第35話 混乱




 中学二年生になって早三ヶ月。記念すべき十枚目の零点答案用紙を鞄に入れて、義経は意気揚々と帰宅した。

 激怒した数学教師に居残りレベル6の刑に処されていたので、普段より大分遅い帰宅時間だ。範頼の方が先に帰っているだろう。

 ちなみにレベル6というのは教師の怒りの表現度合いである。今日は巨大三角定規の先端を突きつけられたまま二等辺三角形の面積を求めるという斬新な体験をした。レベル10まで行ったら日本刀を突きつけられるかもしれない。


「たっだいまー! 兄さん、お腹空いたーっ……」


 だんっ! と机を叩く激しい音に出迎えられて、義経は今の扉を開けた体勢のまま固まった。

 テーブルに拳を打ち付けているのは範頼だった。椅子に座って静かな表情を崩さない頼朝の前に立ち塞がるようにしてテーブルの前に陣取っている。射すくめるように睨みつける範頼を、頼朝は冷静に眺めている。


「……どういうことだよ」


 低く濁った声が張り詰めた空気を揺るがせた。範頼は食い縛った歯の隙間から言葉を吐き出す。


「あの連中はなんだよ!? 兄さんが俺を見張らせてたんだろ!」


 佐々木兄弟が突然現れ、恐らくは平氏の手の者を範頼から遠ざけた。

 得体の知れない男だったが、すぐさま攻撃に移るような気配は感じられなかった。範頼にとっては男の正体よりも、四人がかりで見張られていたことの方がよっぽど重要だった。

 いったいいつから、何故見張っていたのか。それを明らかにしなければならない。頼朝の口から答えを聞くまでは、今回は一歩も引かないつもりだった。


 しばしの沈黙の後、頼朝は静かに答えた。


「お前達はいつ平氏の刺客に襲われるかわからない。何かあった時は守るように、数名の部下に命じている」

「自分の身ぐらい自分で守れる!」


 範頼はもう一度テーブルを殴りつけた。食い縛った歯がぎりっと音を立てて軋む。


「兄さんは俺のことを信用していないのか!? 御霊の力が使えないから役立たずだと思っているのか!?」


 吠えるように兄を問い詰める範頼の姿に、詰め寄られている頼朝本人よりも見ているだけの義経の方が戸惑っていた。いったい何があったのか、範頼は完全に逆上している。


「御霊を使える全成にはいろいろ話してる癖に、俺には何も教えてくれない! 俺は兄さんのことを何も知らない!」


 義経はハッとした。何かと謎の多い頼朝のことを、義経と範頼はいつも「胡散臭い」「七不思議じゃ足りない」などと茶化して曖昧にしてきた。知りたいという気持ちがない訳はなかったが、二人とも頼朝を信用していたから、無理に問い詰める必要はないと思っていた。

 それが、全成の登場と佐々木兄弟の件で、範頼の心には疑念が突き刺さった。

 全成のことを弟として遇しながらも部下として命令を与えてもいる頼朝を見ていると、自分達はとんでもない思い違いをしてきたのではないかと思えてくる。

 自分達は溺愛されていると思い上がっていた。だが、信頼はされていない。

 範頼には許せなかった。自分を侮る頼朝が。暢気に兄を信じてきた自分が。


「何一つ教えてくれない! 俺は何も知らない! 生まれ変わっている味方がどれくらいいるのかさえ知らない! なんで話してくれないんだ!? 前世で殺した弟は信用できないってのか!」


 ドンッ!


 頼朝が勢いよく机を叩いた。

 その力強い音は居間の空気を震わせ、範頼と義経はビクッと肩を震わせた。


 頼朝は無表情に据わった目で範頼を見据えた。視線を受けて、範頼は狼狽えて一歩後ずさった。

 たった今まで頼朝を問い詰め睨みつけていたのは範頼の方だったのに、一瞬で立場が逆転してしまった。


「……一つだけ言っておく。お前が御霊を使えないのはお前のせいではない。お前の御霊を封じさせたのはこの俺だ」

「……え?」


 頼朝の口から発せられた思いも寄らない台詞に、範頼も義経も愕然として言葉を失った。


 立ち尽くす弟達の混乱をよそに、頼朝は静かに立ち上がった。


「範頼、義経。明日は学校を休め」


 頼朝の声は穏やかだったが、有無を言わさぬ強さを持っていた。


「そこで教えてやる。真実をな」


 義経はごくりと唾を飲んだ。範頼は迫力に飲まれて頭が真っ白になっているようだった。


(真実……)


 義経の脳裏に思い浮かんだのは、知章に言われた「天狗」という言葉だった。


 義経の肩の上で、弁慶がふるりと震えた。

 それはこれから始まる困難な事態を予期した恐れのようでもあり、戸惑う義経を鼓舞しているようでもあった。

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