第32話 役目
夜半過ぎ、市内で一番大きな病院はひっそりと静まり返っている。時折響く看護師の足音以外は、目立った音はしない。
とある病室の窓辺に、病院にふさわしくない一升瓶を抱えた男が、手酌で月見酒を愉しんでいた。
長身で目つきのきつい——だが、粗野な所作の中にどこかしら気品の欠片も感じさせる——源義平だ。
「いい月だな。悪だくみでもしたくなるぜ」
言いながら、盃を傾ける。
いかにも健康そうな男が病室で酒盛りをしているというのに、咎める者は誰もいない。この病室は個室で、部屋の住人は義平の弟だからだ。
「なぁ、朝長。覚えているか」
月を見たまま呼びかけた義平の声に応えて、三十歳前後の線の細い男が気だるげに半身を起こした。病みつれた顔は月明かりだけの病室でも青白く見える。長い髪を無造作にかき上げ、朝長は兄の次の言葉を待った。
「十九年前、転生した鬼武者の元に集った俺達は、約束をしたよな」
十九年前の嵐の夜。水の御霊が使われた気配がはっきりと届いた時、義平は自分が前世の記憶を持って生まれてきた意味を悟った。
朝長も同じだったのだろう。気配を頼りに前世の弟である頼朝を探し出して再会した後すぐに、義平と朝長は頼朝には内緒で約束を交わした。
いや、約束というよりは、誓いといった方がいい。
「今生では、どんなことがあっても源頼朝を守る、と」
義平の言葉に、朝長は深く頷いた。
忘れられない光景がある。今生でも、真っ先に思い出した前世の光景はそれだった。
長男の義平と次男の朝長にとって、最後に覚えている記憶の中の頼朝は十三歳の子供だった。
二人が死んだ後も生き延びて、やがて平氏を倒して武士の世を作ったというのを知って驚いた。
朝長の脳裏に蘇ったのは、敗走して逃げ込んだ山中、兄と弟と、そして父——。
父、源義朝は誇り高い武士だった。
その誇り故に、惨めな敗亡を認められなかったのかもしれない。
朝長が最期に見たのは、血に濡れた刀を携えて呆然と立ち尽くす弟の姿。
その手で父を殺し、その瞬間に源氏の頭領となった少年。
ありとあらゆる責をその身に追うこととなった、元服したばかりの十三歳。
そこで、朝長の記憶は途切れている。
記憶が蘇ったのは転生して間もなく、幼児の頃は時折脳裏にちらつく映像の意味がわからなかった。少し大きくなるとそれが前世の記憶だとうっすらと理解したが、何故前世の記憶を持ったまま生まれてきてしまったのか不思議だった。
前世の記憶と御霊の力をどう扱えばいいのかわからなかった。
だが、十九年前のあの日、頼朝の声を聴き届けた時、わかった。
弟の戦いは、まだ終わっていなかったのだと。
そして、今度こそ、己の役目を果たせるのだと。
源氏の頭領、源頼朝を守る役目を。
「俺は源頼朝を守る。この記憶も力も、そのために持って生まれてきた」
義平が言った。朝長も同じ気持ちだった。
前世ですべてを背負わせてしまった弟。彼が望む世界を作るためならば、この命など惜しくはなかった。
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