右腕
「もう良いぞ」
あっさりするほど拍子抜けに、紫苑が離れていった。
「医者として言わせてもらうけど。今日一日は激しい運動をしない方がいいわね。お風呂には入っても大丈夫。これくらいで貧血になることはないと思うけど、レバーとか豚肉とか、鉄分の多い物を食べるようにするといいわよ」
佑子が事務的にいう。
「ほら、こっちを向いて。消毒してあげる。放っておくと紫苑のバイ菌にやられるわよ」
彼女は自分で持ってきたカバンを開けると、涼子の首筋をアルコールの染みた脱脂綿で拭いた。それからガーゼを当て、手際よくテープで止める。
「
「あなただからじゃないわ。見方を変えれば、人も鬼もみんなバイ菌のエサなのよ。さあ、こっちは済んだから、後はあなたね。紫苑、服を脱いでみて」
「ふん」
文句を言いながらも紫苑は服のボタンを外し始めた。
上着を脱ぐと、その下から革製の黒いコルセットがあらわれた。胸から下を、まるで鎧のようにぴったりと包んでいる。
昔、ヨーロッパで女性がこういうものを着ていたと聞いたことがある。息もできないくらいに窮屈なものらしい。コルセットには何本もの黒い紐が付いていて、それが作り物の腕とつながっている。
佑子は紫苑の右腕の紐を外した。
「次はここでいいでしょう」
木で作られた手は、手首から先の部分だけだった。それを佑子は丁寧に外す。むき出しの肩から伸びる白い腕が、ぞっとするほどなまめかしい。
「妾は本当は乳房が良いのじゃ。あれも早く神三郎様に触って欲しゅうて、うずうずしながら待っておる」
「あなたは式神なのよ。私も女だからわからないでもないけど、戦いの役に立たないものは最後にしなさい」
佑子は取り合わなかった。人形の手をそっとテーブルに置いてから、涼子の方を向く。
「紫苑の体はこうやって常に圧迫されているわ。血を吸うと、拘束を外した部分から戻っていくの。今日は二人分の血を吸ったから、右手は全部戻るかもね。ほら、始まるわよ」
紫苑の腕がビクンと、跳ねるように震えた。肘の先。皮膚が被さって袋のようになった腕の断面が少しずつ盛り上がってくる。中に無数の虫が隠れていて、出口を探しているように。無数の突起が伸びて手の形を作っていく。
正直な話、あまり気持ちのいいものではなかった。でも、紫苑の表情を見ているとそんなことはどうでもよく思えてくる。
紫苑は目を細めながら、戻っていく自分の手をじっと見ていた。懐かしさ。愛おしさ。そして歓び。その全ての感情がそこにはあった。
「ようやくだな。ようやく、紫苑の右手が戻る」
神三郎が涼子に頭を下げた。
「ありがとう」
「いえ、こんなことくらい。どうってことありません」
「さっきの約束は守る。君のために、僕たちにできる限りのことはしよう。詳しく話を聞かせてもらえるかな」
「はい。お願いします」
涼子もお辞儀を返した。
「神三郎様、見るのじゃ。手が、腕が。元に戻っておる。どうだ。美しいじゃろう。これは神三郎様の物じゃ。妾の全ては、神三郎様のものじゃ」
紫苑の興奮した声が、涼子の注意を引き戻した。
肩から伸びる白い腕のその先にある爪まで、紫苑は誇らしげに神三郎の前にかざした。細くしなやかな指を扇のように開いて見せる。
「さてと。私はもう、用がないみたいだから。そろそろ行くわ。患者さんも待っているしね。兄さんも元気で。せっかく捕まえた貴重な処女なんだから、怖がらせて逃さないようにしてね」
佑子が立ち上がった。神三郎が声をかけようと口を開きかけたが、軽く首を振ると一度も振り返らずに出て行く。
靴音がさっきよりも少し高いような気がした。そしてその完璧なまでに美しい横顔が、涼子にはどことなく寂しそうに感じられた。
※ ※ ※
「良い
涼子が事務所を出るのを見届けてから、紫苑がつぶやいた。
賑やかな時間が終わり、また二人になる。神三郎は棚の上に置いてある十四インチのテレビをつけた。ブラウン管が微かに唸るような音をたてる。
「紫苑が人間を褒めるのは珍しいな」
「良い目をしていた。覚悟のある目じゃ。神三郎様もそう思ったであろう」
「まあ、そうかな」
神三郎は少し考えてから相槌を打った。涼子は驚きもする、怖がりもする。でも、そういった普通の反応がいい。全てを受け入れて、それでも決して自分を偽ろうとはしない。
「あの娘なら、良いぞ」
「何がだ」
「あの娘になら、神三郎様の子を産ませても良いと言っておるのじゃ。妾はどうせ、人の子は産めぬ。そして妾はこちらの世界では年を取らんのじゃ。神三郎様も、いつかはいのうなってしまう。だから妾は形見が欲しい。何百年も経って、たとえ青い肌の化け物になったとしても。妾は決して神三郎様のことを忘れぬ。神三郎様の子に、孫に。式神として永遠に仕えよう」
神三郎はうっと息を詰まらせ、ようやく呼吸を取り戻すとそのまま咳き込んだ。自分で胸を叩く。
「紫苑、あんまり僕を驚かせないでくれ」
「その程度で驚くなど、神三郎様も、まだまだ覚悟が足らぬな。一度、極上の
「ああ。そうだったな」
神三郎は、紫苑を呼び出す前には腕があったはずの空間をなでた。代わりに紫苑がいるから。自分の意識の中では、まだそれはそこにある。
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