誓い
初めて紫苑と会ったのは、三年前のことだった。陰陽道の術で異界にアンテナを伸ばし、神三郎は何年もの間、式神として使えそうな強い鬼神を探していた。
術を使ったとしても、そこにいる鬼神と自由に接触できるわけではない。それは鬼神がこちらの世界の人間と契約する時と同じだ。
この世界から逃れたい。力が欲しい。そう思い、念じる心が世界に綻びを作る。そして相手の世界に綻びがあって、初めてコンタクトが可能になる。
鬼神は力と甘言で人を誘い、陰陽師は術で鬼神の心を操る。契約の言葉で相手を縛り、最終的には奴隷にする。ただし人は鬼を喰えない。違うのはそれだけだ。
「陰陽師か。噂に聞いたことはあるが、珍しいのお。新しい式神を求める者が、まだ向こうの世界にもおったのか」
最初に心に触れた時、紫苑はすぐに神三郎の正体を見破った。そして余裕を見せるように、ふふっと笑う。
「残念じゃが、そう簡単にはいかぬぞ。
「紫苑……」
神三郎は驚いた。鬼神の姫の名は聞いたことがある。だがそれよりも、自分から名を明かしたことの方に底知れぬ凄味を感じた。
名前を知られれば、それだけ敵の術にかかりやすくなる。
「どうじゃ、妾を奪ってみぬか。できるものなら、呪術で妾を従わせてみせよ。負ければ、そなたの式神にでも何でもなってやろう。
ただし、妾が勝てばお主の片腕をもらう。そして妾に従え。妾は人のいる世界に行かねばならぬのだ。片腕では、向こうに行けるのは首だけになろうが。妾ならそれでも十分じゃ」
「僕を宿主にはしないのか」
意外な申し出に、神三郎は驚いた。
人の世界に侵入するために、大体の鬼神はそうする。
神三郎の父親の場合と同じだ。足か腕。まずは体の一部を食い、自分の首を宿主に寄生させる。そして別の人間を喰らうことで、残りの体を取り戻す。
だから、来たばかりの式神は弱い。こちらで人を喰って、初めて本来の力を発揮する。陰陽師は生贄を丸ごと喰わせて式神を手に入れる方法を考えたが、それはもう、千年も前の話だ。
「妾にそのつもりはない。腕や体を共有しても、お互いに何年かは生きられるじゃろう。だが、我らと人とでは体の強さが違う。意識も影響されて、やがては弱い方が消えていく。
そなたに嘘は言わぬ。本当に、首だけで良いのじゃ。残りの体は屋敷の地下室にでも保存しておけばよい。そうすれば、心臓は妾に血液を送り続けてくれる」
「本当に、別の人間は喰わないのか」
「ふん。妾は
どうじゃ、申し出を受けてはくれぬか。鬼神の中にも妾ほどの者は、そうはおらぬぞ。それに、どうせ戻れぬのじゃ。望みを果たした後は、妾をそっくりそなたにくれてやってもよい。生首だけの
陰陽道の術で。いま、神三郎の心は紫苑の心と触れている。何も見えない。音も聞こえない。ただ、心の声だけが伝わってくる。
ここ数年、神三郎はしばしば術を使っては鬼神の世界に侵入してきた。そこで百を超える鬼神の心に触れてきたが、紫苑のような相手は初めてだった。
覚悟がある。勇気がある。真実がある。
鬼神を闇雲に憎む気持ちは、鬼神たちを知ることによって消えた。だが、鬼神に心から共感したのは初めてだった。
神三郎は腹を決めた。
「申し出は受ける。でも、力比べはしない」
「どういうことじゃ」
「正直に言おう。僕は最初から自分の体を喰わせて鬼神の力を手に入れるつもりだった。首から上だけを残して、他は全部くれてやってもいいと思っていた。僕の望みは向こうの世界で人を喰らう鬼神を狩ることだ。意識があるうちに戦って、戦い抜いて。自分の心が消えてしまう前に、自分ごとそいつを始末するつもりだった」
「そなたは、恐ろしい男じゃな」
紫苑はまた、笑った。だがその笑いには、さっきとは違う別の感情が含まれているようだった。
「でも、もうやめた。僕は自分の目的のために君を騙して殺すつもりだったのに、君は僕を殺さずに目的を果たそうとした。君の勝ちだ。僕の腕を使ってくれ。その代わりに、人を殺して侵入する鬼神を狩るのを手伝って欲しい。そうしてくれたら、僕は君を命に代えても守る」
「面妖な男じゃ。そなたは人でありながら、鬼の言葉を信じるのか。力ずくで良いではないか。勝った方が契約と術で心を縛る。それなら簡単じゃ。後で裏切られる心配もない」
「それだけじゃあ足りない。僕は欲張りなんだ。君は首だけしか向こうに行けない。僕はそのために腕を失う。強い相手と戦うからには、お互いに補い合わなきゃいけない。僕らは同じ目的を持って信頼し合うパートナーになるんだ。主人と奴隷よりも、そっちの方がずっと強い」
