの目元に、静かな思索の色が浮かぶ。


「フェデリコ様は、ルビコーを渡ったのですか?」

賽を投げたのさアーレア・ヤクタ・エスト


 少しおかしそうに口元を緩める。


「ま、私の場合なんか、彼よりよっぽど状況が悪いがな。なにせ彼には第十軍団レギオー・イクスがあったが、私には八騎だけだ」


 過ぎたことだから、喉を鳴らして笑っていられる。

 王位就任を乞われたフェデリコは、根拠地シチリアが不安定にも関わらず、カナを摂政として留守の全権を与えるや、直ちにドイツへ発った。

 誰もがこの旅を引き留めた。彼女がドイツに辿り着くまでに、ドイツ諸侯たちが彼女の味方であり続ける保証などどこにも無かったし、今やオットーと対立に至った教皇庁がいつ和解せぬとも限らなかった。

 それでもフェデリコはパレルモを発つことを決めた。エメスら信頼のおける者たち、たった八騎だけを率いての無謀な旅立ちだった。


「人間に世界を見通す力は無い……私がやったことは、確かに賭けだった。それも、とびきり危険な賭けだ。けれど人間には、賽を振らねばならない時がある」

「運命に身を委ねる……ということですか?」

「……少し違うな」


 フェデリコが静かに、しかしはっきりと言ってのける。


「賽の目は運命の女神フォルトゥーナの手に委ねられているかもしれない。けどのは、いつだって私たちだ」


 不敵な、それでいて包容力を感じさせる笑み。

 この女性ひとの傍にいると、彼女はいずれ、世界の全てを従えてしまえるのではないか、そんな気さえしてしまう。それなのになぜだか、どうしようもなく胸が締め付けられるのだ。

 フェデリコは、運命の女神フォルトゥーナの手を取り、ルビコーを渡った。

 その旅は、ある種の伝説に彩られていた。

 フェデリコフリードリッヒの父方の祖父は、彼女と同じフリードリッヒの名を持ち、諸侯から赤髭王バルバロッサと呼ばれた男だった。

 バルバロッサは英雄だった。

 豪放磊落ごうほうらいらくで政戦に優れ、いにしえのゲルマン族的勇猛と強大な王権をその身に統合した男と謳われた。

 彼は十字軍に発ち、異国の地で川に溺れて死んだ。だがそれだけに、諸侯にとってのバルバロッサはただ死んだのでなく、の存在となっていた。


 フランクフルトで執り行われた大集会に現れたフェデリコを目にして、馳せ参じた諸侯は息を呑んだ。

 赤き髪をたなびかせ、内なる意志を秘めた瞳。それはまるで――


「彼は優れた武人である。ならば彼は、諸君らの王たるに相応しいか? いいや、諸君は既に知っている筈だ。彼が諸君らに何を求め、何を与えたるか。服従と屈辱! 彼は誇り高き戦士の末裔である諸君らに、ただ服従を求める! 翻って彼が諸君らに与えたるは、唯一屈辱のみである!」


 なりやまぬ諸侯のざわめき。

 フェデリコの声が並み居る彼らを揺さぶり、天へと響く。


「私は屈辱を知る! 誇りの何たるかを知る! 諸君らが何者であるかを知っており、諸君らもまた私が何者であるかをる! 故に私は、決して諸君らの誇りを奪うことはない! 何故ならば我が誇りもまた、その源を諸君らと同じくするからだ!」


 人々は彼女の言葉に奮い立ち、荒々しい声が雄叫びをあげる。

 長駆二千五百キロ。ドイツの諸族にとって遥か想像の中にしか存在しない遠き南国のシチリアより、その孫が身一つで僅かな供だけを従えてドイツの地に

 彼らは見たのだ。運命を我が物にせんとする、その激烈たる彼女の瞳に、祖父の面影を――彼らが愛してやまなかった赤髭王バルバロッサの、激しく燃え盛る情熱を。


「聴け、ゲルマンの子らよ! 我が名はフリードリヒ! ローマの正統なる後継者にして、人民の守護者である! 私は諸君らの許へ帰って来たのだ!」


 フランクフルトの大聖堂は万雷の拍手と皇帝への喝采に満ち溢れた。

 南からの風が北の大地を席捲する。

 たった一人の少女が、世界を変えてしまう。

 人は時に、伝説や神話に自らの運命を組み込もうと欲する。そこに生まれた伝説は、彼らにそう想わせるに十分だった。


 無論、それだけではない。

 彼女自身、自らの手札は諸侯の支持が全てと承知していたから、彼等の情熱が滾っているうちににあらん限りの金と免状をばらまいてその支持を固めた。

 何よりオットーがその吝嗇によって諸侯の反感を買っていた為に、彼女は意識して気前よく振舞い、自らをオットーと対照的に演出して諸侯を切り崩していった。

 ある時などは、オットーに臣従を筈の騎士らが一夜にして装具を投げ打ち、陣営をもぬけの空にしてフェデリコの許へ馳せ参じた。

 フェデリコがフィリップと同盟を締結するに至り、焦ったオットーはイングランド王ジョンと組み、フェデリコの軍事的後ろ盾となったフィリップを破ろうと試みる。その結果引き起こされたのが、このブーヴィーヌの戦いだった。

