第二十節

 一騎の騎士が駆け抜けた。

 馬脚が枯葉を跳ね上げてエメスは思わずその眼をつぶる。

 ごうと突き抜ける風が、馬がすぐ横を駆け抜けていったことを思わせる。鬱蒼と生い茂る樹々の間を、気配もさとらせずに抜けてきたというのか。

 突如現れた乱入者に狼狽える敵の騎士。だが彼は足を止めることはなく、姿勢を低くして戦意を新たにする。馬が交錯する寸前、水平に構えた剣を振りかぶり、新たな騎影目掛けて繰り出した。


 激しい金属音。だがそれは、剣がぶつかった音ではない。

 敵の首で帷子の鎖が弾け飛び、真赤な血が線を引いていた。

 残る敵の一人がハッとした瞬間にはもう遅かった。彼は上段に剣を構えていたが、新たな騎士は姿勢屈めて剣を繰り出し、上段の剣が振り下ろされるよりも早くその胴を薙ぎ払っていた。

 敵が剣の振り下ろし場所を求めて馬首を返すと、腹に血が滲む。


 瞬間、彼の命が絶たれた。

 彼が振り返った時、その騎士は既に己の身を翻しており、手にした剣でグレートヘルムのスリットを正確に刺し貫いていた。

 一瞬のことだった。

 騎士が剣を抜く。刃を一振るいして血を振り掃った時、敵の騎士はまだ馬上にその身をとどめているほどだった。


 その剣技の鮮やかなる姿に、エメスは思わず息をのむ。

 息を整えたエメスは立ち上がり、ぐらりと崩れ落ちる敵に背を向けてこちらへ近付いてくる騎影を前にする。

 おそらく敵ではない。

 そうは思うのだが、自分たちの陣営で見かけた覚えはない。ならばフランス軍の騎士だろうか――エメスには解らないままに、馬上の騎士を見やった。

 ローブを目深にかぶった騎士がエメスを見下ろす。


「不手際ですね、エメス。あの男は、私が討つ筈でしたのに」


 川のせせらぎを思わせる、静かで落ち着いた声だった。だが何より特徴的なのは、その声が女性のものだったことだ。


「その声……女性、ですか?」

「異な事を聞くのですね」

「ごめんなさい、どこかで会いましたか」


 女性はローブを被っているだけでなく、その顔には長い布が巻き付けられて覆い隠され、ただ目元だけが覗いていた。深い憂いを湛えた紺青こんじょう色の瞳だった。

 じっと瞳を見つめるエメス。

 その視線を受け止めていた女性の目元に、ふいに怪訝の色が浮かぶ。


「……解らないのですか?」


 その女性の態度に、エメスはハッとした。


「もしかして……私のこと、何か知ってるんですか?」

「あなた……」


 女性が口元を覆っていた布地をずらそうと指を掛けた時、遠くから蹄や馬のいななきが聞こえてきた。

 女性は音のした方角をちらりと見やると手を止め、エメスに背を向ける。


「……またいずれ」

「待って!」


 引き留めるエメスを顧みず、女性は馬を走らせた。

 エメスもまた後を追おうとしたが、身体の損傷は本人が思っていたより深かったようで、数歩も走ると身体が思うように動かなくなってしまった。


 左腕の激痛に歯を食いしばり、樹の幹に腕を突く。

 そうして辛うじて身体を支えていると、やがて馬蹄の音が揃ってエメスへと近付いてきた。


「陛下、こっちです!」


 聞き馴染んだサーリフたちの声がした。

 エメスは仲間の姿を認めるとようやく一息つき、大樹にもたれ掛かったまま、膝から崩れるようにしてずるずるとへたり込んだ。

 大きなため息をついて頭上を仰ぐと、あの人の声がした。


「全く、無茶をする」

「フェデリコ様」


 エメスが笑顔を向けると、馬上のフェデリコも屈託のない笑顔でエメスに応え、馬から降り立った。

 赤い髪が風になびいて揺れる。

 当世風に長く伸ばされた髪は大きく広がり、ゆったりとしたサーコートと併せて、身体全体のラインを流すように隠してくれている。

 脇腹を抑えながら立ち上がると、背の違いが際立った。

 背はエメスも随分伸びたがフェデリコはそれ以上に伸び、人を射貫く鋭い眼光によく響く声、何より明朗快活なその性格が、フェデリコが女性であることを覆い隠してくれていた。