「そなたは妾を口説いておるのか」
「ああ。そう思ってくれてもいい」
命を交わす約束だ。確かにこれは、プロポーズと変わらない。
「君は自分の望みを果たしたら僕の物になる。その代わり、僕も望みを果たしたら、君の物になることを誓う。
鬼神を狩りながら、一緒に人間の世界で暮らそう。そして何十年か先、鬼神を狩る力が無くなったら僕を食べてくれ。君は向こうの世界では 年を取らない。僕が死んだその後も、僕のいない世界で。人を喰らう鬼神から、力のない人間を救って欲しい」
「ふん。まったく、とんでもない男じゃな。自分がいなくなっても永遠に女を縛ろうとする。言葉はうまく聞こえるが、詰まる所はただの
突然、柔らかな感触が生まれた。
女の胸だ。手に伝わってくる。トクン。心臓が鳴っている。
「指先だけ感覚を繋げた。妾の術じゃ。その申し出、受けてやろう。ただし、契約は交わす。父を殺され、その地位を奪われたとはいえ、妾も誇り高き王族じゃ。タダで人の腕をもらうわけにはいかん」
指先が乳首に触れた。
「紫苑……」
「こうしよう。良いか、そなたは妾に左腕を捧げよ。その代わりに、妾はそなたにこの心を捧げよう。もちろん、そなたに首だけしかない女子を愛せとは言わぬ。妾の片想いで良い。どうじゃ。受けてもらえるか」
胸の鼓動が急に早くなった。固い乳首の感触が、神三郎をたじろがせた。その形がわかるように。指がそっと動く。
「君はまだ、僕の顔も見ていない」
「そうじゃな。だが、見ずともわかる。それに向こうに行けば、飽きるほど見られるのじゃ。でもそなたは、ここでしか妾の
紫苑がそういうと、瞬時に視界が開けた。目の前に、人の形がある。いや、鏡だ。大きな姿見が女性の全身を映している。
紫苑は全裸だった。
神三郎は反射的に唾を飲み込もうとして、ここには自分の肉体がないことに気づいた。ここにあるのは思念、魂だけだ。だが、それにしても美しい。鬼神でも人でも、これほど美しい女性は見たことがない。
長い黒髪が張りのある乳房にかかっている。人差し指にあるふわりとした感触はそれだ。紫苑は神三郎とつながっている指先をゆっくりと動かしていった。乳房を離れてうなじへ、そして肩から脇腹をなぞるようにして臍へ。そして腿の間にある小さな繁みにたどり着くと、そこを開くようにしながら指を滑りこませた。
濡れている。
ああ。それは紫苑の意思だ。神三郎を求めて反応している。それを指先が感じている。
「妾に名前を聞かせて欲しい」
「神三郎。生まれた時の名は鬼三郎」
「妾のもう一つの名は
紫苑の肩が神三郎に触れた。作り物ではなく、本物の方だ。木とは違って柔らかい。
「何を考えておったのじゃ」
「少し、昔の事を思い出していた」
「妾もじゃ」
紫苑は少し離れて、手を神三郎にかざした。
「この手を覚えておるか。これは神三郎様が妾に触れた時の手じゃ。あの時、確かに神三郎様は妾に触れた。暗い、暗い向こうの世界の片隅で。妾の体は、今でも神三郎様の事を想うてうずいておる」
紫苑は乳房のない胸のあたりに、その手を置いた。
「だが、それでも良い。あの時は、全てあきらめておった。でもいまは、神三郎様に触れることができる。全てはあの者たちの血のおかげじゃ。佑子と涼子に、感謝をせねばならぬな」
「ああ、そうだな」
「なんじゃ、にやけておるな。慌てて隠すでない。妾は神三郎のことならみんなわかるのじゃ。いったい何がおかしいのじゃ」
「最初から二人にも、そう言えばいいのに……」
「バカ者、そんなこと、言えるわけがなかろう。妾は神三郎様の腕を喰ろうた鬼じゃ。憎まれたくらいでちょうど良いのだ」
紫苑はふんと鼻を鳴らしてから、目をそらした。
「もうこの話は終わりじゃ。それよりも早く、涼子の友人とやらを救う手立てを考えるぞ。そうじゃ、カラスの爺いはまだ戻らんのか。全く。あのすけべえめが。どうせまた、ストリップ劇場とやらで女の裸でものぞいておるのであろう」
「いや、そうでもないらしいぞ」
コンコン。タイミングよく、ガラスが叩かれる音がした。
神三郎は立ち上がった。
規則的な音が三回。間違いない。これはノックの音だ。
いつの間にか外はもう、すっかり暗くなっていた。そろそろナイター中継が始まる頃だな。腕時計を見て、神三郎はちらりとそう思った。
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