6 潜伏地
快楽
「おう、どうした。そんなにおめかしして。デートか?」
新聞を半分に折って、涼子の父親が声をかけた。
コーヒーのいい香りがする。日曜日。父はヤカンに一人分だけお湯を沸かして、自分のために豆からコーヒーを淹れる。味がわからなくなるから。そう言って、その時間だけはタバコを吸わない。
飲むか。そう言って何度も誘われたことがあるが、後で感想をしつこく聞かれるから、面倒臭くて家族は誰も飲まない。
「友達と映画に行くの」
「デートか」
「ううん、もちろん女の子よ。ハリウッド映画。題名も聞きたい?」
「いや、いい。楽しんでおいで」
父親はまた新聞を開いて顔を隠した。自分の時間を大切にする人だ。毎日、仕事で夜が遅いから休日くらいはゆっくりしたいんだろう。
食器を拭いていた母親が、急にこっちを向いた。
「ちょっと、お父さん。他に言うことがあるんじゃないの」
「ん?」
「ん、じゃないわよ。涼子の学校でクラスメートが殺されたり、行方不明になったりしてるのよ。話したでしょう。
「そうだったかな……」
「涼子も涼子よ。行方不明の子って、お友達の志穂ちゃんなんでしょう。本当は外出なんてして欲しくないのよ。わかる。まだ、犯人が近くをうろうろしているのかも知れないのよ」
「まあまあ。でもずっと、外に出れないって言うのもな。涼子も息が詰まるだろう」
「あなたは娘が心配じゃないの。ほんと、家のことなんてどうでもいいんだから。よくもそんな風に、落ち着いてコーヒーなんて飲む気になれるわね。私なんてここ何日か、ろくに寝てないのよ。それにも気づかなかったんでしょう。終電まで飲んでから帰って来て、コロッと眠って、夫婦の会話もなし。親失格よ。それに夫失格。ちょっと、聞いてる」
「おい、いくらなんでも言い過ぎだぞ。そもそも俺がなんで遅く帰って来るか知ってるだろう。毎日、残業なんだ。酒だって付き合いだ。手当がついてるから家計が楽だって、お前も言ってただろうが……」
口喧嘩が始まると長い。それを知っている涼子はそのままそっと、家を抜け出した。
母はああ言っていたが、本当のことを知っていたらあれでは済まなかっただろう。警察は明らかに事件を隠そうとしていた。いつの間にか、鬼や化物の話も単なるデマだったことになっている。
外は快晴だった。
突然吹いた風が、スカートのひだを揺らせた。帽子を手で押さえる。
今日は服装を白で統一している。薄手の生地のブラウスにスカート。あの人は、変だと言わないだろうか。紫苑さんは笑わないだろうか。八咫烏さんは……、いなければいいな。そう考えて、涼子は一人でクスッと笑った。
エッチで変わり者だったけれど。涼子はなぜかあのカラスを憎めなかった。自分に正直だからかもしれない。知りたい、見たい。単純でいい。そういう話を聞くと、なんだかほっとする。
自分の家と同じ区画の分譲地が七軒分。建っている家だけなら四軒。その先に、待ち合わせに指定した広い空き地があった。車が先に停まっている。赤いセダンだ。
運転席から降りてきたのは、神三郎ではなく背の高いスマートな女性だった。色の薄いジーンズに白いティーシャツ。大きなサングラス。ハリウッド映画から抜け出してきたみたいに格好がいい。
バン。ドアを閉めてから、サングラスを上にずらす。
「おはよう。昨日はよく眠れた?」
佑子はよく通る明るい声でいった。ラフな格好のせいか、昨日とはまた雰囲気が違う。
「はい」
「後ろの座席に乗って。紫苑の隣よ」
涼子は少しがっかりした。
でも、考えてみれば当然だ。神三郎は片腕がないから、ギアチェンジができない。紫苑は人間ではないから免許は取れない。車に乗れるとしたら佑子だけだ。
あの人の運転で、助手席に座れたらいい。そんな虫のいい場面を想像していた自分が恥ずかしくなる。
「まるで、デートにでも行くような格好じゃな。これから、そなたの友人を救いに行くのだぞ」
「あっ、はい。ごめんなさい」
乗りこんでドアを閉めた涼子に、紫苑が声をかけてきた。昨日と同じ人形が着るようなゴシック調の黒いドレス。シートベルトで腰のあたりを固定している。
「まあまあ、紫苑。どこに行くか、ちゃんと指示しなかったこっちが悪い。それにハイキングみたいな格好をしてたら、かえって外に出してくれなくなる。たぶん、映画にでも行くといって出てきたんだろう」
どきりとした。
図星だった。さすがは探偵だ。
「これから
「わかっておるな。そこからは、そなたがやるのだぞ。妾たちは鬼神からそなたを守る。だが、志穂とやらに呼びかけ、正気に戻すのはそなたにしかできんことだ。混ざっていた体が分かれたら、妾が切り離して鬼神の方だけ殺す。良いな。おぞましい物を見ることになるが、最後まで逃げてはならんぞ。志穂とやらはもっとつらいのだ。心が緩めば、また体が混ざる」
「はい。でも……」
「でも?」
「鬼神の方も、絶対に殺さないといけないんでしょうか。あの、その。紫苑さんやカラスさんのように、その鬼にも心があるんでしょう」
「バカな。甘いことを」
「さあ、車を出すわよ。おしゃべりをしててもいいけど。私の運転は乱暴らしいから、舌を噛まないように気をつけてね」
佑子がキーを回してアクセルをふかすと、エンジン音が一気に高まった。ぐっとシートに押しつけられるような反動と共に、車が発進する。
涼子はヒヤリとした。確かに父親の運転とは違う。こんな急加速、初めてだ。
「気になるようなら、シートベルトを使って。大丈夫。滅多なことではぶつけないから。これでも無事故無違反なのよ」
「この前、パトカーに停められたと言っておったではないか。知っておるぞ。色仕掛けで警官を丸め込んだのであろう」
「男性を説得するのに、自分の持って生まれた才能を使っただけのことよ。さあ、ナビゲーターさん。指示して。私はそんな変な名前の山なんか知らないわ」
慌てて神三郎が右とか、左とか指示を始める。その度に大きくハンドルを切るから、涼子の体は左右に大きく振られた。
「相変わらず酷い運転じゃ」
紫苑が憎々しげにつぶやいた。
「あの、さっきの話ですけど……」
「なんじゃ、まだこだわっておったのか」
「そんなに簡単に殺すとか、決めないといけないんですか。もちろん志穂に取り憑いた鬼神が人を殺したのは知っています。でも、それはもともと、心の底で志穂が望んでいたことです。だから、その。なんだか可哀想な気がして」
「可哀想なら、そなたが喰われてやれば良いではないか。止めはせんぞ」
紫苑はそう言ってから、ふっと笑った。
「だが、良いぞ。その心根は悪くない。妾は好きじゃ。
しかし、考えてもみよ。人を喰うことで鬼神は人と繋がる。そして殺せば、その繋がりは消える。これが何を生むかわかるか」
「いいえ……。ごめんなさい。わかりません」
「ぎゅっと繋がり、突然に解放される。それはつまり快楽じゃ。殺した鬼に聞いた話では、性の歓びにも似た感覚らしい」
「性、ですか」
涼子は気恥ずかしくなって、体を縮めた。
「鬼神にとって人を殺し、喰うことは極上の快楽なのじゃ。そして、その快楽を味わった者は、決して引き返すことはできぬ。
人を殺すかどうかは、妾たちにとっては絶対の境界なのじゃ。そうなったら、もう。殺すより他に方法はない」
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