その男はそれだけ言うと、神三郎に背を向けた。

 こいつの言ったことは真実だ。わかっている。だが、神三郎は銃を抜いた。引き金に指をかける。たとえ効果がなくても撃つ。撃つしかしない。


 男は大きく腕を振り上げた。袖から出た手の部分だけが、大きくすうっと伸びていく。指は長く広がり、肌が赤黒く染まっていく。爪が鋭く尖り、伸びていく。


 ぴくり。銃を構えたまま、神三郎の指が止まった。

 違う。殺気の方向が違う。こいつの狙っているのは紫苑じゃない。


「千年間も、よく奴隷なんかやっていたな。ご初代様って奴は幸せ者だ」


「なんだ。おい、何をしようとしている」


「俺はあんたを尊敬していたよ。いい女だ。本当にそう思った女は、まだ二人しかいない。いい加減もう、楽になりたいだろう。俺があんたをご初代様とやらの所に送ってやる」


「おい、待つんだ。おい……」


 ありがとう。かすかに声が聞こえたような気がした。

 二条が制止した時には、鬼の手刀が後ろから風天の首を落としていた。軽く、ただ薙ぎ払っただけで。まるで空気でも切るように。その瞬間は首も胴体も、ほとんど動かなかった。

 少し遅れて、胴体が前のめりに倒れた。頭部は紫苑がつかんだまま。その場から動かない。


 二条がよろめきながら、駆け寄ってきた。

「どうしてだ。どうして風天を殺した」


「どうしてかだって。今更、そんなこと言われても困るぜ。何度も確認したじゃないか。旦那は女の式神を殺せと命令した。ここに立っている女は式神じゃあない。人間の男に惚れた、ただの鬼神だ。ここには女の式神は風天しかいなかった」


「そんな屁理屈が通ると思っているのか。殺すのはこっちの女だ。わざわざ自分の飼い犬を殺す主人がどこにいる」


 男は首をかしげた。

「何か間違ったのかい。でもまあ、そうだとすれば旦那の責任だ。俺は命令通りに仕事をした。本当は同僚を殺すのは気が進まなかったんだが、旦那のために泣く泣く殺したんだ。むしろ褒めてもらいたいね」


「き、貴様。自分で言ってることがわかっているのか。風天は二条家が八百年も相続してきた式神なんだぞ。二条家の象徴みたいなものだ。それを俺の代で終わらせたんだ。こんなことを聞いたら、隠居した親父がなんて言うと思う。本家には、どう説明すればいいんだ」


「いいじゃないか、旦那には俺がいる。骨董品の式神よりは、ずっと使えるぜ。それにほら、この女が抱えてる生首を見てみな。いい顔をしてるじゃないか。惚れた男に騙されて、それでも惚れ抜いて。こんな姿で千年も奴隷にされてきたんだ。もうそろそろ、楽にしてやってもいい頃合いだ」


「バカが……」

 つぶやいてから、二条はハッとしたように鬼神の男を見た。


「そうだ。さっき俺は待てと言ったはずだ。どうして逆らった。いや、逆らえたんだ。式神は主人の命令には逆らえないはずだ」


「おめでたい旦那だな。今頃になって、ようやく気がついたのかい」

 その鬼神は鼻で笑った。


「この女と同じだよ。俺は本物の式神じゃない。式神の役目を果たしているだけだ。ただし俺が従っているのは信頼からじゃない。その方が得だったからさ。

 コップ半分の血と貧弱な術で俺を縛れると思っていたんだから、おめでたいにも程がある。本当にこの俺を手に入れるつもりだったら、その男の真似をして旦那の腕でも足でも、好きな方を俺に食わせればよかったんだ。痛いのが嫌なら、生まれたばかりの旦那の子どもでもいい。そうすれば陰陽道の秘術とやらで俺を奴隷にでもなんでもできただろうさ」


「外道め……」


「外道は旦那だ。自分は何も失わずに、自分に従う奴隷を手に入れようっていうんだからな。どっちにしても旦那は、これからも俺を使うしかないんだ。陰陽師の家の格式は式神で決まるんだろう。式神を失ったら旦那はただの占い師に格下げだ。旦那だけじゃない。二条家を継ぐ大事な息子を、ただの下っ端占い師にしてもいいのか」


「俺を脅すのか」


「いいや、取引だよ。もちろん俺にとっても居場所は必要だ。俺の意向って奴を尊重してくれたら、これからも旦那の式神のふりをしてやる。自分の立場を守りたかったら、これからはせいぜい俺の機嫌を取るんだな」


