第36話 出発



「郷子ーっ」


 とある日の早朝、自室で幼稚園に行く準備をしていた郷子は表から名前を呼ばれて窓から外を見た。


「おーいっ」


 大好きなお隣の少年が笑顔で手招いていた。

 郷子は部屋を出てとたとたと階段を降りた。まっすぐ玄関を開けて、外に出る。正面に立っていた義経が、両手を広げて待っている。

 郷子は彼に駆け寄ってその腕に飛び込——む直前で横合いから伸ばされた腕によって襟首を捕まえられた。

 郷子を捕獲した頼朝は、そのまま幼女を抱き上げて何事もなかったかのように歩き出す。


「さ、行くぞ」

「ちょっとちょっと兄さんっ!」


 ゴール直前で前世の正妻をかっさらわれた義経が兄を追いかける。


「郷子放して! 僕が抱っこする!」

「兄さんに任せろ」

「ちょっと兄さん!」


 三男と九男が幼児を巡って争っている後ろで、六男が『河越さんへ、娘は預かった』と書いた手紙をポストに投函する。とても手際の良い誘拐である。


 普通なら警察に通報されると思うが、頼朝がなんの躊躇いもなく進んでいくので、弟達もそれに従う他ない。


 電車に乗り込んで席に着いた後で、頼朝が静かに切り出した。


「いいか、義経」

「……何?」


 当たり前のように郷子を膝に乗せている兄にムカつきながらも返事をする義経。


「今から行く北条家ではお前は俺達と別行動を取ってもらう」

「は?」

「向こうに着いたら義時が案内する。奴に従え」


 義経は目をぱちくりと瞬いた。なんだか今日の頼朝は素っ気ない。隣に座る範頼もずっと無言で窓の外を眺めている。


(なんか、やだな……)


 義経は俯いて口を尖らせた。

 頼朝と範頼は弟の自分から見てもとても仲が良いのに、御霊がどうとか命令がどうのとか、前世に関わることで今が険悪になるのは嫌だった。


 そりゃ義経だって強くはなりたい。御霊の力があれば教経や知章にも対抗できるかもしれない。


 しかし、義経は自分がなんの御霊を持っていたのかも覚えていない。これから行く北条家で御霊の封印を解くと頼朝は言った。

 封印が解かれたら、いったいどうなるのだろう。


(あれ? そういえば……)


 ふと違和感を感じて義経は首を傾げた。

 頼朝は範頼に向かって言った。お前の御霊を封じたのは俺だ、と。


(お前達の、じゃなくて、お前の、なのか?)


 昨日の頼朝はあくまで範頼に向けて言っていた気がする。


(じゃあ、僕は……?)


 些細な言い間違いかもしれないが、妙に気になる。

 兄さんのことを何も知らない。

 昨夜、範頼はそう言ったが、自分に至っては頼朝のことだけでなく自身のことさえ何も知らないのだと義経は思った。


 知ったら、何か変わってしまうのだろうか。知りたいと思う気持ちと、このままでいたいと思う気持ちがある。範頼も本心ではそうなのではないだろうか。

 何かを知って、もしも今までのような仲の良い兄弟でいられなくなったりしたら……


 ふと視線を感じて顔を上げると、頼朝の膝の上の郷子と目が合った。突然三人組の男に誘拐されたというのに、先ほどから一言も文句を言わない心の広い幼稚園児は、見知らぬ場所に連れていかれる不安など微塵も感じさせずににっこりと笑った。


(そういや、なんで頼朝兄さんは郷子を連れてきたんだろう)


 郷子を連れてきたということは、少なくともこれから向かう場所には危険性はないということだろうか。

 そう考えて、義経は何か釈然としないものを感じた。はっきりとはわからないが、何か腑に落ちない気がする。


 じっと窓の外を睨み続ける範頼と、不安をありありと表情に浮かべる義経を眺めながら、頼朝は膝の上に乗せた郷子の頭をぽんぽんと撫でた。



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