9 志穂

電話

「涼子、電話よ。柴崎さんって女の人から」

 階段の下から、母親が呼ぶ声がした。


 佑子さんだ。

 涼子は英語の参考書を閉じて立ち上がった。勢いで椅子が回るのも構わずに飛び出して、そのまま階段を駆け下りる。危ない。踵を打った。こんな所で怪我をしたら、笑い話にもならない。


 玄関先にある黒電話の受話器を受け取る。

「もしもし、先生ですか」

 その声を確認してから母親が離れていった。部屋に戻っていく姿を横目で確認しながら話を続ける。


「先生、この間はお世話になりました」

 涼子はわざと大きめの声を出した。


「ふふっ、どうしたの。随分と他人行儀じゃない。先生だなんて、あなたからは初めて聞いたわ」


「えっと、母が。でも、もう大丈夫です。部屋に戻りました」

 ここからなら聞こえない。でも、声が高くなったらまた様子を見に来るかも。念のため受話器を左手で押さえるようにする。


「志穂がいなくなってから、家族が神経質になってて。ごめんなさい。誰からの電話だったかも、後でしつこく聞かれるんです」


「まあ、そうでしょうね。私が保護者でもそう思うわ。この電話も、実は小室さんから頼まれたの。本当は自分から連絡するべきなんだけど、警察からだって知られたくないって」


「志穂のことですか」


「もちろん。さっき、ようやく意識が戻ったわ。本来なら真っ先に家族に知らせるところだけれど、鬼神のことがあるでしょう。その前に事情聴取をするから、あなたにも立ち合って欲しいそうよ。もちろん主治医として私も同席するわ。明日の午後二時。受付はいいから、直接病室まで来て。学校は体調が悪いふりでもして抜けてくるのよ。もちろん誰にも言わないこと。いい?」


「はい」


「いいわね。わかっているとは思うけど、鬼神のことは、最初から無かったことにされるわ。それらしいシナリオは警察が考えてくれるけど、受け入れられるかどうかは本人次第よ。

 特にあの子は心の傷が深いから、黙っているのはつらいはずよ。誰も信じてくれない鬼のことを触れ回って、心が壊れてしまった人を私は知ってるわ。だから家族に会わせる前に、あなたがどうにかして納得させて。難しいとは思うけど。それが助けた人間の責任よ」


「はい、わかってます」

 涼子は右手を胸に当てた。佑子の言葉は容赦ない。だがそれが正しいことを、涼子は知っている。


 昨日、志穂を病院に運び込んでから。佑子はすぐに両足の切断手術を執刀した。なるべく本来の足を残すようにして、鬼神の組織を削ってから縫合する。涼子は途中で家に帰されたが、手術は六時間にもなったらしい。

 それだけの手術をしたのに、志穂の家族はまだ、このことを知らない。常識では考えられないが、鬼神が絡めば話は別だ。涼子も経験したことだ。必要とあれば国家ぐるみで隠蔽する。


「ところであなた、生理は重い方?」


「えっ」

 いきなり聞かれて、涼子はドキッとした。


「えっと、たまに」


「人間の体のことよ。別に恥ずかしい話じゃないでしょう。学校をサボる時の言い訳のことだけど。風邪気味だとか言うと、後で学校から電話がかかってくるかもしれないわ。だから、お腹が痛いと言うのよ。少し恥ずかしがって。早めに保健室に行かせてもらって、わざと少し休んでから学校を出るといいわ。いい、こういう時は小芝居も必要よ」


「は、はい」


「あと、お見舞いは持っていかないでね。家族を呼んだ時、誰かが先に来た痕跡を残したくないの。それと小室さん。あの刑事さんのことだけど、ちょっとデリカシーに欠けるところがあるから気にしてて。あなたにじゃないわよ。志穂さんのこと。今はおとなしいけど、精神的にかなりやられているみたいだから」


「わかりました」


 いつものことだが、佑子には圧倒される。頭のいい人だ。常にあらゆることに気を回し、考えている。

 佑子はその他にも何点か細々とした指示をした。病室の番号はメモを取るように言われた。電話機の横のメモ帳に、ボールペンで三桁の数字を書き込む。


「じゃあ、明日ね。私はここの勤務医じゃないけど、志穂さんのことで他の医者や看護婦と打ち合わせがあるの。いい。相手のことを考えるよりまず、あなたが落ち着いて話ができるようにしておくのよ。不安は相手に必ず伝わるから」


 涼子は声を出すのも忘れてうなずいた。電話が切れた後も、しばらくは受話器を握ったままその場に立ちつくしていた。

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