 ようやく神三郎にも読めてきた。

 こいつは自分の意志で人を喰い、この世に出てきた鬼神だ。どういうやり方をしたのか知らないが、宿主を始末した後で二条の所に現れたんだろう。

 それにしても、恐ろしい男だ。力もそうだが、頭もいい。

 考えてみれば、この世界にある鬼神の居場所は陰陽師のところだけだ。

 式神になってやると売り込み、家に伝わっていた式神は様子を見て始末する。相手の言葉尻を上手く使う機知もある。


 神三郎はジャケットに隠したホルスターに銃を戻した。

 紫苑にゆっくりと近づく。警戒はしているが、相手に殺気はない。刺激するのは愚策だ。とにかく紫苑の側にいたい。死ぬにせよ生きるにせよ。紫苑と共にいればそれでいい。

 小さな細い肩に触れても、紫苑は表情を崩さなかった。常にはないことだ。紫苑の反応から、神三郎は悟った。


「あいつなのか」


「ああ、そうじゃ。神三郎様、お願いがある。妾の好きにして良いか」


「もちろんだ。僕の命も使っていい」


 言葉の多くは必要ない。無くした腕が紫苑と自分の心を繋げてくれている。

 紫苑が鬼神の男に話しかけようとした。

 だが、それはもうひとつの声に遮られた。二条泰明だ。式神を失ったばかりの陰陽師は、そのことを忘れようとでもするように早口でまくし立てた。


「わかった。もういい。宮毘羅くびら、風天の死体をトランクに入れろ。小屋にある鬼神の死体とやらを確かめに行くぞ。探偵と小生意気な式神は小室、おまえに任せる。いいな、この事は誰にも言うなよ。本家には俺が自分で報告する」


 宮毘羅と呼ばれた鬼神の頰が、ピクリと引きつった。

「今、俺の名前を呼んだな」


「なんだ。それがどうした」

 二条は怯えたように一瞬、腰を引く。


「ふん。まあ、いいさ。どうせ俺の正体もバレているようだしな。でも旦那は、本当に陰陽師なのかね。この片腕の男は相当の術者だぜ。平気なふりをしてたが、実はさっきもかなり効いていたんだ。こんな奴がよくぞ人間の中にいたもんだ。そう思うだろう。なあ、お姫様」


 紫苑はそれを聞くと、氷のような表情を僅かに緩めた。

「それはそうじゃ。神三郎様は妾の大切な想い人じゃからな」


「それで、どうするんだ。どうせ本当の名前も、この男に教えてあるんだろう。こいつが真名を唱えて術を使えば、俺の動きをかなり制限できる。もう風天は殺しちまった。つまりは形成逆転ってやつだ。二人がかりで襲えば、俺に勝ち目はない。親の仇を殺すチャンスだぜ」

 宮毘羅はポケットから煙草を出した。銀色のオイルライターで火をつける。


「妾が手を出さぬと、わかっておるのだろう」


「まあな。俺が惚れた女なら、そんなことはしない」

 鬼神の男は、先端が赤くなった煙草を一センチ以上も灰になるまで一気に吸った。肺の中にたっぷりと煙を溜めてから、ゆっくりと吐き出す。


「人間はどうしてこんなものを吸うのかと思ったが、慣れると癖になるな。味は未だによくわからんが、とにかく落ち着く」


「何だ、どういうことだ。教えろ。おまえはその女の鬼神と何か関係があるのか」


「旦那は知らなくてもいいことだ」

 宮毘羅は二条の質問を無視した。


「わかっていると思うが、俺はさっきなら確実にあんたを殺せた。あんたは今、俺をこの場では殺さないと言った。お互い、相手を殺せる機会を一度ずつ見送ったわけだ。どうだい。これで貸し借りはなしってことにしないか」


「良いだろう。今すぐにお主の腹わたを引き千切ってやりたいところだが、妾も父の娘として卑怯な振る舞いはできぬ。だが条件がある。妾を見逃した理由を話せ。妾を侮ってのことなら許さぬぞ」


「簡単なことだよ。俺は王様を殺してこの世界に逃げてきた。仲間にはもう会えないと諦めていたところに、昔惚れた女が俺を追って来てくれたんだ。不意を討って殺すなんて、できるわけがないだろう。

 それともう一つ、理由がある。この神三郎とかいう男だ。高嶺の花のお姫様を人間なんかにさらわれたんだ。一発くらいは蹴り倒してやらなきゃ、腹の虫が治まらない」


「妾がお主の物になることはない」


「わかってるさ。これも未練って奴だ。さて、俺の主人がそろそろ待ちくたびれているようだ。それに俺が殺した先輩を弔ってやらないといけない。どうせまた、会いに来てくれるんだろう」


「次に会う時は、お主が死ぬ時じゃ」


「首を洗って待っているよ。その時は盛大に殺し合おう」


 宮毘羅は上着を脱ぐと、それで紫苑から受け取った風天の首を丁寧に包んだ。最初にそれを車のトランクに入れてから、また戻って来て胴体の方を背負う。


「こんなに青くなっちまうんだな」

 小さくそうつぶやくのが聞こえた。


「そら、行くぞ。おい、そこの探偵。今回は見逃してやるが、次に勝手なことをしたら許さないからな。よく覚えておけ」

 二条の表情に、最初の頃の余裕はなかった。精一杯の虚勢を張りながら、宮毘羅を追いかけるように車に向かう。


「どちらが飼われているのかわからぬな」

 紫苑が蔑むように二条の後ろ姿を眺めていた。それに気づいたか気づかなかったか。二条は歩きながら、居心地悪そうにモゾモゾと肩を動かした。


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