 彼女はふらつくエメスに手を貸してやると、辺りを見回した。


「随分手痛くやられたな。敵は何騎だった」

「大丈夫です。フランス軍の騎士が加勢をしてくれました」

「そうか。それは礼を言わねばならんな」


 ほうと片眉をあげるフェデリコだったが、エメスは少し言いよどんだ。


「それが……妙なんです。私のことを知っているみたいでしたけど、陛下と入れ替わりに駆け去ってしまって」

「フィリップ殿の陣営ででも会ったか?」


 同盟者であるフランス王の名を挙げるフェデリコ。

 言葉を交わしていたエメスは、はっとを思い出して顔をあげた。


「それより陛下、オットーです。彼を仕留めました!」

「奴をやったのか!? それを先に言え!」


 血まみれで微笑むエメスに、フェデリコが感嘆の声を上げる。

 あちらをと指さした方角へサーリフたちが駆け寄っていく。


「陛下、ありました。こちらです!」


 騎士が手をあげ、二人を招く。エメスも痛む脇腹を抑えながらフェデリコの後に付き従った。

 そこには大の字に転がったオットーの死体があり、フェデリコはエメスと共にその死体を見下ろす。咆哮をあげていた野獣はもはや唸ることはない。その顔はエメスに割られ、泥と血にまみれて赤黒く染まっていた。



 フランス王国の軍勢は、近隣の村を仮宿としてそこに本営を置いていた。

 既に日は沈み、兵士も騎士らも、彼らはみな大いに呑み、この戦勝に酔っていた。


「ようフェデリコフレデリック殿、健勝で何よりだ」


 焚火に照らされて、その男は上機嫌でフェデリコを出迎えた。このブーヴィーヌの戦勝における立役者、フランス国王フィリップだ。赤ら顔に禿げ上がった頭が乗った、がっしりとした体格の男だった。


「どでかい大猪を仕留めたそうだな!」


 彼はフェデリコを向かいの椅子に座らせると、給仕に命じてワインを注がせる。


「おかげでこの戦いは完勝と言っていい」

「いや、我らの戦力は微々たるもの。しょせんは後退するオットーの本隊を追撃しただけのことだ」

「ははは! 新たなローマ皇帝は謙遜家らしい!」


 フィリップが豪放に笑った。

 フェデリコはこの王が嫌いではなかった。このフランス王は政戦両面において卓越しており、他人を自ずと従わせてしまうような自信に満ち溢れていた。それは一朝一夕には得難い、人間的な魅力でもあっただろう。

 フェデリコたちはブーヴィーヌの戦いに同盟者として参陣したが、彼女が率いてこられたのは騎士と歩兵を合わせてせいぜい五百。対するフィリップの軍勢はおよそ七千を数え、オットー率いる敵の軍勢は一万に達しようかという勢力を誇っていた。

 それを想えば、自分たちの軍勢は極限られている。


「しかしフィリップ殿も、あのオットーの突撃をよく支えられたな」


 ワインを受け取ったフェデリコが感心してそう言うと、フィリップは兵士たちが騒ぐ広場の方へと目を向ける。


「重要なのはな、軍の統一と協調だ」

「奴にはそれが無かったと?」

「その通りだ」


 フィリップは力強く頷く。

 オットー率いる連合軍は数に勝り、優れた騎士を多数抱えていたが、各諸侯による連合軍の色彩が濃かった。対するフィリップの軍勢は数的不利のみならず、経験不足の義勇兵も数多く含まれていたが、彼の下に指揮系統が一本化されていた。

 それが戦の趨勢を別けた。

 ブーヴィーヌの戦いにおいて、フィリップは優れた采配を発揮した。

 フランス軍は素早く戦場に布陣することで優位に立った。慌てて戦場へ急行したオットー率いる連合軍だったが、戦場への到着に大きな時間差が生じたことで攻撃の連携が取れなかった。

 連合軍はバラバラに突撃を開始し、フランス軍はこれらを各個撃破した。

 敵方もオットー率いる本隊の勇猛さは群を抜いていたものの、彼の本隊だけでは衆寡敵せなかった。フランス軍はフィリップ自身が負傷するほどの苦戦を強いられたが、その命令は軍の末端まで行きわたり、決して崩壊しなかったのだ。

 やがてフェデリコらの軍勢がその背後を脅かす動きを見せると、敵の諸侯軍が浮足立った。それを見逃すフィリップではない。彼は温存していた騎兵隊を鎖から解き放つと、歩兵隊にも逆撃を命じた。

 かくしてブーヴィーヌの戦いは決する。それが戦いのあらましだ。


 フィリップは満足げに杯を空にし、次を注がせる。


「だがなフェデリコ殿、戦えと命じられたからといって兵士が戦えるものではない。奴らは俺が好きだから戦えるのだ」


 冗談めかしてそう言うフィリップに、フェデリコはにやりと口端を持ち上げる。


「あるいは、もうひとつ」

「ほう、何だ。言ってみられよ」

「フィリップ殿が、反抗的な中間層を果断に取り除いておいたからだ」


 それは歴代国王が望みながら果たせないできたものだった。

 フィリップは有力諸侯や自由都市といった国内反対派の抵抗にあいながらも、王権の強化に粘り強く取り組んだ。


「その努力と結果は目には見えにくいものだ。だが今回の戦乱では、フィリップ殿が不利な状況に置かれてもなお王国の動揺を防がれた。それこそがフィリップ殿が無しえてきたことの成果。この決戦における勝利は、いわばその結実とも言える」


