尾行

 急に体が左に振られた。


「ごめん。舌を噛まなかった」

 佑子の声は緊張していた。


「おしゃべりは、ちょっと我慢してて。尾行されてるわ。振り切るから、前のシートに手をかけて足を踏ん張って。いや待って。その前にシートベルト。いい?」


「どうしたのじゃ」

 紫苑の声を聞きながら、涼子はシートベルトに手をかけた。後部座席のシートベルトなんてしたことがないから、上手くはまらない。ガチャガチャと音だけが響く。


「ええい、不器用じゃな。そこはこうするのじゃ」

 急カーブを曲がった時の遠心力に体を倒されながら、紫苑が涼子の腰に手をかけた。カチリ。留め金がはまる。


わらわたちが尾行されているのは、間違い無いのか」


「後ろの黒いベンツよ。でも、見なくていいわ。曲がるから」


 また、体が振られた。反動で内臓まで揺れる。

 うっ。涼子は吐きそうになった。朝食を食べてこないで良かった。口の中が少し酸っぱい。


「隣に座っている探偵さん、解説を聞かせて。相手は何者だと思う?」

 首は動かさずに、佑子が聞いた。


「警察か、陰陽師の連中だろうな。こっちが何かをつかんだって気づいたんだろう。振り切れるか?」


「誰に聞いてるの。任せてちょうだい。飛ばすわよ。後ろのお嬢様方、いい。歯を噛みしめて」


 アクセルをふかす音が腹の底まで響いた。怖い。ジェットコースターの比じゃない。でも、容赦をする人じゃない。短い付き合いでも涼子にはわかった。この人は自分で生贄になると言った人だ。兄の目的のためなら、自分の命なんて何とも思っていない。

 永遠とも思える数分間。涼子はほとんど目を開けていられなかった。髪の毛の味がする。髪型はもうグチャグチャだろう。別の塩辛い味は涙かもしれない。そしてこみ上げた胃液。口の中に飲み込めない液体が溜まっていく。

 我慢できなくなってハンカチに少し出した頃。突然、エンジン音が低くなった。


「終わったわよ。振り切った。もう追ってこないわ」


「自慢気に言うでない。妾の腰がずれてしまったわ。後で直すのを手伝うてもらうぞ」


 紫苑が不満気に鼻を鳴らした。

 シートベルトに固定された下半身が、奇妙な形にずれていた。そうだ。紫苑の本来の体は臍までしかなかった。それより下は木製の人形になっている。


「まあまあ、仕方ないじゃないか。なんとか追っ手も撒けたんだ。それより、かなり遠回りをした。先を急ごう」


「ところで探偵さん。ご命令には従いますけど、先に追いかけられていた理由を説明していただけるかしら」

 今度は佑子が、神三郎にからんだ。


「ああ、そうだな。わかった。たぶん、勝手に事件を解決するなってことだろう。昨日も警察が探偵事務所に来た。事件のことで新しい情報があったら通報しろって、さんざん釘を刺されたよ」


「警察って、小室さんのこと?」


「昼過ぎに、ぶらりと現れた。おまえが後で来たって聞いたら、残念がったろうな。安月給の癖に無理して新車を買ったんだそうだ。今度、どこかで会えないかって言ってたぞ」


「余計なことはいいわ。それで」


「どうも最近、鬼神絡みの事件に対する風向きが変わったらしい。今の総理大臣が陰陽師の連中に興味を持ったんだそうだ」


「総理大臣が?」


「随分と精力的な人間らしいからな。ただのお抱え占い師の集団にしては予算を使い過ぎだって気づいたんだろう。その分、しっかり働けってことらしい。

 だから陰陽師の連中は手柄を焦ってる。かわいそうなのは下働きの警察官だ。昨日も小室の奴に泣きつかれたよ。今回は手を引いて欲しいってな。奴も間に挟まれて大変なんだろう」


「ふん、ここ何年か。鬼を狩っているのは妾と神三郎様だけじゃったからな。危険なことは人にやらせておいて、自分たちはデスクで踏ん反り返っておる。実に小狡こずるい連中じゃ」


「それで、どう答えたの?」

 佑子はアクセルを緩めた。舗装した道が終わり、砂利道になる。車体がガタガタと細かく揺れる。


「正直に答えたさ。今回の鬼は弱い。弱らせてあるから見つけたら勝手に狩ればいい。その時は依頼を受けていなかったから、そう言っておいた」


「まずいわね」


「どうしてですか。他の陰陽師や警察の人が力を貸してくれるなら、むしろ好都合じゃないですか」

 涼子には、佑子の言葉の意味がわからなかった。神三郎が言葉を継ぐ。


「昨日言っただろう。あの鬼神を殺すのはたやすい。紫苑の力を借りる必要もないくらいだ。だが、取り憑かれた女の子を救うとなれば、話は別だ。

 国に雇われている陰陽師でも、強い式神を使えば鬼神を倒せるだろう。でも、戦い慣れていない連中には、そんなに細かい芸当はできない。必ず鬼神と一緒にその子も殺す」


「え……」


「僕だって、君がいなければ連中に任せておいたさ。前にも言ったと思うけど、鬼神と融合した人間を救えた試しはない。その子の心を動かすことができるのは、たぶん君だけだ。助かろうとしない人間を助けることは誰にもできない」


 山道に入ると、道が更に悪くなった。

 カツッ。小石が跳ねて車体の腹に当たったのだろう。綺麗に磨き上げた車なのに、佑子は気にしていないようだった。


「協力とか、できないんですか」


「国に雇われている陰陽師は、気位ばかり高い。民間の探偵の指示なんて聞かないさ。なあに、大丈夫だよ。先にこっちで解決してしまえば、後はどうせ死骸の始末くらいしかやることがない。鬼の首でも拾って、勝手に自分たちの武勇伝をでっち上げるだろうさ」


「そういうこと」

 佑子は運転席のダッシュボードに組み込んだ機械を左手で操作した。チューナー音とノイズ。やがて途切れ途切れに男の声が混じってくる。


「一応、警察無線を傍受できるようにしておくわ。電波が悪いから近づかないとわからないでしょうけど。それは相手も同じ。暇だったら、気にしてて」


「警察の無線って勝手に聞けるんですか」


「秋葉原に行けば、そんな機械はいくらでも売ってるわよ。交通違反の検問を避けるのに、トラックの運転手なんかがよく使っているわ。使うのは違法でも売るのは合法。どう、やってくれるの」


「はい」

 顔を見られていないのを承知で、涼子はうなずいた。自分にも役に立つことがある。そう思うと、気が引き締まってくる。

 

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