女誑し

「ふん」

 紫苑が冷たい目で二条を見た。ぐりっと腕を動かし、風天という式神の頭を二条の方向に向ける。


「特別に許す。言いたいことがあるなら、この者に言ってやれ」


「や、やすあぎ様。わ、わたしの……」


「声になっておらぬ。それでは伝わらんぞ」

 風天はゴクリと喉を鳴らした。物として扱われていたのが長かったせいだろう。彼女は明らかに言葉を話すことに慣れていない。


「や、泰明様。わたしの願いはひとつだけです。この醜い姿を晒してまで生き続けるのも、そのためだけのこと。わたしは奴隷で構いませぬ。こ、心だけで良いのです。わたしが、ご初代様をお慕いすることを笑わないでください。それは代替わりの時にもお願いしたはずです」


「化け物がご初代様を慕うなど図々しい。それでも役に立つなら構わんが、このザマはどうだ。あの時、どうして人を喰わなかった。喰ってさえいれば、こんなちっぽけな式神などに負けなかったはずだ」


 神三郎は自分の頰が引きつるのを感じた。

 人を喰う。

 二条は確かにそう言った。


 自分の足が、腕が勝手に動いていた。一瞬で距離を詰めると右手で喉輪を決め、二条の体をそのまま天に向かって持ち上げる。 

 足が宙に浮いた。意外と軽い。たぶん六十キロそこそこだろう。

 二条はまるで化け物を見るような目を神三郎に向けていた。どうしたら、こんなことができるのか。そういう顔だ。


「な、なんだ。これはいったい、何の術だ」


「術じゃない。簡単な力比べだ。熊を殺せるくらいまで鍛えれば、おまえにもできるようになる」


「キ、キチガイめ……」

 二条は首にかかった手を爪で必死に掻きむしっていた。殺すつもりはないから、喉の脇だけを締めて気道は確保してやっている。これなら、最低限の呼吸はできるはずだ。


「は、早く降ろせ。こんなことをして、タダで済むと思っているのか。後で後悔するぞ」


「聞きたいことがある。おまえは今、式神に人を喰わせると言ったな。おまえらは、そんなことまでしているのか」


 指先に力を入れると、二条が足を激しくバタつかせた。

「ま、待て。誤解だ。日本人は殺していない。米軍の要請で、式神を連れてベトナムまで行ったんだ。戦場までは米軍が案内してくれた。そこでベトコンに襲われたから、仕方なく反撃した。勢いで、式神が兵隊を何人か喰った。それだけだ。別にわざとやったわけじゃない」


「米軍はもう、撤退したんじゃなかったのか」


 北ベトナムとアメリカ合衆国との泥沼の戦争は、最近ようやく収まりかけていた。南ベトナムを支援していたアメリカは今年の一月に撤退し、事実上敗北した。南ベトナム政府がこのまま存続すると考えている人間は、政治家の中にはほとんどいない。


「軍事顧問とかの名目で、まだいくらかは残ってるんだよ。米軍は利用できる物は最後まで利用するつもりだ。本国じゃあできない実験なんかもやっている。式神の披露もそのひとつだ。実戦を撮影したい。そういう要請だった」


「最初から、人間を式神に喰わせるつもりだったな」

 自分の言葉が冷えているのを感じる。やろうと思えば、喉を潰してから首を折ることもできる。このまま持ち上げているよりもずっと簡単だ。


「待て、待つんだ。違う、そうじゃない。あれはアクシデントだったんだ。敵も本気で鉄砲を撃ってくる。わかるだろう。襲われたら、殺される前に殺すしかないじゃないか。

 これは御前会議だけの判断じゃない。防衛庁の役人も関わった国家としての仕事だ。全部、日本の国益のためだ。それにこいつは人を喰っていない。間違いない。保証する」


「神三郎、頼む。それくらいにしておけ」


 駆け戻って来た小室が、神三郎の肩に手を置いた。

「気持ちはわかる。俺だって面白くはないさ。でもこいつらは力を持ってる。まともにぶつかるのは得策じゃない。

 二条さん。この辺で痛み分けってことでどうです。恥をかかされたと思っているようですが、相手が神三郎なら大丈夫です。こいつは告げ口して回るような人間じゃありません。さあ、神三郎。二条さんを下ろして差し上げるんだ。いいな。紫苑も引かせろ。後は俺がうまく収めてやる」


 神三郎は唇を噛んだ。

 日本人だろうがベトナム人だろうが生命の価値は同じだ。人を鬼神に食わす連中は許せない。だが、神三郎にはそれを裁く手段がなかった。法律は国家機関の味方だ。このまま怒りに任せて二条を殺してしまったらどうなるか。想像に難くない。


 神三郎は、押し出すように手を放した。ドサっという音と共に土埃が舞う。痛いとか畜生とか、そんな声も聞こえたような気がした。だが、鬼神に喰われた人間はもっと痛かったはずだ。神三郎にはわかる。


「式神の命令を撤回しろ」


「くそっ。風天、中止だ。そのまま待機していろ」


 神三郎は紫苑に目配せした。

「紫苑、頼む」


「心得た。妾もこの哀れな鬼神が憎いわけではない」


 紫苑は手を開いて、風天という名の式神を解放した。自由になった鬼は自分の首を押さえて、そうっと頭を回すようにする。

 紫苑は風天をいたわるように声をかけた。


「どうしてそなたは、人を喰わなかったのだ」


「わ、わたしは決めているのです。初代の安倍晴明あべのせいめい様は、私に身重の妻を捧げて下さいました。忘れもしませぬ。あの女子おなごは本当に美味しかった。晴明様の血を受けた胎児を食うた時は、晴明様と魂まで繋がったような気がしました。でもその時、晴明様は一粒の涙を流されたのです。悲しい。そうおっしゃいました。

 晴明様はその後、わたしを抱いて下さいました。その時、わたしは気づいたのです。子を為すことのできないわたしが、晴明様のお子を喰ってしまった。お慕いする方の、大切な物を奪ってしまった。そして晴明様に誓ったのです。もう人は喰わない。身も心も、晴明様だけに捧げる。それを聞くと、晴明様は嬉しそうな顔で笑ってくださいました」


「その初代の安倍晴明とかいう者、とんでもない女誑おんなたらしじゃな。どうせ喰わせた女も、そうして騙したのであろう。哀れなことよ。本当に愛した女子おなごなら、鬼に喰わせたりはせぬものじゃ」


 紫苑は二条を睨んだ。

「だがそれは、千年も前の話じゃ。話を聞いて、ひとつ、わかったことがある。初代の安倍晴明とやらはともかく、お主には女を騙す器量もない。人としても、男としても最低じゃ」

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