 彼女はぐっとワインを煽り、フィリップを見やる。


「私も参考にするつもりだ」


 フェデリコの言葉に、フィリップはきょとんとした表情を見せたが、やがて肩を揺らし、堪えきれず笑いだした。


「ふふふ……はははは! よくご存じだ。子供相手の戯言は通じぬか!」


 フェデリコの返しにフィリップはますます上機嫌になって笑った。彼はフェデリコの杯にも追加の葡萄酒を注がせると、高らかに杯を掲げた。


「良いだろう。新たなローマ皇帝は賢明だ。我らが同盟の幸いなるを祈る!」


 フィリップの言葉に諸将が杯を掲げ、フェデリコも杯を共にしてこれに応えた。

 とはいえ、フェデリコはこの勝利を手放しで喜んではいなかった。

 フェデリコは敵軍の背後を牽制してその崩壊を誘発させたものの、率いた戦力はフィリップの一割にも満たない。フィリップとオットー両者の激突に比べれば、彼女の影響力はいかにも添え物に過ぎないのを自覚していた。


(これからだ。こんな所で立ち止まってなどいられるか)


 ほどなくして彼女は、宴席を辞することにしたが、その帰り際、エメスを助けてくれたという騎士の話を思い出した。


「フィリップ殿の陣営に女性の騎士はおられるか」

「女性の? いや、聞かぬな。俺の陣営にはおらんと思う。それがどうかしたか」


 フィリップは少し首を傾げたが、やはり思い当たる顔はないようだった。


「私の部下が命を救われたそうだ。一言礼を言っておきたかったのだが」

「どこかの軍に陣借りする傭兵騎士フリーランサーかもしれんな。こちらで見かけたら代わって伝えたおこう」


 フェデリコは軽く目礼して、今度こそフランス軍の陣営を後にした。



 野営地に戻って来たフェデリコを、すらりとした背の高い男が出迎えた。


「戻られましたか」


 パレルモ大司教ベラルドゥスだ。彼は三十代後半ほどで、フェデリコが成人して暫くした十六歳の頃から行動を共にしている。


「どうでした、フィリップ王との会談は?」

「同盟関係は続きそうだ。少なくとも彼が王のうちはな」

「それは重畳。今彼に襲われれば我らはひとたまりもありませんからな」


 にやにやと笑いながら、自らの首に指をあて、しっと横に引いて見せる。

 彼は司教の身分にありながら、祭服の下にしれっと鎖帷子メイルアーマーを仕込んで戦場に同行するような男だった。

 いつも皮肉めいた笑みを浮かべていて、事実いつでも皮肉屋だった。フェデリコから女であると明かされた時も呆れて皮肉を垂れるだけで、戒律がどうなどとは一言も口にしなかったほどだった。


「ま、現実問題として彼らも暫くは手一杯でしょう。イングランド王国を追い出すまたとない機会でしょうから」


 元々、これまでフランスと呼ばれる土地のおよそ半分はフランス王国の支配下に無く、その大半がイングランド王国とその同盟者の大貴族によって占められていた。フィリップにすれば、今回の戦勝でそれらを回収する絶好の機会が訪れたということだ。暫くは国内問題に目が向くのは確かだろう。

 フェデリコにしてみれば、それ抜きでも同盟は確かだと手応えをおぼえている。ならばまず心配は無いと見て良い。


「ところで、オットーの首検分は済んだか」

「そちらは抜かりなく。とはいえ、エメスが顔面を真正面から割られましたから、少々手間でしたがね」

「そう言ってやるな。オットーは勇士だ。加減して戦える相手では無いさ」


 フェデリコがとりなすと、ベラルドゥスはやれやれと口角を持ち上げる。


「ごもっとも。ま、その勇士たる皇帝が討死ですからね。オットー派の慌てふためく顔が目に浮かびますよ。敗戦どころかオットー敗死とあっては、もはや手も足も出ないでしょう」

「奴らだって青天の霹靂だろうさ」


 軽口で応じていたフェデリコが、ぴたりと足を止めて振り返る。


「妙に仕事が早いな?」

「戦勝の書状なんか、戦う前から書いておきましたよ。あとは文中に僭帝オットーは死んだと、こうです」


 筆をなめる仕草をしてみせ、彼はにやりと笑った。その明け透けとした物言いに、フェデリコは呆れて首を振った。


「負けてれば私が世の物笑いの種になるところだったのか?」

「おや、負けた時の名誉の心配とは、随分と余裕ですな」

「名誉ある敗北は次なる勝利の礎だ」


 そう言いながらもフェデリコは、戦で疲れた体に鞭打ってそれら書状に署名を加え、順次使者を走らせるよう指示した。

 ローマ帝国内のオットー支持者らを切り崩すためには、オットーの残党が敗戦を矮小化して伝えるより先にこちらの使者を到着させたかった。

 彼女は他に教皇庁へ発する書面の草稿を承認し、遠くシチリア王国に残してきたカナと、エンリカへの戦勝報告をしたためさせると、それからようやく席を立った。

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