八咫烏
そのカラスは首をたたんで、ぶるっと体を震わせた。同じ式神と言っても、紫苑とはずいぶんと違う。
「そんなことより、このひどい臭いをなんとかしてくれんか。その、豚の置物から流れてくる忌々しい煙のことだ。蚊に刺されるのが嫌なら、わしがその蚊を喰ってやろう。それとそろそろ、わしのことも名前で呼んでもらいたいものだ。名乗らせてもらってもよいかな」
「あっ、はい」
涼子は立ち上がって、床に置いてあった陶器の豚を手に取った。毎年、志穂とは誕生日にプレゼント交換をしている。その時にもらったものだ。蚊取り線香を引き抜いてから、涼子は火のついた線香の先を陶器の内側に押し付けた。
「わしは
「やたがらす?」
「知らんのか。学生の癖に勉強が足りんな。お前の国の神話に出てくるありがたい霊鳥の名前だぞ」
「は、はぁ。そうなんですか」
「初代の天皇とやらを導いた鳥の名前だ。神三郎殿を導くのがわしの役目だからな。由来に合わせて、自分でその名前をつけた。本当の名前は秘密だが、お主の乳を見せてくれれば教えてやってもよいぞ。わしは自分のものは目玉しかないから、見るだけだ。触りはしないから、安心してくれ」
「やめてください」
涼子は腕を伸ばして拒否した。陶器の豚が八咫烏に向けられる。
「ぐ、ぐふっ。やめてもらえんか。燃えさしかもしれんが、まだ臭いがするぞ。わしを殺す気か」
涼子は床に転がっていたマッチ箱を拾った。
「まだ、火はつけられますよ。失礼なことを言うなら、もう一度やります」
「げ、げふ。わかった。もうからかいはせん。紫苑様といい、佑子殿といい。どうして女はこうも怖いものか」
「女性差別はやめてください。それに女は男次第だそうです。そう母に教えてもらいました」
「わかった。わかった。降参だ。もう、勘弁してくれ」
八咫烏は咳き込みながら、首を何度も曲げた。
「あなたは九十九さんの使いなんですよね。必要なことだけ言って、早く帰ってください。それに大きい声は出さないこと。下に響くんです。それともうひとつ……」
「なんだ、まだあるのか」
涼子は答えずに陶器の豚を置くと、ベッドから薄い夏掛け布団を拾った。それを体に羽織るようにして前を合わせる。蒸し暑いが仕方がない。行儀の悪いカラスに覗かれるよりはマシだ。
「私はここに座っていますから、あなたはその場所から動かないでください。ここからでも話はできます。さあ、どうぞ」
「色気のない女だな」
「話に色気は必要ありません。さあ、早く。そうしないと今日あったことを紫苑さんに告げ口しますよ。聞いていればわかります。あの人が怖いんでしょう」
「わかった。それだけはやめてくれ。話す」
八咫烏は慌てたように早口でいった。首をぶるっと震わせる。
「神三郎殿の伝言だ。志穂とやらに取り憑いた鬼神を見つけた。午前九時に車で迎えに行くから、準備をしておくように。ちなみに見つけたのはわしだ。かなり弱っているから逃げる心配はない。安心しろ、あれは小者だ。神三郎殿と紫苑様なら、問題なく片付けるだろう」
「志穂は、志穂は無事なんですか」
「ああ。まだ、とりあえずは生きている。だが、完全に鬼神と混ざってしまっているからな。引き剥がせるかどうかはわからん」
「そんな……」
「一体化してしまった鬼神を引き剥がす手段はひとつしかない。憑依された人間の意志で、鬼神を拒否することだ。神三郎殿は、そのためにお主を同行させると言った。その人間の心を動かせるかどうか。つまり、救えるかどうかはお主次第というわけだ」
「わかりました。やってみます。九十九さんにそう伝えてください」
八咫烏はクウと鳴いた。
「いいだろう。さて、そろそろ頃合いだ。若い女の乳も見たことだし、約束どおりさっさと退散するとするか。他に何か伝えて欲しいことはないか」
「はい。あの、できれば迎えに来るのはこの道の先にある空き地の前にしてください。不動産屋の大きな看板があるから、すぐにわかると思います。家の前まで車が迎えに来たら、家族が変に思いますから」
「当然の心配だな。他にはあるか」
「えっと、いいですか。もし構わなければ、ひとつだけ質問させてください。
あなたはどうして、式神になったんですか。紫苑さんは九十九さんのことを好きだと言ってましたけど。あなたは違うでしょう」
「まあ、そうだな。神三郎殿は面白い人間だが、わしは男には興味がない」
「九十九さんは人を騙すような人じゃないと思います。それにあなたは、ただの人喰い鬼には見えません。ちょっと別の問題はありますけど。でも、それならどうして、あなたは仲間を狩る手伝いをしようと思ったんですか」
「仲間か」
八咫烏は笑った。
「おまえは殺人鬼を仲間だと思うか。人を喰い、喜びを感じる。我らの中には確かにそういう者がいる。だがそれは、人も同じだ。わしは人間の歴史の本を読んだが、たいした意味もなく同胞を殺す連中のことが山ほど書いてあったぞ。
我らの世界でも、ほとんどの者はそういう者がいることを恥じている。紫苑様も同じだ。そのような卑しい者を狩ることが、我らの責任であると思っている。そのためには我が身をも犠牲にするだろう。
だが、わしにはそこまで強い思いがあるわけではない。ただ、見たいのだ。世界がもうひとつあるという。それならば見てみたい。どうせいつかは死ぬ身なら、少しでも別の世界を知ってから死にたい。神三郎殿は自分の目を差し出して、その願いを叶えてくれると言った。それならば、奴隷になっても惜しくはない。わしの理由は、ただそれだけだよ」
八咫烏は首を直角にくいっと曲げると、そのまま飛び立った。言葉を重ねることも、振り返ることもない。
残していったのは、一枚の羽根だけだった。その羽根は黒く艶やかで、まるで濡れているように見えた。
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