 戦いはフランス軍の勝利に終わった。オットー派諸侯の数多くが捕虜となり、オットー自身も戦場に斃れた。

 フェデリコたちにとってこれ以上望むべくもない大勝利。

 だがエメスは、それでもまだ不安が頭をよぎるのだ。


「これで、教皇猊下はフェデリコ様の戴冠を認めて下さるでしょうか」

「認めるさ。私は今や、教皇の遣わしたダヴィデだからな」


 フェデリコは市井の言葉を借りながらも、椅子を少し寄せると、優しげに語りかける。


「ま、おまえが心配するのも解るがな。オットーとて、元々は教皇の後押しで帝位に就いたのだ。私と教皇の蜜月も、いつまで続くか解ったものじゃない」


 フェデリコの冷静な言葉に、エメスは首を振った。


「そうではないんです。ただその、心のどこかに不安があって……」


 言われてみればそれらは確かに心配だった。

 けれどエメスが心のどこか抱いている不安は、そうした現実的な問題とはまた別の渦を巻いているように思えるのだ。それは、自分たちの掴んだ勝利と成功が、運命によっていざなわれたものに過ぎないのではないかという不安だった。

 全てが上手く行きすぎている。

 それは贅沢な悩みかもしれないが、決して無視できるものではないように感じた。


「私、カナ様に本を読んでいただいたんです。英雄と神々の叙事詩です」


 カナが好む物語は、いずれも示唆に富んでいた。


「英雄は予言によって世に現れ、運命と奇跡をも自らの味方として、どんな難事にも打ち勝つんです。けれど多くの英雄は、最後にはその運命によって裏切られてしまう……破滅を予言されて、抗ってみても結局は……」


 言葉を濁すエメス。

 過去を変えることはできない。時は未来へ進み、遠心力を働かせようとする英雄は、いずれ予言の重みに引かれて呑み込まれていく。


「この勝利や成功が、何か運命のようなものだとしたら……私たちもまた、いずれは運命に裏切られてしまうのではないかって……おかしいでしょうか」

「私が運命に敗れると思うのか?」

「カエサルは、ブルトゥスに殺されたんですよ」


 エメスの声と表情に、フェデリコは唇を結んだ。


「……彼になくて、私にあるものは何だと思う?」


 首を振るエメス。

 そのエメスに、フェデリコの指がぴしりと付き付けられる。


「おまえだ」

「私?」

「そうだ。ブルトゥスの刃は、私に届かない」


 ぽかんとしていたエメスの顔が、じっくり時を置いてからかあっと赤くなってく。フェデリコは突き付けていた指を伸ばし、その鼻を悪戯っぽく摘まむ。そうしておいて、びっくりするエメスの視線を独占した。


「もし、な?」


 指を離して一呼吸置き、彼女は問う。


「もし私が帝位を追われ、シチリアも追われることになったら、どうする?」


 その唐突な問いに、エメスは息を呑んだ。


「どうだなんて……フェデリコ様にもどうにもならないなら、私なんかには解りません」

「その時はな、カエサルはやめて、旅をするのはどうだ?」

「旅……ですか?」


 思わず声をうわずらせるエメス。けれどフェデリコはその反応も楽しむように目を細める。


「そうだ。おまえやカナ、それに望む者たちを連れて、旅に出るんだ。そうだな……東がいい。西は海に遮られてしまうが、東には世界の果てが無いそうだ。遠く、東をどこまでも旅をするんだ。アレクサンドロス大王よりも、遠くだぞ」


 ローマ帝国、それよりもさらに古き時代。

 世界を手にした者の名に、エメスは面食らった。彼はコンスタンティノープルを越え、シリア、バビロニアからペルシャ、更にその東まで征服し、そして――帰ってこなかった。

 その彼が至った東端より、更に東へ?


「……想像もつきません」


 フェデリコは「だからこそだ!」と声を大にした。


「おそらく危険な旅だ。けれど、きっと面白いぞ。見たこともない人や物にあふれた世界だ。そうだエメス、おまえのどんな文字でも意味が解る力は、絶対に役に立つ。いや、もしかすると我々の知らない言語だって、おまえは話せるかもしれない。おまえの生まれた土地が、どこかにあるかもしれない」


 広大な大陸に抱かれて文明が胎動し、あらゆるものが混じり合う。想像もつかない、想像の果て。それは旅という名の夢であり、無限に続く幻想だった。


「な、どうだエメス。私はいざとなれば全てを捨てたっていいんだ。それでも、まだ不安か?」


 優しく問い掛けるフェデリコに、エメスは首を振った。


「いいえ」

「よし。じゃあその時は、きっと一緒に来てくれ。約束だぞ。ずっと一緒だ」


 フェデリコの右手が差し出される。


「……ええ、ずっと一緒です。どこまでもお供します」


 その手に触れて、そっと握り返した。

 フェデリコが天幕を後にし、エメスは眠りながら想った。

 いつか、私たちが旅に出る事があるだろうか。それとも私たちはもう、既に旅に出ているのだろうか。もしそうだとすれば、それは血と剣、権力と世界を争う果てのない途往きだ――けれどフェデリコとならば、どんな旅でも構わないと思った。

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